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私立学校の理念のタイプ[4]

私立学校の理念のタイプ[3]のつづきです。直接理念にかかわることではないのですが、忘れないうちに書き留めておかなくては・・・。「私は私だから私である」という表現は、鈴木謙介さんなら、それは情報社会あるいはポスト近代社会の価値を喪失したいやそもそもそのことすら感じない若者たちの存在根拠のあり方だということになるでしょうか。

★それを聞いた大人たち、つまり近代社会を生き抜いてきた人間たちは、それではモラトリアムではないか、価値観を持たなくてはいかん、今の若者はなってないとなるのでしょうか。文部科学省の場合だと道徳をきちんと教えなくてはとなるのでしょうか。

★私立学校の場合だと、ここに「理念」が入ってくるので、問題ないとなるのでしょうか。そう問題はないのです。ただ、この一見当たり前のことのようなのですが、これは日本の近代教育が成立する19世紀末の淵源に遡る基本的な問題です。

★富国強兵!殖産興業!を支えてきた戦前の近代教育。キリスト教的な倫理や儒教的な倫理が経済や法律に合理的に結びつくや、そういう神々の闘いの価値観などなくても経済や法律は動き始めたわけです。国家としての大きな物語は戦後徐々に消え、89年のベルリンの壁崩壊後吹っ飛びますが、宗教としての大きな物語は19世紀末以降どんどん消えていくわけです。したがって、すでに「私は私だから私である」という同義反復は生まれていたわけです。

★そんなとき、多くの私立学校がそれではいけないんじゃないかと、国家とあるときはしたたかに闘いながら、理念のある人間教育の場を保守してきたわけです。ここで問題なんですね。だからって、同義反復的人間存在のあり方がダメだという先ほどの大人たちのような考え方では困るのです。多くの私立学校は、ここが違うのです。同義反復、トートロジーを受け入れるのです。ここらへんをあまり丁寧に語り合わないで、一足飛びに「理念」の話をしてしまうと、私立学校は非常に偏った価値を押し付けているように(そういう学校ももちろんあるので、学校選択眼力は必要なのです)誤解されるのです。

★われ思うゆえにわれありと言ったところで、考えている私は存在しているという私なのだということで、結局のところ私は私だと言っているに過ぎません。が、「過ぎない」かどうかはわからないのです。

★もしかしたら日本のポストモダンは、この「私は私である」というトートロジーを崩したいのかもしれません。なんてったって、これは「私はありてあるもの」の言い直しだからです。このポストモダニズムに対し、コンテンポラリアートは、徹底的に「私は私である」を肯定しているように思います。

★一方で「私は○○としての私である」と言った時に、「○○として」の部分は意匠に過ぎないとか装飾に過ぎないとか、手段に過ぎないとか考えてしまう傾向にあるわけです。ここの部分は倫理観だったり、価値観だったり、主観的な部分だったりして、削除される部分ですね。近代官僚日本(吉田茂の官僚政治とはまた違う・・・)のレトリック観はそういうものだったのでしょう。

★しかしこれとは違う「理念」をもつ私立学校があったわけです。同義反復の豊かな表現は、凝らされた意匠でも装飾でもなく、私そのものであるという立場です。ここに排除主義とは違う寛容主義がでてくるわけです。

★公立学校において「理念」が希薄なのは、しょせん道具としての「目標」にすぎないとか、インセンティブ(にんじん)に過ぎないという考えがどこかにあるからです。「私は私である」では大事な価値を喪失しているのではないか、もっとちゃんとしろと言われ、「私は○○としての私である」と言えば、何を着飾っているのだ!チャラチャラするなと言われるわけです。じゃあどうすればよいのか????

★ウイーン世紀末の象徴「ベートヴェン・フリース」。私立学校と同じ質料があります。ベートーヴェンという作曲家は、彼自身の苦悩の変奏曲をシンフォニーを創造することそれ自体で、世界の同根の苦悩を解消した芸術家だったという位置付けでしょう。苦悩のトートロジー以外に苦悩を解消するダイアローグはないという滅茶苦茶すごい覚悟がそこにはあるのです。喜怒哀楽は存在感情の変奏曲であり、トートロジーだということなのです。そしてその生のトートロジーこそマザー・テレサがこれまた同義反復する愛だということなのかもしれません。これはちょっと書きすぎですが。。。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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