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私立学校の理念のタイプ[9]~明大明治の松田先生との対話②

私立学校の理念のタイプ[8]~明大明治の松田先生との対話①のつづきです。明大明治の松田孝志先生からいただいた中3の学級通信は、明大明治の教育理念が継承されている証明であり、その理念に基づいて生徒1人ひとりが、自己形成していく証明でもあります。

★前回生徒たちが、自分を「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は私{g(x)}である。」と表現しているというところまで見てきました。今回は、私{g(x)}の記号関数をご紹介します。

★学級通信では、生徒たち1人ひとりが自分を表現したり、「理想的人間像」について記述しているフレーズも公開されています。たとえば、

一期一会「心機一転」周りから信頼される人

おしゃべりな詩人「楽しまずんば、これ是何せん」直江兼次

大人のような子供「平常心」勉強と剣道を上手に両立できる

温故知新「今日できることは今日にする」どんな人ともしゃべることができ、人を思いやることができる人間

自由闊達「為せば成る」様々なことを的確に判断でき、色々な人に尊敬される人

朗らか「画竜点睛」周りに気を配れる優しい人間

目配り・気配り・思いやり「獅子奮迅」誰からも慕われる男の中の男

優しい「一期一会」困っている人を助けてあげられる人

優しく真面目なおじさん「念には念を入れよ」周りのことを思いやり、気遣い、明るく接し、周囲から好かれ、頼られる存在

★44人のクラスメンバーが44通りの自分を表現し、理想的人間像を語っているのですが、その一部を紹介しました。男子校のおもしろさがうかがえますが、男子校だからこそ逆にやさしに充ち溢れているというのも感じました。来年から明大明治は共学化しますが、女子生徒を思いやる目配り・気配りのある男の中の男は、温故知新というプロセスを経て、継承されていくのかと安心させられる表現もたくさんありますね。

★さて、これで、自分の表現としての「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は私{g(x)}である。」の「私{g(x)}」の記号関数がはっきりしました。「私{g(x)}=理想的人間像=44通りの表現」ということになります。

★こうして明大明治の教育理念は、「質実剛健・独立自治」という抽象的な表現として継承されているのではなく、1人ひとりの生徒の自己形成の言葉の魂として連綿とつづいているというのがわかります。

★つまり、松田先生のクラスの生徒たちは「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は{理想的人間像=44通りの表現}としての私である。」と語っているということになります。

★さてこれをフロイド的な構造で読みかえると、「私{f(x)}」の部分が超自我で、「私{g(x)}の部分がエゴで、表現の中にある優しいとか楽しいとか平常心というところがエスへの道ということになるのでしょうか。

★しかし、これでは松田先生の学級通信に表現された生徒たちの言語活動を説明できません。やはりここはロラン・バルトモデルのほうが説明しやすいですね。、「私{f(x)}」の部分が記号表現(シニフィアン)で、「私{g(x)}の部分が記号内容(シニフェ)と読み解くわけです。ここで終わってしまえば、フロイドモデルの方が何となく魅力的ですね。記号表現と記号内容だけだと二元論でわかりやすいけれど、そこには生の躍動感が感じられなくなるからです。

★しかし、ロラン・バルトモデルは、外示(デノテーション)と内示(コノテーション)を結びつけるのですね。「質実剛健・独立自治」が外示で、その44通りの表現それぞれが内示です。「理想的人間像」が外示で、その44通りの表現それぞれが内示なのです。

★こうして、「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は{理想的人間像=44通りの表現}としての私である。」の構造は、「記号表現{外示,内示}×記号内容{外示,内示}」という四肢的構造になるわけですね。しかもそれは無限の表現になります。しかし教育理念としての記号表現は一つなのです。

★教育理念=「記号表現{外示,内示}×記号内容{外示,内示}」という記号関数が、明大明治の教育理念の構造ということになります。記号表現は1つではあるが、記号内容は無限である。この一体感が時代を超えてつながるそれぞれの私立学校の歴史性です。

★公立学校が問題なのは、教育理念が日本国憲法の文言の再構成によってつくられていて、記号表現はあるけれど、記号内容が貧困ということです。したがって、超自我がないも同然になっているかもしれない。個性という名のエゴの部分だけが残っているのだけれども、そこもエゴの記号表現のみがあり、記号内容はない。正確には超自我という記号表現に対する記号内容としてのエゴの外示しかなく、内示が空虚であるという事態になっている。

★だからいくら超自我の復権といっても、この超自我という記号表現に対する記号内容としてのエゴの内示が埋まらない限り、どうしようもない。フロイドモデルは確かに大事だが、それだけでは、超自我という記号表現の内示ばかりが膨らみ、エゴの内示が空虚のままだから、公立学校の中は、内示の空虚なエゴが超自我の強烈な抑圧に押しつぶされる。表面上のいじめはなくなるかもしれないけれど、沈潜化するし、不登校は増えるばかりということになります。

★ともあれ、タイプ1「私は私である」、タイプ2「超自我としての私はエゴとしての私である」、タイプ3「記号表現{外示,内示}としの私は記号内容{外示,内示}としての私である」という3つのタイプがあるとするならば、公立学校はタイプ1からタイプ2に転換しようとしています。官僚近代の復権です。多くの私立学校は明治以来タイプ3を保守してきたのだと思います。

★ところで、タイプ1はどの流れなのでしょう。実はこれがポストモダンの私の表現です。超自我の抑圧からの解放が、タイプ3ではなくタイプ1に進ませたのです。タイプ3にはキャラとキャラクターの自己対話があるのですが、タイプ1はキャラ作りのみが重要なのです。キャラではなくキャラクターのみが重要な官僚近代は、このタイプ1を転換することは無理でしょう。

★思わぬ方向に進んでしまいましたが、松田先生とお会いしたときにいつもこんな対話になります。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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