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2007年9月

学校選択というコト[06]

学校選択というコト[05]のつづきです。(1)の「 自己実現プログラムの自覚的実行力」について、海城のケースを考えてみましょう。男子校で、「自己参照基準」を自他の共同主観という鏡に映して、その正当性、妥当性、信頼性を問う学校というのはそう多くはないのではないでしょうか。

★たいていは、「自己参照基準」は父親あるいは教師あるいは学校の基準を押し付けられたままになっていると思います。ここで誤解されては困るのは、「押し付け」という行為が全面的にダメだとは言っていないのです。押し付ける側が、自分の「自己参照基準」を常にチェックする議論や探究を続けているのならば、それはそれで社会としては善ですね。

★ただ、それでは社会は成長しないかもしれないのです。あるレベルで成熟し、閉そく状況を生んでしまいます。やはり生徒と学校(教師、父親なども)は互いに「自己参照基準」を照合し、互いに自己のクオリティと学校という組織のクオリティの一致部分とズレの部分を対話するチャンスがあるのが、個人も組織も社会も成長し続ける戦略でしょう。

★その意味では、海城は、実に丁寧に、学校側は学校側で自己批判的「自己参照基準」の研鑽を積み上げていますし、生徒も自ら「自己参照基準」を振り返るチャンスが用意されています。

★世の中では、教科の授業は、とかく生徒の成績を伸ばす方法論だけが求められていますが、理科では科学的ものの見方を学び、国語や英語では言語とは何かを問いかけ合い、社会では、社会科学的ものの見方を豊かにし・・・とかなり進学準備を超えた考え方を先生方は持っていますね。

★それだけではなく、「知性」「感性」「理性」と「自己参照基準」が「自問自答」し始める学びのプログラムが独自に創られているのがすごいですね。「知性」に関しては「社会科卒業論文」プログラムが代表的です。「感性」に関しては「プロジェクト・アドベンチャー」をベースに独自のプログラムを編集しています。「知性」が働くには実は研ぎ澄まされた「感情」機制によって多角的に記憶とイメージが連合される必要があるのです。ですから、自分の身体を人間関係と自然の中に投げ出して、小学校の時の単純な記憶の学習で眠ってしまっていた「感情」を覚醒する必要があるのですね。「理性」に関しては、これはもう教師との真剣勝負の中で鍛えられます。これは担任の先生方が競い合ってアウトプットする「学年通信」プログラムです。

★教師の熱いメッセージは、「理性」そのものです。「知性」の限界は「理性」というイマジネーションによって乗り越えられるはずという信念。この「知性」を超える「イマジネーション」が大好きだったのはアインシュタインでもありますね。ですから[図COS]のようなコミュニケーションのオープン・システムの回路ができあがっているのが海城学園なのです。

★言うまでもなく、[図CTL]におけるレベルは5なのですが、このレベルはすでに中学入試問題で求められているのです。全国学力テストで、PISA型テストにおけるグローバルスタンダードが話題になっていますが、海城の場合は、中学受験の段階で、とっくに国際標準を超えています。[本間 勇人 Gate of Honma Note

*参照→「名門校の条件」~海城の新しい人材教育(Netty Land かわら版2007年9月号)

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学校選択というコト[05]

学校選択というコト[04]のつづきです。。(1)の「 自己実現プログラムの自覚的実行力」について、鴎友学園女子のケースを考えてみましょう。

★同学園は、ミッションスクールであるにもかかわらず、[図COS]にある学校当局の「自己参照基準」のテキスト批判思考が徹底しています。聖書の文言をそのままそらんじるような使い方をしません。独りよがりにならないように、聖書を権威や権力の手に渡さないように、教育理念の批判的ヘルメノイティーク(解釈)を学内でやっています。ここには議論の場があるということです。なるほど内村鑑三に薫陶を受けた方々が創ってきた学校です。

★また、「言語」「園芸」「聖書」は教育活動の3つのドメインですね。それぞれ「知性」「感性」「理性」に対応します。この三つをさらに違う言葉で置き換えると「誠実」「慈愛」「創造」です。これは鴎友学園女子の校訓でもあるんですね。

★この校訓は生徒にとっては「自己参照基準」になりますが、生徒たちは、授業、論文、芸術活動、部活などの実践の中で、これらが他者からただ押しつけられただけではなく、自己と他者の共有すべきゴールデンルールであることにやがて気づきます。

★思春期時代に、学園に対する抵抗も感じるときがあるものですが、その幅が大きいほど、大きな成長を果たすと、先生方は見守ります。この抵抗と成長こそ「自問自答」の回路です。そして学園内のコミュニケーションのオープン・システム(リアルだけではなくウェブの世界も構築しています)があるために、その自問自答が他者との対話につながったとき、ブレイクするわけです。能の奥義「序破急」がここにはあります。宗教や文化が違っても、真理は真理。キリスト教の戦略ですね。

★「DB」に関しては、言うまでもなく完璧です。破格の大学進学実績を考慮すればそれは推察できるでしょう。しかし、大事なのはその引き出し方。脳科学の成果も取り入れて、どのように整理し、その後にそれをどのように引き出し、再構築するのかまで、緻密にプランしています。まだまだ仮説の段階だと謙遜されますが。「外界」の刺激は「園芸」という体験から十分に受けられるでしょう。「園芸」とは自然の恵みをもぎ取ることではないのです。科学と産業と組織が自然と結びつくという自然と社会の統合生態系を考えるヒントになるのですね。したがって、多くの生徒たちは[図CTL]におけるレベル5に到達するのです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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学校選択というコト[04]

学校選択というコト[03]のつづきです。(1)の「 自己実現プログラムの自覚的実行力」について、共立女子のケースを考えてみましょう。

★共立女子は、ミッションスクールではないにもかかわらず、[図COS]にある「自己参照基準」と「知性・感性・理性」の「自問自答」の回路が非常によく回転しています。ミッションスクールでない場合、「自己参照基準」は「学校文化のルール」に置き換わって、一方通行的に「知性・感性・理性」の判断がチェックされるという可能性が高いのですが、共立女子は自問自答が連綿と続くコミュニケションのオープン・システムが出来上がっています。

★美術を中心とする芸術教科のプログラムは、大変特徴的です。技法にとどまらず、自己と他者の関係、自己の中の自己の発見を、表現を通して気づいていく仕掛けが確立しているのです。コミュニケーションベースの数学というたいへんおもしろい発想の教科もあります。これは「知性」と「理性」の境界線を対話の中から実感できるチャンスがあります。

★コンピュータの接続環境はすべての教室にありますし、実は美術の時間でも大いに使います。DB(データベース)という発想は、体験の中から生まれます。そしてとにかくイベントが多いので、外界からの情報収集はあまりにも豊富です。それから共立女子の位置する神田という街自体が知の集積都市です。

★国語科の読書指導と社会科の新聞記事ベースの問答法は、「自問自答」の回路を大回転させる機会です。とくに「共立」を「ともだち」→「友愛」と自覚的に読みかえる学校文化こそ、「自己参照基準」を独り善がりなルール設定になることを防ぎます。また英語科のオリジナルテキストは、英語のスキルをベースに、英語で社会問題を考える仕掛けになっていますから、「自己参照基準」は国際標準との照合がなされます。

★高校になると論文編集作業が、先生とマンツーマンで始まります。コミュニケーションのオープン・システムは共立女子のあらゆる教育活動で自覚的にプログラムされているのです。渡辺教頭先生は、教育の質は、暗黙知をいかに可視化しつづけるかにあると語ります。可視化することで、多様な教育活動の関係性を明確に意識できると同時に、可視化できない暗黙知がさらにあることに気づくということです。暗黙知のまま放置していては伝統という名のマンネリ化が起こります。常に関係性を可視化する挑戦。共立女子の教育の質の高さは、このように先生方のプログラムの編集能力に拠っているのです。そうそう、したがって、多くの生徒たちは[図CTL]におけるレベル5に到達します。東京で一番生徒数を担保している女子校ですから、未来の社会を創る大事な人材を輩出する拠点であると理解するのが妥当でしょう。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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学校選択というコト[03]

学校選択というコト[02]のつづきです。前回は、(1)の「 自己実現プログラムの自覚的実行力」について、[図COS]や[図CTL]を使いながら考えてみました。もう少し具体的に学校についてみてみましょう。

★かつてもう1つのブログ「教育のヒント」12の学校選択指標【2】(2006年4月29日)で、こう書きました。

桜蔭や雙葉などは、ある程度放任していても、生徒たち自身が、自己解決していく力を持っている。在校生は、伝統とOGの活躍に大いに影響を受けながら、成長していくのである。だから学校当局はこれという特別な自己実現プログラムを用意する必要はない。一方女子学院は礼拝を中心に、自分探しの文集や平和についての物語編集など総合的な自己実現プログラムが先生方の自覚のもとでなされている。麻布も「論集」という場で、すべての教科で自己を振り返る思索のチャンスを設定している。

★ここで例として挙げている4つの学校は、いわゆる御三家と呼ばれている学校です。偏差値からみると、いずれも相当高いレンジにいます。しかし、自己実現プログラムを自覚的に実行しているかというとことになると、違いが見えてきますね。

[図COS]を使って差異を考えてみると、桜蔭の場合は、「記憶DB」はものすごく合理的かつ大量に成長すると思います。あるテレビ番組で、菊川怜さんの人の話をほぼ100%スキャンしているように聞いている様子を見て、すごい集中力と記憶力だと感じいったことを憶えています。外部記憶媒体の「知のデータベース」の整理法も頭抜けているはずです。しかし、桜蔭当局が、これらのDBを育成するプログラムを自覚的につくっているわけではないでしょう。

★また「自己参照基準」も個々の生徒に任せ、「勤勉 ・温雅 ・聡明であれ。責任を重んじ、礼儀を厚くし、よき社会人であれ。桜蔭学園の生徒として、礼儀正しい事と勤勉な事を誇りと致しましょう。常に親和協力して、心身共に健全な人となりましょう。.常に自主の精神をもって行動し、学園の充実発展に努めましょう。常に環境の美化に努め、清楚で質素な服装を致しましょう。」という桜蔭の教育理念を掲げれば、生徒たちはそれを個々の「自己参照基準」の中に取り入れ、自己判断がつくと思われているのではないでしょうか。だから、特別な自己実現プログラムは必要ないのだと思います。

★雙葉も同じような事情だと思いますが、少し違うのは「自己参照基準」の取扱です。雙葉の教育理念は聖書ですから、カトリックプログラムが存在します。しかし、このプログラムは学校全体で意識されているわけではなく、おそらくシスターの中だけで、一般の教師はそれを自覚的にとらえかえすことはないと思います。

★女子学院は、状況は相当違います。礼拝の運営は生徒も巻き込むプログラムとして可視化されています。DBに関しても図書館司書教諭が調べ方、論文の書き方などのプログラムを作り、教科の先生方と横断的に活動しているわけです。「自己参照基準」に関しては、礼拝の中で聖書の文言を読んだり、聞いたりするだけではなく、聖書の精神について、自分なりに自問自答し、互いに表現し合うというプログラムがあります。生徒1人ひとりのコミュニケーションのオープン・システムが全体として成長する環境を学校自身が創意工夫しているわけです。

Photo ★麻布も同様です。礼拝こそないですが、とにかくどの教科も論文作成を行い、プレゼンをし、最終的には「論集」という形にまとめられ発信されます。 [図CTL]でいけば、コミュニケーションレベルは5までいきます。女子学院もそうです。ところが、桜蔭、雙葉は、個々の生徒によってレベル5まで到達する生徒もいるのですが、学校全体で取り組むわけではないので、レベル3でとどまる可能性があります。

★自己実現プログラムが存在すれば、[図CTL]にあるように中高一貫の生活の中で、レベル5まで成長するのですが、教科重視のプログラムだとレベル2で停滞する可能性があるのです。それでも東大の入試に対応するにはなんら問題がないわけです。日本の大学受験は、チームワークも、コミュニケーションのオープン・システムも必要ありません。DBが合理的で大量であればよいのですから。ただ、桜蔭や雙葉は、生徒の資質がよいですから、放っておいてもレベル3以上には成長するでしょう。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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学校選択というコト[02]

学校選択というコト[01]のつづきです。前回、学校選択を考えるとき、「12歳のための12の学校選択指標」という視点で、まずは見ていきますと書きましたので、1つひとつ確認していきましょう。

★(1)の「 自己実現プログラムの自覚的実行力」がどれくらいあるのかという視点からいきます。今まではこんな感じで説明してきました。「6年間の学校生活を通して、自律し社会の痛みを共有し、貢献できる人材育成プログラムです。たとえば、三輪田学園では国語と社会の横断的読書指導と道徳教育との有機的連関プログラムが作られています。京北の丁寧なコミュニケーションのプログラムは東大や千葉大とのコラボレーション」(かわら版2007年1月号4ページ参照)という感じです。

★結局、例示的な説明で、イメージをふくらましてもらうきっかけとしての説明に終わっています。それに、自己実現プログラムの工夫をしている学校は他にもたくさんあります。保護者会で話したり、雑誌の取材に回答する際には、どうしてもこんな感じでしか伝えられないのですね。

Cos ★じゃあ、ちゃんとできるのかというと、それもまた難しいのですが、まずは図解しておきます。「まずは」とか「とりあえず」がどうも多すぎて恐縮ですが・・・。まあ、ともかく、こんな感じです。自己実現するためには、他者とのコミュニケーションが開放系システムでできる環境が必要なのです。自分がやりたいこと、考えていること、目標などは、自己閉鎖的世界ではうまくいかないし、それはまたありえないことです。

★[図COS]は完全なものでは、もちろんありません。あくまで仮説です。外界から情報を得る時に、そこでは問いかけと気づきのコミュニケーションが起こります。このときのコミュニケーションのタイプとレベルによって、他者との互いの共有部分の量や質は影響を受けます。

★情報は整理されますが、知性だけで合理的に取捨選択されるわけではありません。感情も入るし、理性で超越的価値を付与することもあるでしょう。これらの判断の正当性・信頼性・妥当性は「自己参照基準」によって最終決定されますが、この基準は思春期の時に葛藤の中で練磨され、これ自体成長するのです。知性・感性・理性と自己参照基準の自問自答にはレベルがあります。それにこれらがすべて同じレベルではありません。だから個性がでてくるわけですが。

★この「自己参照基準」が何なのかというのはまた大問題です。これが空集合の場合、気づかれましたか?そうこれは「理念」の1つなんですね。だから空集合の場合がある。「私は私なのだから」感じたままでいいんだになりかねないわけです。「私は私なのだから」はそれ自体悪くはない。まずは存在の質料です。しかし成長はその現実的な形式(つまりは表現)がポイントです。他の集合要素を増やしていけるかどうかが、自己実現プログラムの腕のみせどころです。

★「自問自答」回路は、しかし情報がないと空回りするし、情報は整理され蓄積してインデックスで引き出せるようにしておいたほうが、効率も良いし、多角的関係をいくらでも組みかえられます。蓄積は脳内中枢神経による記憶と外部の記憶媒体(ノート、ファイル、パソコン、メール、アプリケーション・ソフトなど)を活用できます。この媒体とのやりとりもまた他者とのコミュニケーションと同根です。

★たとえば、先の三輪田学園の例で言えば、外部の記憶媒体は、図書館機能です。「自己参照基準」の練磨は、道徳教育が大いに役立ちますが、理科の実験も重要です。知性は論理の学びに依拠するでしょう。感性は芸術教育によりますね。理性は三輪田学園の場合は「誠の道」という精神性、陽明学的発想に基づきます。

Ctl ★さて、[図COS]は理想型で、現実には要素がなかったり、矢印が示している相互性がなかったりしているわけです。ですからこの理想型にいくまでには、5つのレベルがあります。すべての要素(囲まれている部分)、すべての関係(→部分)はレベルがあります。そのレベルに関する図解は[図CTL]です。これについてはいずれ説明しましょう。ともあれ、コミュニケーションは、自問自答だけではないのですね。様々な関係の中で、レベルを調整しながら成長していくオープンシステムです。点線で囲まれた「自己」「他者」は、皮膚で内面と外面と分けているにすぎません。決して内面だけに閉じこもって考えることができるわけではないのです。この点線を外しても、実は図は問題ないのです。これはいつかまた触れますが、リアル=外界、超リアル=内面などと分ける必要がないというところに行き着きます。が、今はこんな感じ程度でいきましょう。

★いずれにしても、こういう複雑なコミュニケーション回路を多角的にチェックする教師の自覚がポイントです。他者の痛みを知って、社会に貢献すべきなんだといくら唱えても、それぞれの生徒がその情報を受発信するコミュニケーションのレベルがどの程度なのかとか、「自己参照基準」の他者とのズレがどういうふうなのかなどを見守る姿勢のない教師に出会ったら、それは自己実現などできるはずがないのです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[4]

私立学校の理念のタイプ[3]のつづきです。直接理念にかかわることではないのですが、忘れないうちに書き留めておかなくては・・・。「私は私だから私である」という表現は、鈴木謙介さんなら、それは情報社会あるいはポスト近代社会の価値を喪失したいやそもそもそのことすら感じない若者たちの存在根拠のあり方だということになるでしょうか。

★それを聞いた大人たち、つまり近代社会を生き抜いてきた人間たちは、それではモラトリアムではないか、価値観を持たなくてはいかん、今の若者はなってないとなるのでしょうか。文部科学省の場合だと道徳をきちんと教えなくてはとなるのでしょうか。

★私立学校の場合だと、ここに「理念」が入ってくるので、問題ないとなるのでしょうか。そう問題はないのです。ただ、この一見当たり前のことのようなのですが、これは日本の近代教育が成立する19世紀末の淵源に遡る基本的な問題です。

★富国強兵!殖産興業!を支えてきた戦前の近代教育。キリスト教的な倫理や儒教的な倫理が経済や法律に合理的に結びつくや、そういう神々の闘いの価値観などなくても経済や法律は動き始めたわけです。国家としての大きな物語は戦後徐々に消え、89年のベルリンの壁崩壊後吹っ飛びますが、宗教としての大きな物語は19世紀末以降どんどん消えていくわけです。したがって、すでに「私は私だから私である」という同義反復は生まれていたわけです。

★そんなとき、多くの私立学校がそれではいけないんじゃないかと、国家とあるときはしたたかに闘いながら、理念のある人間教育の場を保守してきたわけです。ここで問題なんですね。だからって、同義反復的人間存在のあり方がダメだという先ほどの大人たちのような考え方では困るのです。多くの私立学校は、ここが違うのです。同義反復、トートロジーを受け入れるのです。ここらへんをあまり丁寧に語り合わないで、一足飛びに「理念」の話をしてしまうと、私立学校は非常に偏った価値を押し付けているように(そういう学校ももちろんあるので、学校選択眼力は必要なのです)誤解されるのです。

★われ思うゆえにわれありと言ったところで、考えている私は存在しているという私なのだということで、結局のところ私は私だと言っているに過ぎません。が、「過ぎない」かどうかはわからないのです。

★もしかしたら日本のポストモダンは、この「私は私である」というトートロジーを崩したいのかもしれません。なんてったって、これは「私はありてあるもの」の言い直しだからです。このポストモダニズムに対し、コンテンポラリアートは、徹底的に「私は私である」を肯定しているように思います。

★一方で「私は○○としての私である」と言った時に、「○○として」の部分は意匠に過ぎないとか装飾に過ぎないとか、手段に過ぎないとか考えてしまう傾向にあるわけです。ここの部分は倫理観だったり、価値観だったり、主観的な部分だったりして、削除される部分ですね。近代官僚日本(吉田茂の官僚政治とはまた違う・・・)のレトリック観はそういうものだったのでしょう。

★しかしこれとは違う「理念」をもつ私立学校があったわけです。同義反復の豊かな表現は、凝らされた意匠でも装飾でもなく、私そのものであるという立場です。ここに排除主義とは違う寛容主義がでてくるわけです。

★公立学校において「理念」が希薄なのは、しょせん道具としての「目標」にすぎないとか、インセンティブ(にんじん)に過ぎないという考えがどこかにあるからです。「私は私である」では大事な価値を喪失しているのではないか、もっとちゃんとしろと言われ、「私は○○としての私である」と言えば、何を着飾っているのだ!チャラチャラするなと言われるわけです。じゃあどうすればよいのか????

★ウイーン世紀末の象徴「ベートヴェン・フリース」。私立学校と同じ質料があります。ベートーヴェンという作曲家は、彼自身の苦悩の変奏曲をシンフォニーを創造することそれ自体で、世界の同根の苦悩を解消した芸術家だったという位置付けでしょう。苦悩のトートロジー以外に苦悩を解消するダイアローグはないという滅茶苦茶すごい覚悟がそこにはあるのです。喜怒哀楽は存在感情の変奏曲であり、トートロジーだということなのです。そしてその生のトートロジーこそマザー・テレサがこれまた同義反復する愛だということなのかもしれません。これはちょっと書きすぎですが。。。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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学校選択というコト[01]

★私立学校と公立学校の大きな違いは、選択できるかできないかにあります。もちろん品川区が最初だったと思いますが、以来、公立学校も自治体内で選択の自由が認められているところも多くなってきました。

★しかし、選択行動ができればOKということではないですね。公立学校の場合は、理念も学習指導要領もいっしょですから、その違いはそれぞれの学校の居住地域の経済・文化格差や残念なのが手段・手法の違いで選択せざるを得ないということを意味しているということですね。「せざるを得ない」のですから「選択」とは言えません。

★まったく驚くべきなのは、「選択」が平等をぶっ壊すなんていう話を公人の方々がしても平気だという感覚です。もっとも、「選択」と言っているが、「操作的選択」だから困るんだよねと説明するのであればまあまあOKなのですが、それは自分たちのやっていることを否定するから、そうは言わない、いや言えないのですね。これではまともな議論はできません。「PISA型読解リテラシー」を!と叫んだって、OECD/PISAの3つの能力である「情報の取り出し」「解釈」「熟考と評価」のうち「熟考と評価」の能力のレベル5である批判的思考ができ、かつ一般的仮説や予測に反した考え方があることに気づくリテラシーを子供たちに継承できないではないですか。

★ですから、「選択」できるということはきわめて重要なコトなのです。「選択」には基準が必要です。モノサシとか標準とかもいいますね。もっと究極的なのは「理念」とか「イデー」とかいったものです。私立学校が「理念」を大事にしているのは、学内の教育活動で多様な判断をしなければいけない局面に出会うからです。その判断とは、意思決定であり、その決定とは「選択」判断のことなのです。

★そして学校を選ぶ時にも、その「理念」は、選択者にとってのモノサシとどのくらいズレがあるかどうか判断するモノサシでもあります。がしかし、この「理念」と学校選択者の「モノサシ」というものの両方が、実ははっきりしていないのです。

★もちろん、選択判断は、いつも論理というという知性だけで行うわけではありません。雰囲気という美学的判断で決定する時もあるでしょうし、直観的理性で決定する時もあります。つまり、知性はデータ的選択判断ですね。美学的判断は芸術的倫理的選択判断ですね。理性は超自然的選択判断です。

★偏差値や大学進学実績にこだわる学校選択者は、知性を使っているわけです。リベラルアーツの質にこだわる学校選択者は芸術的倫理的感性を使っているのです。キリスト教などのミッションスクールにこだわるのは理性をフルに使っていることになります。

★ようするに「選択」って難しい話なのですね。とりあえずしかし、そんな抽象的な話は結局わからないので、ボトムアップ的に最終的に「理念」や「モノサシ」が見えてくればよいので、具体的に見ていことがポイント。ずいぶんいろいろな私立学校について語ってきたのもそういうわけです。ホンマノオトNetty Hot★Newsで。これからもフィールドワークはしていきますが。

★さてそのとき次のような12の項目で情報を収集し分析しています。

「12歳のための12の学校選択指標」

(1) 自己実現プログラムの自覚的実行力

(2) 教師の創造的コミュニケーション能力

(3) 時代の変化への対応力

(4) 本格的論文編集指導力

(5) プログレッシブな授業構築力

(6) 総合学習と他の教育活動の有機的結合力

(7) 現地校で耐えられる英語教育力

(8) あらゆる教育活動でのIT活用力

(9) 他教科に刺激を与える芸術教育力

(10) キャリア・デザインとしての進路指導力

(11) 生徒の潜在能力を引き出す教育空間デザイン力

(12) 説明会の表現力(教育理念の具体的展開のプレゼン)

Photo ★そしてこれをもとに図のようなマトリックスを作って、学校選択の4つのカテゴリーを仮説としてつくっています。今までは、横軸は「偏差値」を使っていたのですが、ここは「大学進学実績」だったり、「留学人数割合」だったり、「コンテスト参加度」だったり・・・もっと多次元クロス集計ができるはずです。

★今やりたいのは、入試問題の質のスコア化ですね。20年程前に灘の日置先生にお会いした時、「入試問題は学校の顔」と教えていただきました。桐朋女子もそのことを思いきり提唱しているし、なんといっても「受験の神様」の菅原道子先生がそうテレビ放送で全国に発信してしまったのですから、やらざるを得ないでしょう。それに読売新聞の「教育ルネサンス」でも「テストを生かす」という特集(参考→読売新聞の鋭い視点)を組んでいるし。とはいえ、ゆっくりやっていきたいと思います。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[3]

私立学校の理念のタイプ[2]のつづきです。やはり、内面と外面という対立軸は、なかなかなくならない。むしろ明快に可視化されているし、事件として現実のものになっています。たとえば、2007年のサブプライム問題による市場の大混乱。19世紀末にも、2002年にも大きな混乱があったが、これまでの市場の混乱は、製造業などの実体経済を支える企業の資金繰りが難しくなって、株価暴落に結びついたのでしょうが、この夏は金融市場の資金調達困難によるものでしょう。

★日本は信用市場参入にはいろいろな障壁があるのでしょう。だから先進諸国と比べると相対的にそれほど参加していなかった。でもEUや特にイギリスでは大騒ぎになっている。日本にいるとどこか遠い国の話です。しかしそれはすぐ隣の信用市場、つまり今やこれはコンピュータやインターネットの世界の話です。デジタルワールドの話。日本では、実体経済にはそれほど影響がなかったということは、喜ばしいことであり、同時に2つの明確な世界の片方でしか優位性を持っていないのが日本という国ということになります。

★日本がグローバルスタンダードにおいつけていないというのは、実体経済での話ではなく、デジタルワールドでの話ということです。こうなってくると公立学校では、ますますついていけない。こんな世界は排除してきたからです。というのもこのデジタルワールドとリアルワールドの両方について巧みなバーチャルな市民世界を創っているのは、アニメの世界です。ポケモンはまさにそうだし、デジモンはもっとそれを先鋭化しているかもしれません。

★欧米でピカチューが流行っているのも、たんにカワイイ~だけではないのですね。デジタルワールドとリアルワールドをいったりきたりできるスーパーキャラクターだからでしょう。

★私立学校だって必ずしも積極的にデジタルワールドを認めているわけではありませんが、理念の内面化は、実はデジタルワールド的な発想に近いのです。似て非なるものではあるけれど・・・。

★公立学校はなんとかフロイトモデルを復権したい。超自我の育成をしたい。でもこれはデジタルワールド的発想がないとできない。デジタルワールドは不可視のものを可視化するし言語化します。デジタルワールドのレイアーをかけずに、リアルワールドだけで、超自我を育成しようとすると、ものすごい抑圧感がただよいます。生徒たちはみな怖れてしまいます。

★しかし、どちらも実際には「脳と神経の開放反応システム」によって、両世界が生まれています。だからそれは脳の働きが最適化されるように分けられているだけで、本来は分けて考える必要はないのではないかと思います。

★まっ、そのような到達点にはまだまだほど遠いので、あまり先回りせずに、ウダウダと考えていきたいと思います。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[2]

私立学校の理念のタイプのつづき。理念のタイプを整理する前に、少しウダウダ考えてみましょう。現代思想についてわかりやすい著述を書いている若い学者―東浩紀さん、北田暁大さん、鈴木謙介さん、仲正昌樹さんなど―さんは、モダンの人間を理念を内面化させる人間とし、ポストモンダンの人間を理念をメタ化したり、データベース化したりして可視化する人間として、大雑把にわけています。Web社会あるいはバーチャル社会を論じるにあたり、その2つのグレーの部分も論じていますが、基本的には内面化と可視化は次元が異なるものと設定していると思います。

★前者を持続可能にしたいのが私学の系譜。前者をなんとか維持したいが、それが大家族の崩壊や隣人との疎遠化によって不可能になっているから、可視化したルールで規制しよう、あるいは可視化した環境によって統治しようという流れを止められないというのが公立学校のベクトル。そこで可視化が不可視化を生み、見えないものを問わない環境下にあっては、「私は私以上でも以下でもない」というポストモダンな人間が出来上がるという感じでしょうか。

★では、それはあまりにムゴイ事件を引き起こすので、なんとか規律の内面化の復権をしようではないかというのが、どうも教育心理学の動きのようです。法律学の分野では、そんなのはめんどうだから、教育の中にリーガルマインドを持ち込んで、学校の法化現象を生めば、民事や刑事事件に発展させないためになんとかなるというわけですから、一見教育心理学とは間逆のようですが、規律統治型であることに変わりはありません。

★規律の内面化も規律の可視化もそれが心理学というドメインで使われているのか、法律学というドメインで使われているのかの違いで、共同幻想に過ぎないのです。だから、理念の内面化が私学の系譜で、理念の可視化が公立のベクトルなどのようにはいかないのです。内面化も可視化も形式化とか構造化とかいう言葉で捉え返されるので、結局はドメインの問題ではなく、構造の問題だということになります。

★教育の理念のタイプは、構造の違いなのです。まあしかし、こんな簡単な議論で、2000年以上世に受け継がれてきた内面と外面の二元論が打ち破れるはずもないので、内面というドメインにおける構造として私学の教育理念のタイプを分析するところから始めておけばよいですね。あとで、ドメインを外せばよいわけですから。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ

★それぞれの私立学校は、東京女子学園の理事長・校長實吉先生が語るように、「ゆるやかな理念共同体」に属しています。この意味するところは、それぞれの私立学校が明確な理念を持っているという構造は共通しており、それを保守しようという意味で共同しているということなのです。

★このことがきわめて重要であると語られるのですが、どう重要だというのでしょうか。理念がなかったら、人は生きていけないからですとすぐに回答されるかもしれませんが、そう回答された方は、すでに私立学校的発想の方ですね。

★実は今社会で問題になっている様々な事件は、理念がなくても人は生きていけると思われているから起きているとしたらどうでしょう。この問題性に取り組んでいるのが、若い社会学者や哲学者、心理学者ですね。彼らは1970年前後に誕生しました。

★彼らは、私立中学受験をして、エリート大学に進み、社会や世界の最前線の知と技術を駆使して、「理念なき自己」、つまり「負荷なき自己」は本当に可能なのかということについて考えています。

★もっともそれは、私立学校の場合は、残念ながら不可能です。「理念に基づいた自己」「負荷を抱きかかえる自己」という人材教育が基本だからです。しかし、その「理念」たるや学校によって違います。いろいろなタイプがあるのですね。公立学校も日本国憲法が理念そのものですが、少し大きすぎてというか次元が違うような感じがして、なかなか結びつきません。だから、ないも同然なのです。ですが、空集合も「理念」のタイプの一種と考えれば、公立学校も「負荷なきという理念を抱いた自己」が成立するわけで、私立学校と同構造をもった教育組織だということになります。

★だから、私立学校と公立学校の差異は理念があるかないかではなくて、「理念」のタイプが違うという切り口で考える必要があります。ただ、私立学校はいくつかの「理念」のタイプに別れますが、公立学校は私立学校に比べはるかに多い数が存在するのに「理念」のタイプがみな同じだというのは、やはり恐ろしいとは思いませんか?

★この空集合の「理念」が生み出すのは、「私は私以上でも以下でもない」「法律はそれ以上でもそれ以下でもない」という存在の無根拠性を生み出すことに結びついています。そしてこれは恐ろしい事態を引き起こすのです。そこで私の根拠は、私と関わる他者との関係に求められます。法律の根拠は、民主主義的関係性に求まられます。

★しかし、そこにある理念は空集合です。結局私と関わる他者のリストのデータベースが可視化された関係性です。本当はその可視化されたリストが不可視化した背景に根拠があるのですが、そんな理念は空集合理念タイプにはありません。法律の根拠も、立法過程のマスメディアによる情報公開という可視化によって根拠づけられます。法の淵源との参照がされているかどうか誰もわかりません。法の歴史性など空集合理念タイプではどうでもよいのです。

★様々なタイプの理念があることは構わないのですが、公立学校は数の論理で1つの理念のタイプを押し付けているのが問題ですね。そしてこの問題性に気づかない状況ができているということも問題なのですが、これを意識するのが私立学校の先生方なのです。理念のタイプのズレが気づきを生み出すからです。同質構造は、無根拠性を作り出してしまいます。私立学校の教育の重要性は、この理念タイプの差異の杭を打ち込むところにあるのかもしれません。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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新ブログ開設~「私立学校研究」

★新ブログ開設しました。日本の「私立学校」―特に中高一貫のシステム―については、世界はあたりまえですが、国内でも、受験という入り口と大学進学実績という出口、そしてそこに通っている家庭の経済状態についてとりあげられるものの、教育の質とその質のもたらす人間や社会に与えるよい影響についてはなかなか語られません。大学の教育学部でも私立学校はずーっと研究ターゲットになってこなかったのですね。

★公立の教育というのは、国の大きな物語のベースですから、私事の自己決定にもとづいてできている私立の教育がターゲットになってこなかったことは了解できます。でも、国の大きな物語が失われて、個人の時代だといわれるようになって10年くらいたちます。

★そろそろ私立学校の研究が盛んになってきてもよいころですよね。もっとも研究なんていうものは、本来個人の学びの自由によっているのであって、大学という制度にこだわる必要なんて全くないのです。まだまだ日本というのは組織的抑圧と権威がはびこっていて、市民が互いに認め合うアクレディテーションを造る市民評価の世界標準ができてないので、難しいのですが。

★幸いWebというのは、そのきっかけづくりには最適なコミュニケーション世界です。もちろんだれでも言うように、光と蔭の諸刃の剣ではあるでしょうが、とりあえず匿名でないことによって、蔭の部分は排除できると思います。

★個人の時代。でもそれは自己中心の時代でもあります。世界の痛みを身に染みながらそれをどうしたら幸せな方向に持っていけるのか、考えることができ、できれば実行できる人材という意味で個人の時代であって欲しいと思います。簡単でないことはわかっています。合理的でないかもしれません。効率的ではないかもしれません。予見可能性なんで小さいかもしれません。それでも、一部の人間(共同幻想なのでしょうが)の権力にいいように使われている社会は、世界の痛みに気づかないし、いやむしろそれを生み出しているのですから、なんとかしたいと思うのは(できるかどうかは別にして)私だけではないでしょう。

★それには教育が大きくかかわっていることは、今や明らかです。しかし、自己中心的個人ではなく、世界性をだきこんだ個人を育成する場の1つとして可能性があるのは私立中高一貫校です。他にも実はあるのですが、まずは私立中高一貫校の領域になじんできた私なので、少しずつ整理をしていきたいと思います。もっともブログの性格上、体系的な書き方はむりです。整理するための準備でしかないかもしれません。

★ともあれ、BIG MAN(世界の痛みをひきうける個人)の時代の到来の軌跡を追ってみたいと思います。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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