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私立学校の理念のタイプ[7]

私立学校の理念のタイプ[6]のつづきです。前回「・・・『●●としての私は○○としての私である』という関係性の広がりを持っています。『f(x)=●●として』、『g(x)=○○として』とすると、『私{f(x)}は私{g(x)}である。』となります。」と書きました。

★「私」というのは生徒だけではなく、教職員も含みます。私立学校においてその「理念」は学校に居る一人ひとりが共有し、人間ばかりではなく、教育空間、教育道具、教育プログラムすべてに浸透しているはずです。

★しかし、それは意識してそうなっているわけでもないし、完全に「理念」に同意しているかどうかはわかりません。むしろ鵜呑みのように「理念」に盲従して行動するのは抵抗感があるでしょう。

★だからg(x)には、「理念」をチェックする仕掛けが存在する必要があります。それは「知性」「感性」「理性」「不安」という能力です。私立学校は欧米のパブリックスクールやギムナジウム、プレップスクールといったノーブレス・オブリージを背景に持っている中等教育システムの伝統を継承しています。現在の私立学校で働いている一人ひとりの教師がその伝統を意識しているかどうかはわかりませんが、意識する必要がないほど徹底しているのです。

★よく「総合学習」のようなプログラムは私立はできるけれど、公立はできないと批判されます。子供の学力が違うとか、教師の待遇が違うとか表層的な理由があげられますが、根本はリベラルアーツを継承しているかどうかです。

★このリベラルアーツの基礎は「知性」「感性」「理性」「不安」を身体と脳神経が開放系システムとして有機的能力の塊に転換できるかにあります。知育・徳育・体育とどう違うのかと問われるかもしれません。知育・徳育・体育は「知性」と「感性」だけの有機的能力の塊だけでも成り立ちます。ですから言葉が似ているからといって、同じじゃないかというのでは、困ります。

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