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私立学校の理念のタイプ[6]

私立学校の理念のタイプ[5]のつづきです。「私は○○としての私である。」という関係性の私であるという話をしていますが、わけがわからなくなるので、こういう表現をとりましたが、実はこのスキーマーは「●●としての私は○○としての私である」という関係性の広がりを持っています。「f(x)=●●として」、「g(x)=○○として」とすると、「私{f(x)}は私{g(x)}である。」となります。

★関数式で私を表現するなんてとお叱りをうけそうですが、「私」という存在方程式を誰もまだ発見していないし、難しいわけですね。しかし、ロボットはこの一部を関数方程式化しているから、つまりプログラム化しているから稼動します。

★プラトンやその弟子たちが造り上げたアカデメイアが数学を愛したのも、西田幾多郎が京都学派に数学を導入しようとしたのも、人間存在方程式の解明のためだったのでしょう。

★ですからいま最も社会問題になっているのはf(x)とg(x)の関数が空集合になってしまっているという事態です。「私は私以上でも以下でもない」という存在方程式はこういった感じなんです。

★そこで私立学校の場合、「理念」というのがでてくるのですね。この「理念」は実は人間存在方程式の言語化、ロゴス化、レトリック化です。数式化はあまりに複雑で、自然数や整数の世界だけでは表現できないので、まずは言語化という歴史的流れです。

★f(x)の部分を言語化すると、たいていの学校は「たとえ犠牲となっても他者のために自分は考え行動し、奉仕する」となります。これが公立学校になると「他者のために自分は考え行動する」となります。宗教的理念は排除されますからね。

★しかしこれはまだ私立学校よりです。「他者のために」は資本主義社会では不要です。「他者に迷惑がかからない限り私は好きな考えや行動を選ぶ」というのが文科省が認可できる実際的なところでしょう。

★ところが現実はこの「他者に迷惑がかからない限り」という条件すら取っ払われています。「私は好きなことはなんでもする」となっているのですね。そこでフロイトの超自我を持ち出して、なんとか低学年のうちから超自我を押し付ようと、いやいや養おうとしているのが教育心理学の大きな流れではないでしょうか。

★なかなか私立学校の理念のタイプにいきつきませんが、これでタイプを考える準備はだいたいできたと思います。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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