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私立学校の理念のタイプ[2]

私立学校の理念のタイプのつづき。理念のタイプを整理する前に、少しウダウダ考えてみましょう。現代思想についてわかりやすい著述を書いている若い学者―東浩紀さん、北田暁大さん、鈴木謙介さん、仲正昌樹さんなど―さんは、モダンの人間を理念を内面化させる人間とし、ポストモンダンの人間を理念をメタ化したり、データベース化したりして可視化する人間として、大雑把にわけています。Web社会あるいはバーチャル社会を論じるにあたり、その2つのグレーの部分も論じていますが、基本的には内面化と可視化は次元が異なるものと設定していると思います。

★前者を持続可能にしたいのが私学の系譜。前者をなんとか維持したいが、それが大家族の崩壊や隣人との疎遠化によって不可能になっているから、可視化したルールで規制しよう、あるいは可視化した環境によって統治しようという流れを止められないというのが公立学校のベクトル。そこで可視化が不可視化を生み、見えないものを問わない環境下にあっては、「私は私以上でも以下でもない」というポストモダンな人間が出来上がるという感じでしょうか。

★では、それはあまりにムゴイ事件を引き起こすので、なんとか規律の内面化の復権をしようではないかというのが、どうも教育心理学の動きのようです。法律学の分野では、そんなのはめんどうだから、教育の中にリーガルマインドを持ち込んで、学校の法化現象を生めば、民事や刑事事件に発展させないためになんとかなるというわけですから、一見教育心理学とは間逆のようですが、規律統治型であることに変わりはありません。

★規律の内面化も規律の可視化もそれが心理学というドメインで使われているのか、法律学というドメインで使われているのかの違いで、共同幻想に過ぎないのです。だから、理念の内面化が私学の系譜で、理念の可視化が公立のベクトルなどのようにはいかないのです。内面化も可視化も形式化とか構造化とかいう言葉で捉え返されるので、結局はドメインの問題ではなく、構造の問題だということになります。

★教育の理念のタイプは、構造の違いなのです。まあしかし、こんな簡単な議論で、2000年以上世に受け継がれてきた内面と外面の二元論が打ち破れるはずもないので、内面というドメインにおける構造として私学の教育理念のタイプを分析するところから始めておけばよいですね。あとで、ドメインを外せばよいわけですから。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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