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2007年10月

学習指導要領を世界標準に

★今回の43年ぶりに行われた全国学力テストはその中途半端ぶりを批判されています。OECD/PISAなどの世界標準テストの読解リテラシーなどで、日本のランキングが下がったということもあり、PISA型テストとも呼ばれているほどです。

★しかし、それはまったく違うことに気づきました。というのもまず中途半端な原因は、学習指導要領そのものにあったからです。たとえば、読解リテラシーにおいて、PISAは3つの能力領域を想定しています。「情報の取り出し」「テキストの解釈」「熟考と評価」がそれです。この3つの能力領域を大事にしようというのは文科省の動きでもあります。

全国学力テストを「世界標準の読解力 OECD/PISAに学べ」(白日社)の著書岡部憲治さんといっしょに分析してみましたが、3つの能力領域に関しては、なんとか意識して出題されているようです。しかし、習熟度レベルとなると、レベル4や5の問題は少ないのです。小学校6年の方ではレベル5の問題は出題されていません。また中学の方はレベル5の問題は1題だけしか出題されていません。

Photo_4 ★このようなテスト設計でよいのか?と思いますが、文科省としては全く問題ないのです。なぜかというと、全国学力テストの設計基準は学習指導要領だからです。ところがです。学習指導要領の習熟度レベルを分析してみると、中学まで学んでも、OECD/PISAの設定する世界標準の習熟度レベルに到達しないのです。表を参照してください。これでは国際ランキングは下がるはずです。

★一方中学入試は、世界標準のレベル5を超える問題が出題されています。岡部さんはそれをレベル6として独自に設定しました。公立と私立の差は学びに対するコンセプトの違いであり、経済的な格差にポイントがあったわけではなかったのです。

★習熟度レベルというと、多くの人は、レベルがあがると難しくなる。そんな難しいレベルを小学校の時や中学校の時にやってよいのかと思われるでしょう。いや違うのです。易しい問題でも、思考のレベルは包括的です。ここまででよいということはありません。

★小学生でも中学生でも大人でも、読解リテラシーのレベルは最低5まで必要なのです。レベルの制限は、思考の制限でもあります。レベルというからややこしくなるのかもしれません。ステージとかプロセスとか言った方がよいかもしれません。

★知の9歳の壁は、なんと文科省自らが形成していたのです。これは問題です。民主主義では言論の自由が保障されていないと困るわけです。小学校でも民主主義は学ぶわけです。しかし、読解リテラシーのレベルが制限されています。レベル4や5に進まねば、批判的な思考ができません。これでは議論ができないわけですね。

★議論、つまりディスカッションの自由こそ言論・表現の自由です。J.S.ミルの言論の自由の「言論」に相当する語は、原文ではディスカッションです。今、中教審は学習指導要領を見直しているそうですが、授業時間の見直しではなく、世界標準の民主主義のためのモノサシに合わせて最適な再構築をしていただきたいですね。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[10]~合理性と創造性を統合した桐光学園

名門校の条件[09]~合理性と創造性を統合した桐光学園のつづきです。

§3 名門校の条件を実現するプログラム

★要するに名門校のベースができたと伊奈校長先生は語っているわけだが、そのベースが目に見える形としてどのように現れているのだろうか。それは驚くほど多種多様なプログラムとして展開し成果を上げている。

★世界で活躍している中村俊輔選手を持ち出すまでもなく、サッカーや野球などのスポーツで、生徒たちは大活躍している。1リットルのガソリンで走行距離を競い合い、限りある地球資源をいかに有効に活用するかを考えるエコノパワーレースに参加し、大人たちのチームと渡り合ったりもしている。合唱に弦楽演奏にと芸術活動も盛ん。

Photo ★それに名門校の醍醐味といえば、論文研究活動。中学時代の文豪研究レポートや自由研究レポートが掲載されている研究・作品集「テオリア」は圧巻。

★テントウムシの進化についての実験観察による研究論文など、自分と世界の発見といってよい。昆虫の生態だけではなく、光学的な視点までも活用されている。半球型体型が、捕食者としては影が少ないから有利であるのに、目立つ模様になっているのはなぜか、これは自然の矛盾なのかと自問自答を繰り返し探究し、進化の合理性を結論付けるなどというのは、論より証拠、なるほど進学実績を超えた学校作りができているのではないだろうか。

Photo_2 ★土曜講習では大学訪問授業も実施されている。年18回、最先端の学者が専門知と創造知を講義。知的欲求としての理性を刺激する。

★ほんの一例しか紹介できなかったが、桐光学園の多種多様なプログラムはしかし複雑ではない。シンプルなシステムで出来上がっている。それは教科カリキュラムと講習制度(教科学力深化のための講習と知的欲求を膨らますユニーク講習でできている)の二重螺旋。そしてこれが、合理性と創造性を統合する名門校としての桐光学園のDNAなのである。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[10]~明大明治の松田先生との対話③

私立学校の理念のタイプ[9]~明大明治の松田先生との対話②のつづきです。前回まで見てきたことは、教育理念の記号関数のタイプです。

タイプⅠは教育理念=「記号表現{外示}×記号内容{外示}」

タイプⅡは教育理念=「記号表現{外示,内示}×記号内容{外示}」

タイプⅢは教育理念=「記号表現{外示,内示}×記号内容{外示,内示}」

★タイプⅠはポスト・モダン型理念、タイプⅡはオールドモダン型理念、タイプⅢはトランスモダン型理念と読み替えることもできるかもしれません。そうすると、明大明治はその歴史的経緯からいって、官や権力に対し抗ってきたわけですから、トランスモダン型であることは、納得がいきます。

★しかし、松田先生ご自身の理念の実現化過程は、このトランスモダン型をさらに突き抜けています。というのもそれぞれの理念を動かす原動力は、

タイプⅠ→Webシステム

タイプⅡ→神話的コンテンツ

タイプⅢ→論理的構造

★ですが、松田先生の原動力は、対話プログラムです。学級通信で表現されている生徒たちの教育理念や理想的人間像は、限られた時間で突然出てきたものではありません。松田先生が、生徒たち自らが考えたり、疑問を持ったり、調べたり、議論したりするように、対話プログラムを長年仕掛けてきた結果中3になって表れてきたのです。

★対話というものを思いつきでやってきたのではないのです。対話を偶然として漫然とやってきたのではなく、偶然としての必然を創出するプログラムを仕掛けてきたのです。しかし、それはたんなる必然としての操作ではありません。生徒との一期一会という偶然を大切にしてきた結果、必然的に生徒たちがみんな一定水準以上の思考のレベルに到達し、一定水準以上の気概と覚悟を有するように育ったのです。

*松田先生の対話プログラムのメソッドについては、「ジグゾー法によるグループワーク授業の実践報告」 「ジグソー法によるグループワーク授業の実践Ⅱ~七転八倒・行雲流水の居場所づくり~」をご覧ください。

★だから、松田先生の教育理念のタイプは、四番目のスタイルですね。タイプⅣです。その原動力は、対話創造的プログラムです。そして理念の名称としてはアドバンストモダンと呼びたいと思います。

★モダンのタイプは、Aモダン、Pモダン、Oモダン、Tモダンの4類型で考えていくことができそうです。APOTモダンセオリーを展開できるところまできました。松田先生!いつもながら感謝しています!。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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入試問題は学校の顔[03]~栄光学園

入試問題は学校の顔[02]~桜蔭中のつづきです。今春の栄光学園の国語の入試問題を、「読解リテラシー」の切り口で分析しました。一般に思われているように難問はありません。世界標準内にきちんと収まります。栄光学園らしいですね。学習指導要領の制限にのっとって、知識も出すし、世界標準を超えるような高度な問題もださない。でも選抜することができる、つまり日頃丁寧な学びをしていないと差がつく問題を出題しています。

07 ★さて、「読解リテラシー」の3つの能力のバランスですが、漢字の書き取りなど15題だすなど、知識問題の占める割合が多くなっているので、偏りがあるようにみえますが。「情報の取り出し」「テキストの解釈」「熟考と評価」だけ抜き出せば、そのバランスはよいと思います。

★桜蔭と同じように「読解リテラシー」の能力をみる問題の総数が少ないですから、本質的な問題が出されていると理解していよいでしょう。科学的な見方、特に科学的考察はコペルニクス的な転回を常に含んでいるということを押さえておかないとテーマそのものが難しいでしょう。文章はそれほど難しくないのですが、考え方は簡単ではないのです。

07_2 ★物語では、人間の気持ちのパラドックス、純粋なものの表現について何度か考えたことがないとちょっと難しいかもしれません。読書量というより考える時間が大事ですね。とはいえ、レベルは2から5まで。きちんと論理的に考える習慣が決め手になります。もちろんパラドックスも論理的思考の一部です。

★知識問題が60%以上占めていますから、合格者の平均正答率は65%から70%の間なのですが、差がつくのは、考える問題。もっとも、意外と漢字が書けないので、ここはここでしたたかにトレーニングを積んでいる受験生に有利なわけですが・・・。思い切って漢字の問題を出題しないと、考える質にこだわった生徒が進学すると思うのですが。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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入試問題は学校の顔[02]~桜蔭中

入試問題は学校の顔~東海中のつづきです。「世界標準の読解リテラシー」にもとづいて、2007年の桜蔭中の国語の入試問題を分析しましょう。

 *参照→「世界標準の読解力 OECD/PISAメソッド学べ」所収の岡部さんのオリジナル習熟度レベルの表(86・87ページ)

★2007年に実施された桜蔭の国語の問題は、すべて記述式で60字から250字まで多様な記述の問題が出題されています。それを聞いただけでも難しそうでしょう。実際難しいのですが、合格最低点や平均点など非公表です。しかし、だいたいの目安は算出できます。「席あ標準の読解リテラシー」の「習熟度レベル」でシミュレーションすると、(すべての受験生が受けたとしたら)その平均正答率は、58.4%になりますから、合格者の平均正答率はもう少し上がるでしょうね。

07 ★まず読解リテラシーの能力の分析です。「知識問題」は4つで、あとはすべて読解リテラシーの問題で、解答形式はすべて記述式。さて、3つの能力「情報の取り出し」「テキストの解釈」「熟考と評価」ですが、バランスよく出題されています。つまり桜蔭中の入試問題を学びの素材とすると、「世界標準の読解リテラシー」が身につくわけです。

07_2 ★レベルですが、漢字を除いて、すべてレベル3以上です。「テキストの解釈」と「熟考と評価」ではレベル6の問題が1問ずつ出題されています。「テキストの解釈」のレベル6の問題というのは「細部の情報の背景全体の流れを理解したり、その流れに新しい情報を付け加えることができる」能力を必要とします。「熟考と評価」のレベル6の問題というは「批判的な評価、仮説、特殊な知識を使って、新しい考え方や見方を組み立て、かつ検証できる」能力を必要とします。

★この2つのレベル6の問題は、いずれも5500字程度の物語に関する問題です。しかも、この物語の問題は、この2つの問いしか出題されていないのですから、いかに本質的問題であるかということを推察するのは難しくないでしょう。これははっきりいって、キャラとキャラクターの自己分裂を乗り越えていく成長物語ですが、なかなか深刻な物語です。純粋で無欲な人間の根源的な存在に気づくと世間からは気にかけられなくなる、存在を無視されるという解釈も成り立ってしまう物語です。まっ、深読みなのかと思っていたら、桜蔭当局が作成した解答も、そこを避けていませんから、おもしろいですね。

★愛とか人間の存在とかを考える力は、小学生には必要がないはずがないのですね。というより小さな命をさずかったときから、周りも本人も、それが最も重要です。小学生にそんなことを考えることを要求するのは間違っていると感じたとしたら、そこは議論の余地ありですね。

★それからレベル6というのはOECD/PISAでは設定されていません。PISAで設定しているのはレベル5までです。桜蔭中の問題は世界標準を超えたところまで要求しているのです。日本の学力が低下したとか議論をする前に、もっと日本の教育事情をリサーチすべきですね、学識者たちは。科学的探究心なき教育関係者の言説は、大いに問題ありです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[9]~明大明治の松田先生との対話②

私立学校の理念のタイプ[8]~明大明治の松田先生との対話①のつづきです。明大明治の松田孝志先生からいただいた中3の学級通信は、明大明治の教育理念が継承されている証明であり、その理念に基づいて生徒1人ひとりが、自己形成していく証明でもあります。

★前回生徒たちが、自分を「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は私{g(x)}である。」と表現しているというところまで見てきました。今回は、私{g(x)}の記号関数をご紹介します。

★学級通信では、生徒たち1人ひとりが自分を表現したり、「理想的人間像」について記述しているフレーズも公開されています。たとえば、

一期一会「心機一転」周りから信頼される人

おしゃべりな詩人「楽しまずんば、これ是何せん」直江兼次

大人のような子供「平常心」勉強と剣道を上手に両立できる

温故知新「今日できることは今日にする」どんな人ともしゃべることができ、人を思いやることができる人間

自由闊達「為せば成る」様々なことを的確に判断でき、色々な人に尊敬される人

朗らか「画竜点睛」周りに気を配れる優しい人間

目配り・気配り・思いやり「獅子奮迅」誰からも慕われる男の中の男

優しい「一期一会」困っている人を助けてあげられる人

優しく真面目なおじさん「念には念を入れよ」周りのことを思いやり、気遣い、明るく接し、周囲から好かれ、頼られる存在

★44人のクラスメンバーが44通りの自分を表現し、理想的人間像を語っているのですが、その一部を紹介しました。男子校のおもしろさがうかがえますが、男子校だからこそ逆にやさしに充ち溢れているというのも感じました。来年から明大明治は共学化しますが、女子生徒を思いやる目配り・気配りのある男の中の男は、温故知新というプロセスを経て、継承されていくのかと安心させられる表現もたくさんありますね。

★さて、これで、自分の表現としての「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は私{g(x)}である。」の「私{g(x)}」の記号関数がはっきりしました。「私{g(x)}=理想的人間像=44通りの表現」ということになります。

★こうして明大明治の教育理念は、「質実剛健・独立自治」という抽象的な表現として継承されているのではなく、1人ひとりの生徒の自己形成の言葉の魂として連綿とつづいているというのがわかります。

★つまり、松田先生のクラスの生徒たちは「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は{理想的人間像=44通りの表現}としての私である。」と語っているということになります。

★さてこれをフロイド的な構造で読みかえると、「私{f(x)}」の部分が超自我で、「私{g(x)}の部分がエゴで、表現の中にある優しいとか楽しいとか平常心というところがエスへの道ということになるのでしょうか。

★しかし、これでは松田先生の学級通信に表現された生徒たちの言語活動を説明できません。やはりここはロラン・バルトモデルのほうが説明しやすいですね。、「私{f(x)}」の部分が記号表現(シニフィアン)で、「私{g(x)}の部分が記号内容(シニフェ)と読み解くわけです。ここで終わってしまえば、フロイドモデルの方が何となく魅力的ですね。記号表現と記号内容だけだと二元論でわかりやすいけれど、そこには生の躍動感が感じられなくなるからです。

★しかし、ロラン・バルトモデルは、外示(デノテーション)と内示(コノテーション)を結びつけるのですね。「質実剛健・独立自治」が外示で、その44通りの表現それぞれが内示です。「理想的人間像」が外示で、その44通りの表現それぞれが内示なのです。

★こうして、「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は{理想的人間像=44通りの表現}としての私である。」の構造は、「記号表現{外示,内示}×記号内容{外示,内示}」という四肢的構造になるわけですね。しかもそれは無限の表現になります。しかし教育理念としての記号表現は一つなのです。

★教育理念=「記号表現{外示,内示}×記号内容{外示,内示}」という記号関数が、明大明治の教育理念の構造ということになります。記号表現は1つではあるが、記号内容は無限である。この一体感が時代を超えてつながるそれぞれの私立学校の歴史性です。

★公立学校が問題なのは、教育理念が日本国憲法の文言の再構成によってつくられていて、記号表現はあるけれど、記号内容が貧困ということです。したがって、超自我がないも同然になっているかもしれない。個性という名のエゴの部分だけが残っているのだけれども、そこもエゴの記号表現のみがあり、記号内容はない。正確には超自我という記号表現に対する記号内容としてのエゴの外示しかなく、内示が空虚であるという事態になっている。

★だからいくら超自我の復権といっても、この超自我という記号表現に対する記号内容としてのエゴの内示が埋まらない限り、どうしようもない。フロイドモデルは確かに大事だが、それだけでは、超自我という記号表現の内示ばかりが膨らみ、エゴの内示が空虚のままだから、公立学校の中は、内示の空虚なエゴが超自我の強烈な抑圧に押しつぶされる。表面上のいじめはなくなるかもしれないけれど、沈潜化するし、不登校は増えるばかりということになります。

★ともあれ、タイプ1「私は私である」、タイプ2「超自我としての私はエゴとしての私である」、タイプ3「記号表現{外示,内示}としの私は記号内容{外示,内示}としての私である」という3つのタイプがあるとするならば、公立学校はタイプ1からタイプ2に転換しようとしています。官僚近代の復権です。多くの私立学校は明治以来タイプ3を保守してきたのだと思います。

★ところで、タイプ1はどの流れなのでしょう。実はこれがポストモダンの私の表現です。超自我の抑圧からの解放が、タイプ3ではなくタイプ1に進ませたのです。タイプ3にはキャラとキャラクターの自己対話があるのですが、タイプ1はキャラ作りのみが重要なのです。キャラではなくキャラクターのみが重要な官僚近代は、このタイプ1を転換することは無理でしょう。

★思わぬ方向に進んでしまいましたが、松田先生とお会いしたときにいつもこんな対話になります。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[8]~明大明治の松田先生との対話①

私立学校の理念のタイプ[7]のつづきです。明大明治の松田孝志先生から、中3の学級通信をいただきました。そして驚きました。松田先生のクラスでは、明大明治の教育理念についてこんなに対話されているのか、理念は目に見えない何かではなく、見える化され、共有されているではないかと。

★L.H.R.で、「明治高校への自己推薦書」を生徒の皆さんは書いたようです。その中で明治中学・高校の校訓である“質実剛健・独立自治”の意味を書く箇所があったようですが、生徒の皆さんの回答が公開されていました。

★たとえば、

色々な行動をしっかり社会に適応しながらも常に自分の考えを持っている

学校行事などを先生や親に頼るのではなく、自分たち自身で創りあげ、成功させ、本当の自分たちの学校にするというもの

逆境に負けない強さ、自分で考え自分で決める力

口先だけの人間にならず行動を起こすことができ、自分のことは自分ででき、周りに感謝し、他人のことを考えることが出来る心を持つ

現代に多いチャラチャラシタ男ではなくたくましく健やかで、自分の意志をはっきり持った男になれと理解している。

独立し一人で何でもできる、他人に迷惑をかけない

★学級通信では、クラス全員分が紹介されていますが、ここで紹介したのはその一部です。しかし、全員がこのようなクオリティの回答をしています。“質実剛健・独立自治”という記号表現を一人ひとりが自分の言葉で理解しています。にもかかわらずアイデンティティとして同質の内容を共有しているのです。

★私立学校の教育理念の浸透は、生徒や教師が「私{f(x)}は私{g(x)}である。」という記号関数を形成することによって成り立つのですが、明大明治のf(x)の部分は、松田先生の編集された学級新聞に、きちんと解明されているのです。

★「{質実剛健・独立自治=44通りの表現}な私は私{g(x)}である。」と明大明治の教育理念が浸透していることが証明されているのです。そしてさらに驚くべきことに、私{g(x)}の記号関数も明らかにされています。次回はここの部分について紹介します。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[09]~合理性と創造性を統合した桐光学園

名門校の条件[08]~合理性と創造性を統合した桐光学園のつづきです。

§2 桐光学園は3つのステージをクリア

★1978年から84年にかけては高校開設そして中学開設という第1ステージ。ここでは、まずMARCHレベル以上の大学に大量合格できる合理的知性育成としての教科カリキュラムの構築と実践が行われた。

★85年から2000年にかけて第2ステージ。国公立大学の合格をめざすカリキュラム開発が始まった。そのシンボルが高校の理数科の新設。そして91年から女子部開設。合理的知性を養う場は授業であるが、そこで男子と女子では論理の運び方が違うことに気づいたという。校長伊奈博先生は、「たとえば女子の読解リテラシーは、細部に気遣いながら理解していくという帰納型のスタイルですが、男子はまずは全体を把握して細部を詰めていくという演繹型スタイルなんですね。ですから教材のアプローチを変えながら授業を組み立てていく必要があるのです。」と理科の教師らしい分析をされる。

★伊奈校長先生に代表される合理的知性が第1・第2ステージをクリアする時に、役立ったことは間違いない。しかし、伊奈校長先生は、弦楽部も率いている。ご自身でもチェロを演奏される。弦の響きといえば、物理学では「超弦理論」。アインシュタインやホーキングの脳内旅行に誘われる。

★実はこういう知的欲求としての理性を養う場の設定の1つが、2001年から開始された土曜講習制度。そしてここから第3ステージが始まる。2003年からは、理数科に代わり、SA・Aコースという新体制も稼動。伊奈校長先生は「進学実績を超えた学校作りの土台ができたと思います。進学を目的とし、それが達成されるまで6年間忍耐するということではなく、学校生活そのものも充実して過ごすし、自分のやりたいことを発見・自覚できる環境が整いました」と。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[08]~合理性と創造性を統合した桐光学園

名門校の条件[07]~宝仙理数インターが名門校になる可能性ありのつづきです。桐光学園も来年30周年を迎える若い私立学校ですが、すでに名門校入りしたといえる学校です。以前Netty Land かわら版(2007年10月号)で書いた記事をご紹介します。

【来年30周年を迎える桐光学園。名門校の条件を形成するのに100年の歳月をかけなかった最速の戦略を探る。】

§1 名門校としての3条件

・・・まず自分が好きで本当にやりたいことを発見・自覚しなければなりません。これは人生の成功者であるための必要条件です。書くのはとても簡単ですが、必死に見つけようとしないと、死ぬまで見つかりません。これは東大に入ることよりもずっと難しく、達成されたら立派なことだと僕は思います。・・・ほとんど全ての「受験生」の目的は、センター試験や二次試験で、高得点をとることです。この目的達成のために、長期的な戦略を立ててください。戦略は目的が明確であるほど立てやすいものなので、まず目的を明確化し、次に合理的でフレキシブルな戦略を立てるとよいでしょう。この作業は独力で行う必要はありません。戦略の実践のために、最も合理的な手段を選択・産出してください。

Photo_3 ★桐光学園の「平成十八年度大学合格体験記」に掲載されている東京大学理Ⅰに進学した石井俊行君の文章だが、この文章こそ桐光学園が名門校の条件を整えた証なのである。

★大学に合格するには、合理的知性が必要だが、それは選択できる環境であればよい。それがあると明かされているのだ。しかし何より大事なものは自分が好きで本当にやりたいことの発見という自律としての倫理だとも明かされている。またしかしその倫理は死ぬまで見つからないほどのもので、その発見と達成への知の欲求の動機付けが重要だとも。

★実は名門校の条件とは、欧米のリベラルアーツの体得と言い換えても良い。そのリベラルアーツの要素を簡単にまとめると、合理的知性、倫理的芸術的規範、知の欲求としての理性の3つ。石井君の文章にはこの3要素が全てある。そして桐光学園の30年間の歴史はこの3要素のパーフェクトな整備だったのである。

追記)「東大合格」という記号表現から一般的にイメージされるのは合理的な受験勉強ですね。石井君はたしかにこの点を語っていますが、「自分が好きで本当にやりたいことを発見・自覚しなければなりません」とも語っています。合理的な受験勉強は、桐光の教科学習の側面。ユニーク講習などの側面には、リベラルアーツ的な要素がしっかりあります。記号表現の内示(コノテーション)が「合理的受験勉強」で、記号内容の外字(デノテーション)が「ユニーク講習」、内示が「リベラルアーツ」などということになると思います。この記号の重層構造が歴史性を物語っているのです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[07]~宝仙理数インターが名門校になる可能性あり

名門校の条件[06]~白梅学園清修が名門校になる可能性ありのつづきです。宝仙理数インターは、母体はすでに伝統校です。この不易の部分に、今春、共学校で、リベラルアーツベースの理数系教育を実践する中学部が開設されました。

★この宝仙理数インターは、組織の形態が時代に衝撃を与えましたが、それ以上に、学びの方法論の先進性が、歴史的衝撃を与えています。この衝撃に共感した優秀生が、すでに入学しています。ある意味偏差値を超える新しい学びのスタイルがスタートしたといえます。

★それは算数の中学入試問題においてすでに表われています。算数・数学オリンピックと同質の問題が作られているのがその典型です。ある意味、このような思考のプロセスまで評価できる作問は、OECD/PISA型のテストに似ているもので、今全国学力テストや自治体の新しい学力調査テストが話題になっていますが、その先がけです。

★これによって、教師が生徒の小さな理解の変化を見過ごさない仕掛け作りができる(入学してくる前に一人ひとりの学習方略が組み立てられているのがその現実化の一例です)のですが、同時に生徒自身が自らの理解のレベルや強み弱みを知ることができ、本当の意味で自立した学習ができるようになります。

★道徳の時間も、おもしろい。道徳と法律、道徳と環境、道徳と貧困など、領域横断的知性を育成するプログラムができています。

★ロラン・バルト的には、記号表現と記号内容の間にある外示(デノテーション)と内示(コノテーション)がスパイラルになっている感じで、記号表現だけが宙に浮いている、従来の教育の表現とは全く違います。この硬直した一般の教育の記号表現のパラダイムをシフトして、新しい学びの記号内容の物語を創っているのが宝仙理数インターです。

★マニフェストどおり、新しいパラダイムをはたして、大学進学実績もきちんと出す学校。今までの教育や授業で東大合格者はでるのに、あえて新しい学びのパラダイムをつくりだす。相当速いスピードで、名門校としての評判をつくりあげるのではないでしょうか。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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苅谷教授の諦念

★日経新聞(2007年10月22日)教育欄で、苅谷剛彦東大教授が登場。中央教育審議会が進めている学習指導要領の改訂について感想を語っています。

★その内容は、「文科省が来年度予算の概算要求に盛り込んだ、3年間で教職員を約2万1千人増やす『教師の子供と向き合う時間の拡充(案)』に裏付けられた条件整備」への言及がされていることを今までにない提言で、「画期的」と評しながら、これ以上時間を増やしては、結局教師は忙しくなり、教師の子供と向き合う時間の確保など、現状では無理であるという諦念を語っているものです。

★「どんなに理想的な教育内容を掲げても、それを実行する学校や教師の負担能力以上のことを求めれば、教育は絵に描いた餅になる。それどころか、様々なひずみを生みだしてしまう」と言っています。

★たしかに「基礎・基本も、思考力や表現力の育成も、外国語活動もというのなら、それを無理なく行うための条件整備は不可欠だ」というのはよくわかります。

★しかし、条件整備は、物理的な学習時間や教師の数だけではありません。授業やテストのあり方も整備しなければなりません。しかし、この点に関しては、まったく議論されていません。というよりも、総合的な学習を軽視するところに現われているように、完全に従来型の授業やテストでよいと考えているし、それでよいと苅谷教授もあきらめているように感じるのは私の独りよがりでしょうか。

★もっとも、PISA型テストとしての全国学力テストは、従来のテストのあり方を現場レベルで変えていきます。公立中高一貫校の適性検査という名のPISA型テストも、従来のテストのあり方を変える起爆剤になるでしょう。教育行政の制度改革を促進するのは、結局PISA型テストというトロイの木馬ですね。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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入試問題は学校の顔~東海中

★入試問題は学校の顔とよく言われます。その学校がどのような教育プログラムを持っているのか、入試問題にはその質が反映してしまいます。この間名古屋のセンター模試会場で、東海中とほかの学校の国語の問題を比較してみました。やはり大きな教育の質の違いが明らかになりました。入試問題は、その学校の先生の実力があらわれてしまうものです。

★さて、ではどうやって比較することができるのか。それはOECD/PISAの読解リテラシーというグローバルスタンダード(世界標準)という尺度で比較できます。この研究の成果を私の友人の岡部憲治さんが本「世界標準の読解力」(白日社2007年9月)として出版しました。OECD/PISAの問題と中学入試問題を比較し、十分に中学入試が世界標準の問題であることと同時に世界標準を超えているということを証明した本です。また岡部式「かんがえ型」を編み出し、読解リテラシーや論文メソッドを鍛える方法論も発表しています。

★岡部さんの本に基づき、中学入試問題を分析していくメリットは、すべてのテストを同じ尺度で分析できるので、質の比較ができることと、その学校の教育が世界標準に比較してどのくらいのレベルかということまでわかるという点です。

★学校選択をする際に、世界標準クラスあるいはそれ以上である学校を選ぶ方が望ましいのではないでしょうか。

★さて、OECD/PISAの読解リテラシーは3つの能力と各能力を5つのレベルに分けています。読解リテラシーの能力領域は3×5で15領域あるということになります。岡部さんは、中学入試問題をていねいに分析していって、15の領域を超える問題が出題されていることを確認しました。ですから岡部さんのオリジナルの読解リテラシーの能力領域は18個ということになります。

*参照→岡部さんのオリジナル習熟度レベルの表(前掲書86・87ページ)

★実際の入試問題はOECD/PISAが出題していない知識確認の問題があります。ですから、これをレベル0として追加しないと入試問題全体は分析できません。岡部さんのオリジナル習熟度レベルの表(前掲書86・87ページ)を多少修正して、今後いろいろな学校の国語の中学入試問題を分析していきたいと思います。この習熟度レベルの表の見方や実際のOECD/PISAの読解リテラシーの問題に関心ある方は、岡部さんの本やサイトをご覧ください。いずれサイトで、岡部さん本人がもっとおもしろい分析をしていくことと期待しています。

07 ★まずは今年の東海中の国語の問題です。「情報の取り出し」「解釈」「熟考と評価」という3つの読解リテラシーの能力をバランスよく出題しています。この能力は入試問題のためにあるわけではありません。さまざまな情報(文章だけではなく写真やグラフやデータもテキスト情報)を読解する際のリテラシーの能力です。

07_2 ★東海中の読解リテラシーに対する考え方が、世界に通用するものであることがわかります。また、レベルを分析するとレベル5までの問題がありますから、中学入試の段階で、すでに世界標準に達していることが望まれているわけです。なるほど愛知県でナンバー1の私立学校ですね。このレベル表に基づいて、ちょっとしたシミュレーションをすると、合格者の平均正答率は68.2%という結果が出ましたが、実際にはどうでしょうか。いずれ確かめてみましょう。それはともかく、世界標準を超える読解リテラシーの問題は出題されていません。これでは困ります。

★というのも受験生は過去問を基準に学びます。今のままでは世界標準の枠内の学びで終わるでしょう。これでは国際社会で活躍する才能があっても、芽は摘まれてしまいます。東海中の使命を考慮すると、もっと世界に目を向けるべきではないでしょうか。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[06]~白梅学園清修が名門校になる可能性あり

名門校の条件[05]~新設中学が名門校になる可能性のつづきです。歴史性があれば物理的な歴史時間が短くても名門校になる可能性があるという話をしてきました。実際に2年前に中学を新設した白梅学園清修についてそれがあてはまるかどうか考えてみましょう。

★駒場東邦の場合、理数系という概念に対するパラダイムの転換という歴史的衝撃を世の中に与えたという意味で歴史性があるということでした。白梅学園清修の場合は、まずは部活がないという意味でこれは衝撃的です。また校則がないという点でも衝撃的です。

★実はすでにある習慣や文化としてのルール(ラング)に頼って教育を組み立てていくのではなく、はじめから白梅学園清修としての文化や規範を創造しようというところから出発しています。ですから秋田校長の日々の生徒と教師に対する目配り・気配りは通常の学校に比べればたいへんきめ細かいのです。

★一般の学校の校長としてはやり過ぎじゃないかと思われるほど配慮がいきとどいているので、普通なら生徒たちから煙たがられるでしょう。ところがそれほどないのです。というのも1期生、2期生とも自ら伝統を創っていくのだという自負を持っているため、伝統を創出するために自分たちも細かいことについて議論し、実践していかねばならないからです。普通の学校の放課後にあたる時間は、セルフラーンニングタイムです。そのための教室をどう決めるか、気分転換のためにローテーションをかけるとか、おやつはどうするかとか、すべては清修ルールのための活動なのです。

★このようなきめ細かい豊穣なコミュニケーション(パロール)が、清修ルールを作っていくのです。まずは記号表現の外示と内示が生まれ、それからやっと記号内容の外示と内示が生まれてくるのです。白梅学園清修が駒場東邦と大きく違うところは、記号内容の外示と内示の見える化にチャレンジしているところです。(このロラン・バルト的説明は前回の名門校の条件[05]~新設中学が名門校になる可能性を参照してください。)

★英語の場合は、それはすでに明らかになっています。ボキャブラリーや英文による読書のレベル分けがグローバルスタンダードによって組み立てられているので、生徒自らが振り返り自立した学習を行っています。記号表現としての自分の英語学習が、記号内容が明らかになっていることによって、海外のレベルに自分がつながっているかどうかまで理解できるのです。

★この間社会科の畔上先生からお話を聞いたのですが、なかなかすごい構想でした。グラフィカシー(画像読解リテラシーとでも言いましょうか)の授業への導入計画です。画像をプロジェクターで見せながら授業を進めているので、わかりやすいし、生徒も興味と関心をもちやすい。それで大変人気のある先生なのですが、画像という記号表現(シニフィアン)は、記号表現と記号内容の間にどのようなルールがあるのかあらかじめわからなくてもある程度予想をつけやすいので、表現と内容の結びつきの窮屈さを回避できます。

★昔ながらの言語という記号だけに頼る授業は、しかも話し合いを挿入するのであれば問題はある程度回避されるのですが、一方通行的な講義の場合は、記号表現と記号内容のパラダイムやルールを生徒に強制するために、生徒たちは言葉のおもしろさを忘却します。

★それでは知的好奇心などはふくらむはずがありませんね。畔上先生は、まずは知的好奇心の芽を伸ばそうという新しい授業の方法論に挑んでいるのです。人気があるのは当然ですね。

★このような白梅学園清修の試みを目に見える形にして外示しているのが、柴田教頭による「清修だより~緑浄春深」です。清修のサイトには「TOPICS」があります。ここには、学園の行事の様子が描かれています。これは学園の記号表現ですね。そして更新される事実のタイトルが、記号表現の外示(デノテーション)です。またタイトルの記事が内示(コノテーション)です。たいていの学校はここの段階で終わります。それでも力を入れている方です。

★しかし、清修はそれでは終わりません。柴田教頭による「清修だより~緑浄春深」が毎日のように更新されています。これこそが清修の記号内容です。しかし、まだ清修ルールや習慣(ハビトゥス)ができていないため、柴田教頭は、常に生徒と教師となんといっても保護者とずーっと語り合っています。この語り(パロール)が現在の清修を支えている仮設的清修ルール(プレ・ラング)です。タイトルはとりあえず外示(デノテーション)です。タイトルの説明はとりあえずは内示(コノテーション)です。しかし、草創期のパトスの塊です。やがてこれは理屈に転換するのでしょう。そのとき、白梅学園清修は名門校の仲間入りをするはずです。そして、清修ルールの上で日々の対話(パロール)が続けば名門校としてサバイバルできるでしょう。もしこのパロールがなくなれば、伝統校としてはサバイバルできるでしょう。秋田校長先生、柴田教頭先生は、名門校としての清修の未来を望んでいます。もちろん教職員もそして何より生徒たちと保護者の方々も。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[05]~新設中学が名門校になる可能性

名門校の条件[04]~新設中学が名門校になる可能性のつづきです。名門校の条件の1つとして、歴史性というキーワードをあげました。物理的時間の長さの意味での歴史ではなく、超物質的歴史的意義の衝撃度という意味での歴史性がポイントだと。

★そして「21世紀知識情報社会にあっては、理系-文系という二分法を乗り越える必要があります。単純に融合とか統合とか言うものではありません。すぐれた言語能力を持った理数系人の輩出を駒場東邦は果たしてきました。」と。これはまさに歴史的意義の衝撃です。

★この衝撃の仕掛けについて、もう少し説明させてください。実はこの説明ツールとしては、ロラン・バルト的(あくまで「的」です。ロラン・バルトの思想には精通していませんから)なキーワードを活用するのが便利です。というのは、1つの記号(言語やイメージすべての表現を含みます)を4つの切り口で考えられるからです。本当は4つ以上なんですけど、ここでは簡単にということで。

★思想や思考というのは記号の組み合わせでできています。行動も実は表現ですから、記号ですね。教育は理念という思想とその具現化という行動でなりたっていますから、まさに記号について多角的な切り口を持っている思考ツールが有効なのですね。

★4つの切り口とは、「記号表現(シニフィアン)」「記号内容(シニフェ)」「外示(デノテーション)」「共示(コノテーション)」というキーワードです。これを「記号表現―記号内容」という軸と「外示―内示」という軸を交差させ座標系をつくります。それを記号座標系と呼びましょう。

★この記号座標系(つまり記号の四肢的構造)にあてはめて、駒場東邦の衝撃を読解してみましょう。すると理数系というのは記号表現であり、外示です。その内示は、一般的には文系とは違う別のコースということが含意されています。やはり一般的にはその表現内容も内示に一致します。それゆえ、世間というのは記号表現ー記号内容という二分法でのみ考えていればよいのです。

★駒場東邦の衝撃は、内示と表現内容にズレを作ってしまったことにあります。このズレに気づいた学校選択者は、駒場東邦の歴史性に魅惑されるわけですね。実は記号表現と記号内容の結びつきは習慣(ハビトゥス)によって決まるわけです。この習慣は日常の冗長で文脈なきおしゃべり(パロール)と文化的なあるいは国家的なあるいは民族的なルール(ラング)のぶつかり合い(弁証法的な)によってなりたつわけですから、かなり操作性、つまりイデオロギー的なのです。

★したがって、駒場東邦は、20世紀の産業社会の大きな物語という操作性と袂を絶ち、独自の記号表現と記号内容を結びつけたところが衝撃だったわけで、それが駒場東邦の歴史性です。ところが、記号内容の外示と内示を明確に記号表現していないのです。つまり、記号表現(外示あり×内示あり)だけれど、記号内容(外示なし×内示なし)という状況です。この記号内容は、したがって、見えないカリキュラムということになっているのですね。

★これはかつての久保田校長のいう意味ではありません。現在の佐藤教頭のいう意味での見えないカリキュラムです。久保田校長は、記号表現の「教科学習」と「部活や文化祭」を見えるカリキュラムと見えないカリキュラムにグルーピングしただけです。わかりやすさが誤解を生みだすというわかりやすさのパラドックスに陥ったんですね。わかりやすかったために、この考えは、一時かなり広まりました。しかし、この「見えないカリキュラム」の誤謬は、受験業界に私立中高一貫校の大学進学実績神話を浸透させる正当化論になってしまいましたね。

★部活が活発で、あとは大学進学実績を出せば名門校だと。この論理の危うさを佐藤教頭は指摘し、今では「見えないカリキュラム」論は、駒場東邦では使われないようです。このキーワードを使わないけれど、この論法をおしすすめている典型的私立中高一貫校が浅野です。浅野が伝統的エリート校ではあるけれど、クリエイティブな名門校でないのは、そういう理由があります。創設者浅野総一郎だったら、この現状をどう判断したでしょうか。優秀な生徒を集めているのですから、学校当局は、もっと世界標準思考に尺度を合わせるべきです。名門校の歴史性は実は世界性でもあるわけですから。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[04]~新設中学が名門校になる可能性

名門校の条件[03]~海城の新しい人材育成(了)のつづきです。名門校というと、すぐに創設以来100年以上の歴史があるというイメージが浮かびます。すでに紹介した海城学園、これから紹介する共立女子や女子学院は、たしかに100年以上の歴史がありますね。しかし、 「Netty Landかわら版10月号」ですでにご紹介した桐光学園は、来年30周年を迎える新しい学校です。

★30年~50年前後で名門校というイメージを持たれている学校は意外と多いですね。たとえば、駒場東邦や渋谷教育学園幕張なども戦後開設した私立学校です。どうやら名門校というイメージを世間に与える学校は、必ずしも歴史が長いという条件は必要ないようです。

★であれば歴史は名門校の条件ではないかというとそうでもないでしょう。100年という歴史を持っていても、伝統校ではあるが名門校というイメージを持たれていない学校もあるし、戦後できた学校で、伝統校ではないけれど名門校というイメージを持たれている学校もあるさてさてこの事態はどう解けばよいでしょう。

★おそらく物理的時間の長さの意味での歴史ではなく、超物質的歴史的意義の衝撃度という意味での歴史性がポイントなのだと思います。歴史ではなく歴史性。歴史はあるが歴史性のない学校は名門校ではないけれど、伝統校だと思います。逆に歴史はまだまだだが、歴史性はあるという学校は伝統校ではないが名門校になる可能性はあるということでしょうか。

★駒場東邦の歴史性は、御三家のような大きな物語を背負いながら自分の人生を考え、社会に貢献するという20世紀型産業社会に対峙するストレスを抱く必要のない新進路指導プログラムを開発できたというところにあるのではないでしょうか。価値哲学ではなく科学哲学を基礎(パラダイム)として学校全体の教育システムを組み立てていく、この部分は教育という分野では無視されがち。教育の基本はどうしても価値哲学ですから。それゆえ東大や医学部の実績だけがめだってきた。しかし、理数系のパワーが危ういといわれている時代だからこそ駒場東邦の歴史性はたしかにあるのですね。

★しかも、駒場東邦の理数系に対する概念は、新しいのです。20世紀型産業社会の理数系はどうしてもものづくり工学中心だったのですが、21世紀知識情報社会にあっては、理系-文系という二分法を乗り越える必要があります。単純に融合とか統合とか言うものではありません。すぐれた言語能力を持った理数系人の輩出を駒場東邦は果たしてきました。この点についてはいずれまた。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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時代のキーワード「下流」を考えよう[01]

義務教育を問いなおすを問いなおす[01]キャラ化するニッポンを読解する[01]と書いていくつもりですが、同時に時代のキーワード「下流」ということについても思い巡らしてみようと思っています。

★階層意識というのは、従来は経済力でとらえることができたけれども、どうも今の日本はそうではないのではというのが三浦展さんの着想なのでしょうが、個性や自由がだらだら楽しいだけの人生を若者に作り出し、ニートやフリーターをつくっていくというのが、何かしっくりこないですね。

★ここにはキャラクターとキャラの関係ピースを挿入しないとうまく解けないような気がします。キャラとしては個性や自由を表現しているけれど、キャラクターとしては平均化している。これを「下流」と呼ぶのなら、そうかなという気もします。

★渋谷の街頭インタビューで、今回の亀田大毅さんの処分について聞いているテレビ番組がありましたが、女子高生が「キャラは強いけれど、キャラクターはもろかったよね~」と答えているぐらいですから、この二重構造は相当浸透しているのでしょう。

★そして二重構造なのだから、その関係は多様です。たとえば、キャラとしてもキャラクターとしても個性が強く、自由を求めてやまないヒトもいるわけで、それでもニートやフリーターの状況になっているヒトもいる。本田由紀さんなんかは、そこを強調されるわけですね。

★三浦さんは、「キャラ化するニッポン」の著書相原さんと対談していて、私立学校や中学受験を、経済力的には中流だからこそ、自分たちが下流意識を持たないように、あるいは上流意識を持って欲しいと選ぶ家族が多いと語っています。

★ところが、行った先の私立学校は、個性と自由をたいせつにする拠点ですね。どうやら個性と自由ということばの意識にも上流とか下流とかの違いが生まれているということなのでしょうか。

★要するに、経済力が「上・中・下」と意識が「上・中・下」というのは、対応しなくなったということでしょう。そしてさらに、意識はキャラクターとキャラの二重構造になっているわけです。単純に考えても階層意識は、3×3×2で、18のグループに分かれるんですけど、すでに二次元の図にはできませんね。

★ところが義務教育は、経済力の「上・中・下」のうち「中」になることだけを強いてきます。ところが、経済力「中」でも、少なくとも6つのグループがあるわけです。しかも現実は格差社会ですから、経済的には苦しんでいるグループが存在している。そこに経済力上の「中」になるために「学力」をあげなさいということになるものだから、鬱屈感が高まるということになります。

★官僚の基本統計には、経済力指標以外の統計はほとんどないわけですから、これはしかたがありません。ですから相原さんや三浦さんのような文化を調査するシンクタンクを設立している方々のレポートを読み解くことは重要ですね。

★ただし、読み解くときに、東浩紀さんや北田暁大さんのような現代思想の切り口は最小限活用した方がよいでしょう。岡部憲治さんのように世界標準を超える切り口でもいいですね。

★もちろん、活用はするけれど、そこをいつも「自己参照基準」とぶつけながら、ダイアローグ手法(弁証法的手法)で、読み解くチャレンジだけは忘れないようにということですね。切り口がすでにキャラ化していたら、パラドックスやショートの罠からぬけられないでしょうから。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[03]~海城の新しい人材育成(了)

名門校の条件[02]~海城の新しい人材育成のつづきです。】

§3 プログラムを生成し続ける海城学園

Photo_2 ★もちろん、中田先生だけが高感度な抽象性を有しているのではない。多くの先生方が、同様に学年通信発刊を競い合い、生徒たちの論文のアドバイスを毎日実践し、その過程の中で、生徒たちの才能を見出し、伸ばしている。

★そしてこれらはすべてブックレットとして冊子化され、言語化される。日々の生徒と教師の対話が次の世代のプロットタイプとしてフィードバックされる。生徒間だけではなく、教師間にもフィードバックされ多重の振り返り(マルチ・リフレクション)が継承されているのである。超物質主義あるいは高感度な抽象性というのは、このように海城学園内での共有と同窓との間で時間を超えた共有が行われているから可能なのである。

Photo_3 ★このミームによって、20世紀末の海城学園は中三の社会科卒業論文集のプログラムを構築することになったし、21世紀今日の海城学園ではプロジェクト・アドベンチャーやドラマエデュケーションなどの新しい教育プログラムが進行中。海城学園の名門校としてのハビトゥス(文化資本の再生産)が稼動しているのである。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[02]~海城の新しい人材育成

名門校の条件[01]~海城の新しい人材育成のつづきです。】

§2海城学園の不易流行が柔軟な理由

・・・、この一年間に君らに投げかけた言葉(キーワード)を列挙します。それらの意味をもう一度思い返し、相互の関連についても考えてみてください。自分達が一年かけて歩んできた道の全般が見渡せるはずです。次なるステップに進む前に、しばらくは歩を休め自らが歩んできた道を振り返り、今居る位置を的確につかんでおくことは、続く歩みを確かなものにする上で重要なことですから。

【キーワード・キーコンセプト】
「(正統的)リベラリズム「自由と公正としての正義」「(前提を共有しない)異質な他者との共生」・・・「コミュニケーション・コラボレーション・シミュレーション」・・・「聴き合う関係」・・・「ユーモア・アイロニー・シニシズム」

★この一節は、中田大成先生が毎月数回発刊している「学年通信」から引用したもの。2006年3月20日、中二になろうとしている中学一年生に向けて書かれたものだが、驚くほど抽象的なキーワードが並んでいる。

Photo ★しかし、これが海城学園のミームだ。真のリーダーは、物質主義ではダメなのである。超物質的でなければ、ビジョンが見えない。またこの思考性は、頭の中だけの問題ではなく、具現化できる高感度な抽象性。

★実は中田先生は、20世紀末の二度目の海城学園の姿を作った教師の一人であり、21世紀の新しい海城学園の姿の構築にあっては、「将来構想検討委員会委員長」としてリーダーシップを発揮している。そしてこの将来構想の企画・実行と並行して中学一年生からずっと担任も持ち、今彼らは中三生。

★つまり、ビジョン・戦略・戦術・アクションまで全部担っている。だから、将来構想で練られた計画は、ストレートに生徒たちに浸透するのである。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[01]~海城の新しい人材育成

【以前、Netty Land かわら版で、「名門校の条件」を連載してきました。以前書いたものをこちらに転載し、その後新しく続けていきたいと思います。まずは、「海城学園」から始めましょう。】

§1 海城学園は三度知の最前線に立つ

★海城学園と言えば、東大・早慶上智に大量に合格者を出す一流進学校というイメージが強烈だ。最近やっと東大を超える海外名門大学に進学する日本の生徒の話題が、頭脳流出として取り上げられようになったが、海城学園はすでに海外名門大学にも多くの進学者を出している。

★しかし、海城学園は、創設当時から社会に貢献する真のエリートを育成することを教育理念としてきた。東大を頂点とする大学人エリートを育成することを本分としてきたわけではない。

★戦前は日本国家が世界の列強国とどう対等に渡り合っていけるのか、一国独立して世界のリーダーになるための日本の使命を担う人材育成のために「海軍予備校」から出発した。このことが歴史的にどのように評価されるかは別として、当時の軍事技術と才能において知の最前線に身をおいていたのは確かだ。

★戦後から89年冷戦が終焉するまでは、世界の恒久平和を願う敗戦国日本は、もの作り国家としての知を重視してきた。そのため、海城学園は理数系の知の最前線に立てる人材を育成。そのことが結果的に東大・早慶上智大量合格につながったが、決して受験第一主義路線をとったのではない。

★しかし、高度経済成長を経由してジャパン・アズ・ナンバーワンともてはやされた日本社会は、権力者とエリートと知識人の区別もできなくなり、すべては学力エリートと同義であるという共同幻想に侵されてしまった。

★これが俗に言う「大きな物語(公共的正義や自由)が消失し、個人的な損得勘定に支えられる画一的個性」の出現。日本社会はお金以外で世界のリーダーシップを発揮することができなくなり、1990年以降は、その経済力もかつてほどではなくなった。

★日本社会に楽観的な不安が浮遊。そこで海城学園のミーム(文化遺伝子)は再び活発に動き出した。グローバリゼーションという大海原で羅針盤を失った日本社会を導く真のリーダーの育成。そして、決して栄誉ある孤立としての独立ではなく、世界中の国々とコラボレーションできる自律した日本社会の改革的なリーダー、つまり「新しい紳士」を育成する教育プログラムの開発に着手することになった。海城学園は、三度目の新たな知の最前線に立ったのである。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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学校選択というコト[07] JGの場合

学校選択というコト[06]のつづきです。(1)の「 自己実現プログラムの自覚的実行力」について、JG(女子学院)のケースを考えてみましょう。なかなか学校選択12の指標の一番目から抜けられないでいますが、もっとも重要な指標なので、当分ぐるぐる思い巡らすことになると思います。さて、JGも海城と同じように、「自己参照基準」を自他の共同主観という鏡に映して、その正当性、妥当性、信頼性を問うことがきちんとできているのですが、海城と決定的に違うのは、この共同主観を形成する要素に明確に、プロテスタンティズムがあることです。

★これは筋金入りで、卒業後も決して企業や大学などの組織の歯車として生きようとしない、でも生計を立てていくためには、そこで生きざるを得ないというパラドクシカルな条件を、いかに乗り越えて生きていくのか、常にこの問題を抱えながら、自主独立した女性として生きているOGの姿にはっきり表れてますね。

★これについては、以前編集していたNettyLandかわら版のHot@Newsのブログで紹介しました。「自由と生きる私たち」~女子学院講演会を参照していただければ幸いです。

★今回は、JGの数学クラブの話をしましょう。JGではクラブは「班」と呼びますから、名称は「数楽班」となっています。この班の活動がおもしろい。というより驚愕です。MAGNOLIA FESTIVAL(文化祭)でプレゼンしていたのは、パラドックスについてなんですね。

★この班のメンバーは、パラドックスの歴史についても実は調べていて、ラッセルやカントールだけではなく、あのゲーデルの「不完全性定理」まで学んでいるのです。たしかにゲーデルは昨年生誕100年で、来年死後30年で、何かと話題になるのですが、それにしても。

★パラドックスを学んでいることがなぜ生徒の「自己参照基準」と学校の「自己参照基準」が「共同主観」としてアイデンティティをつくることになるのかというと、パラドックスの発想こそ、聖書そのものだからです。毎朝礼拝で、この話を聞いているはずです。聖書の言葉には、貧しき者は幸いだとか、偉い人は奉仕する人だとか書かれているのです。そしてそれを解釈し、実践に使っていくというのですから、筋金入りです。

★「数楽班」のメンバーのすごいところは、ただ理論を説明しているだけではないんですね。このパラドックスだとか矛盾という考え方を、ミステリー小説に適応して創作してしまうのですよ。これも実はロジカルな文章をレトリカルな物語に変換するJGの国語の教育が生きているところなのですが、それはともかく、合宿しながらクリエイティブなチーム活動をやりながらパラドックスで、世界を読み解いているのです。[図CTL]でいえば、完璧にレベルⅤに到達しています。JGの教育にぴったりですね。「創造する自由」とうい言葉は。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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学校選択~07名古屋圏私学クオリティスコア

学校選択~07首都圏共学校クオリティスコアのつづきです。名古屋エリアの私立学校も同様に算出しました。分析対象校は、23校。そのうち2.8以上の私立学校は、16校。つまり名古屋エリアの私立中高一貫校の70%は、クオリティスコアが2.8以上。すごいですね。

★これは何を意味しているかというと、名古屋エリアの私立学校のサバイバル戦略がクオリティ・スクールを目指しているということです。ご承知のとおり、名古屋エリアの公立高校の方が、大学合格実績において、私立学校より優っているのです。

★たとえば、尾張第1群の旭丘の今春の東大合格者は、28名です。東海が29名ですから、すごいことです。そして旭丘との併願私立は、東海、滝、愛知、愛知淑徳と当然偏差値の高い私学となるわけです。

★つまり公立高校王国で、高校入試の時に、併願が組まれる段階で、偏差値が固定されるわけですね。名古屋エリアにおいて、私立中高一貫校は、高校募集をやめ、中学入試だけにする以外に、この偏差値の枠組みから脱するのは難しいのですね。しかし、名古屋エリアの中等教育レベルの生徒数は、首都圏に比べると、どこも大人数。中学だけからは今のところなかなか難しいですね。もしくは、大学合格実績をガンと出す以外に脱する方法はないのかもしれません。

★それゆえ、クオリティスコアをつけて気になるのは、教師の創造的なコミュニケーションやプログレッシブな授業の項目について、3を超えるスコアがつく私立学校がないということです。そんなことより大学合格実績優先なのですね。クオリティは高いけれど、名古屋エリアの従来型の教育の枠組みの中で、クオリティが高いだけで、新しい枠組みにチャレンジしようという学内からの動きがでてくる私立学校は少ないわけです。あくまでも名古屋エリアのドメスティックなデファクト・スタンダードで勝負せざるを得ない環境下にあるというわけです。名古屋という都市が、グローバルシティにならなければ、この環境は崩れないでしょうが、それには30年かかると名古屋のある私立学校に通わせている父親が語っていました。

★名門公立高校出身者が、名古屋という自治体、つまり県議会や市議会を牛耳っているからと。。。私立学校研究は、私立学校が属している自治体の性格まで考察しなければならないということです。そういう意味ではたしかに東京都はグローバルシティではあります。[本間 勇人 Gate of Honma Note

学校名 区分 クオリティ
スコア
2007
10月
予想
R4
平均
星城中 3 3.5 43.0
名古屋中 1 3.3 47.0
名古屋女子大学中 2 3.3 32.0
南山中女子部 2 3.2 57.0
愛知淑徳中 2 3.2 52.0
愛知工大学附属中 3 3.2 38.0
名古屋国際中 3 3.2 33.0
東海中学 1 3.1 59.0
海陽中等教育 1 3.1 51.3
滝中 3 3.0 56.0
春日丘中 3 3.0 43.0
南山中男子部 1 2.9 49.0
椙山女学園中 2 2.9 39.0
愛知中 3 2.8 48.0
大成中 3 2.8 43.0
金城学院中 2 2.8 43.0

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学校選択~07首都圏共学校クオリティスコア

学校選択~07首都圏女子校クオリティスコアのつづきです。首都圏共学校も同様に算出しました。分析対象校は、147校(国公立も含みます)。そのうち2.8以上の女子校は、37校。クオリティスコアを算出するための12の項目が、リベラルアーツの領域に偏っているせいもあり、共学の場合は、スコアがでにくいかもしれません。基本的に共学校は、どうしても生徒募集という経営の論理が優先したり、大学進学実績向上も、実質キャリアデザインというよりは、やはり経営の論理から生まれている場合が多いので、リベラルアーツのようなコンセプトは学内では、能書きととらえられがちの共学校が多いのかもしれません。

★ところが、今春開設した宝仙理数インターや昨年共学校になったかえつ有明などように初めからリベラルアーツに相当するプログラムをつくり、進学指導以上の教育を標榜しているところが出てきています。開設と同時に、グローバルな視点を持っている学校選択者の人気のまとになっています。

★宝仙理数インターは、桜蔭や渋谷幕張に受かった生徒が、そっちの権利を放棄して入学してきたというので、話題になったことは記憶に新しいですね。時代が求めている教育は、やはり大きく変わってきたと考えてよいのではないでしょうか。もちろん従来型の東大・早慶上智に行くことだけを目的にしている学校選択者だってまだまだいるし、そういう私立学校もあるでしょう。しかし、かつてのように新旧両方の価値観が振り子のように行ったり来たりするというよりは、新しい動きのほうが勝っていく時代であることは確かなようです。それでも、日本の教育は改革が遅れるいっぽうなので、従来型の考え方は考え方でしっかり生き残るでしょうが。[本間 勇人 Gate of Honma Note

首都圏共学校 クオリティ
スコア
2007
10月
予想
R4
平均
渋谷教育学園幕張中学校 3.92 65.3
慶應義塾湘南藤沢中等部 3.83 63.5
東京学芸大学附属国際中等教育学校 3.75 54
芝浦工業大学柏中学校 3.58 52.7
渋谷教育学園渋谷中学校 3.50 61.8
江戸川学園取手中学校 3.50 54.7
山手学院中学校 3.42 51.5
春日部共栄中学校 3.42 49.7
宝仙学園中学校共学部理数インター 3.42 46.4
かえつ有明中学校 3.42 45.3
慶應義塾中等部 3.33 67
早稲田実業学校中等部 3.33 62.5
公文国際学園中等部 3.33 60
聖徳学園中学校 3.33 37.2
横須賀学院中学校 3.33 34.3
自修館中等教育学校 3.25 44
常総学院中学校 3.17 41
筑波大学附属中学校 3.08 65
東京学芸大学附属世田谷中学校 3.08 61.5
東京学芸大学附属小金井中学校 3.08 58
東京学芸大学附属竹早中学校 3.08 57
昭和学院秀英中学校 3.08 52.8
共栄学園中学校 3.08 33.9
市川中学校 3.00 58.5
穎明館中学校 3.00 55
獨協埼玉中学校 3.00 46.3
神奈川大学附属中学校 2.92 54.3
東京農業大学第一高等学校中等部 2.92 53.3
お茶の水女子大学附属中学校 2.92 51.5
明治学院中学校 2.92 44
広尾学園中学校 2.92 37.4
淑徳巣鴨中学校 2.92 34.8
小石川中等教育学校 2.83 56
麗澤中学校 2.83 48.7
創価中学校 2.83 48.5
多摩大学附属聖ヶ丘中学校 2.83 47.1
帝京中学校 2.83 37.8

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学校選択~07首都圏女子校クオリティスコア

学校選択~07首都圏男子校のクオリティスコアのつづきです。首都圏女子校も同様に算出しました。分析対象校は、112校。そのうち2.8以上の女子校は、63校。やはり女子校は質の競争が激しいので、クオリティスコアが高くなる傾向にありますね。学校選択の参考になれば幸いです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

首都圏女子校 クオリティ
スコア
2007
10月
予想
R4
平均
女子学院中学校 4.08 65.0
共立女子中学校 3.92 53.3
白梅学園清修中学校 3.92 41.0
鴎友学園女子中学校 3.75 60.3
洗足学園中学校 3.75 56.0
湘南白百合学園中学校 3.67 57.0
晃華学園中学校 3.58 57.0
東京女学館中学校 3.58 51.5
神奈川学園中学校 3.58 45.0
女子聖学院中学校 3.58 43.3
桜蔭中学校 3.50 67.0
桐光学園中学校女子部 3.50 50.7
東京純心女子中学校 3.50 46.0
八雲学園中学校 3.50 45.8
立教女学院中学校 3.42 56.0
横浜雙葉中学校 3.33 57.0
頌栄女子学院中学校 3.33 56.0
カリタス女子中学校 3.33 53.3
桐蔭学園中学校女子部 3.33 48.2
聖園女学院中学校 3.33 47.0
中村中学校 3.33 44.4
雙葉中学校 3.25 63.0
フェリス女学院中学校 3.25 62.0
鎌倉女学院中学校 3.25 57.0
田園調布学園中等部 3.25 52.0
聖セシリア女子中学校 3.25 43.0
白百合学園中学校 3.17 61.0
江戸川女子中学校 3.17 49.5
横浜女学院中学校 3.17 47.8
桐朋女子中学校 3.17 43.0
東京女子学園中学校 3.17 39.0
戸板中学校 3.17 35.5
恵泉女学園中学校 3.08 50.0
品川女子学院中等部 3.08 49.3
聖心女子学院中等科 3.08 48.0
共立女子第二中学校 3.08 41.3
小野学園女子中学校 3.08 36.4
浦和明の星女子中学校 3.00 61.0
吉祥女子中学校 3.00 58.0
光塩女子学院中等科 3.00 57.5
淑徳与野中学校 3.00 57.0
普連土学園中学校 3.00 56.0
日本女子大学附属中学校 3.00 55.0
清泉女学院中学校 3.00 53.5
三輪田学園中学校 3.00 48.3
横浜山手女子中学校 3.00 35.2
横浜共立学園中学校 2.92 59.0
大妻多摩中学校 2.92 51.3
東洋英和女学院中学部 2.83 56.5
実践女子学園中学校 2.83 51.0
富士見中学校 2.83 50.7
香蘭女学校中学校 2.83 50.0
昭和女子大学附属昭和中学校 2.83 47.3
玉川聖学院中等部 2.83 44.7
和洋国府台女子中学校 2.83 40.7
横浜国際女学院翠陵中学校 2.83 39.6
文京学院大学女子中学校  2.83 37.0
富士見丘中学校 2.83 36.8
東横学園中学校 2.83 35.8
目白学園中学校 2.83 34.8
函嶺白百合学園中学校 2.83 34.7
東京女子学院中学校 2.83 32.7
東京文化中学校 2.83 32.0

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質の高い生徒が欲しいというコト

★私立中高一貫校にとって、生徒募集がうまくいくかいかないかは、まず第一に経営の問題です。定員割れを起こさないように、私立学校の先生方は様々なプロモーションの工夫をしています。オープンキャンパスでおもしろくためになる授業や行事をPRしたり、ホームページで学校の様子がわかるように毎日更新をしたりと。

★その中で、やはり大学進学実績がよいと、プロモーション活動は有利になるのですね。大学進学実績をさらにアップさせますというのは本意ではないけれども、言わざるを得ないし、そのためには実績を証明するべく進路指導を強化する必要があります。がしかし、同時に入学してくる段階で質の高い生徒が入ってくるためにはどうしたらよいのかということも問題になります。

★かつて、ある学校の理事長は、できない生徒はずっとできないし、できる生徒はそのままできる。できない生徒が入ってきて、その生徒が伸びるなどということはまずないと断言されたとき、それをどのように理解すればよいのか面食らったことを覚えています。その理事長の教育プログラムは非常にすぐれているのを知っていたからなおさらです。

★つまりできる生徒はできるが、できない生徒はできないままだというのなら、教育プログラムなどいらないことになるからですね。ところがです。自分の経験を振り返ってみると、ななんとその理事長の言っていることは、ある意味真理なんですね。

★たとえば、ある教室にたまたま訪れたとき、読解問題で質問を受けました。対話ができる生徒でした。君がこのパラグラフで問いを作るとしたらどんな問いを作るのと聞いたところ、この比喩の部分を説明してほしいなあというのはどうでしょうと。ふーんなるほどね。どうしてそれを問うの?ときくと、だって解答の手がかりが直接文章の中に書かれていないから、考えなきゃいけないでしょうと。その生徒は麻布に入りました。たった一度会っただけです。

★その生徒はしかし、偏差値は60なかったのですね。それで教室の責任者がちょっと声かけてみてくれませんかと実はセッティングしくれたのです。少し話してみたんです。しかし、この生徒はできる。なぜ偏差値が高くならないのか。おかしいと思いました。で、やはりこの生徒はできる子だったのです。

★理事長が言っているできる生徒とは偏差値の高い生徒ではなく、本当にできる生徒のことを言っているんですね。しかし、そんなことを言ったら、だれだって潜在的にはできる生徒ばかりでしょう。

★結局、できる生徒とは、偏差値などが伸びないような壁を自分で破れる資質を持った子ということになるのです。こだわりやかたくながあると伸びません。素直でやる気のある生徒が伸びるのですね。柔軟ともいいますかね。まさかと思うかもしれません。しかし、やはりできる生徒や出来るヤツというのは、確認のための問いをあまり立てませんね。そんなのは自分で調べればよいわけですから。ではどういうコミュニケーションをとるかというと、創造的な思考につながるような対話をします。創造はこだわりを捨てるところから始まります。

★偏差値が高くても、そこから先、創造的コミュニケーションをやめた場合、偏差値はそこで止まります。ところが、偏差値が低くても、創造的なコミュニケーションをとっていると、なぜか偏差値はあがります。もともとそういう能力があったのですが、発揮されていなかっただけです。

★だから偏差値が低くても創造的コミュニケーションができる生徒はできる生徒なのです。偏差値が高くても、伸び悩んでいる生徒は、どこかで創造的コミュニケーションを止めてしまった生徒です。

★質の高い生徒が欲しいと多くの学校の先生は言いますが、それは偏差値の高い生徒が欲しいと言っているのではないのですね。柔軟で創造的コミュニケーションができる資質があればそれでよいのです。

★この間も知人の子どもが国語が苦手であるというので、ちょっと会いにいきました。するとなんとなんと私とたのしげに話してくれるではないですか。その様子は創造的という以外に言いようがないものでした。偏差値に反映されていないだけで、十分にできる生徒だと実感しました。トレーニングQ&Aを3時間ぐらいしたでしょうか。読解は算数よりやさしい論理。直観がまず必要ないということがわかったと。もともと理解できる生徒です。ただそれが今まで読解とは得体の知れないものだと思い込んでいたのですね。偏差値は47から56にアップしました。しかし、この表現は正確ではありません。自分の力がやっと偏差値に反映するようになったという言い方が正解でしょう。

★ただ、トレーニングQ&Aの対話がポイントです。ここは誰も気にも止めません。何かスキルや方法論というものは目に見える何かだと思っているようです。わかりやすく道具化されていなければならないのですね。だからいくらトレーニングQ&Aの話をしても、なぜそれがすごいのかわからないのです。Honda「発見・体験学習」にもそれを埋め込んできましたが、結局伝わらず。、マニュアル化が進みました。マニュアル化は創造性をストップさせます。書籍編集のアドバイスもしました。するとそれは塾のスキルだし、くどくなるからはずしましょうということになりました。えっ、ハイデガーとトマス・アクィナスの対話何だがなあ。だいたい私のことを国語の講師だとレッテル貼りし、そのこだわりから抜けられない人たちとの創造なき対話は疲れますね。

★とにかくとにかく、OECD/PISAもそのQ&Aの創造性につては、明らかにされていません。だからPISA型世界標準と日本では騒いでいますが、だれも真意を汲んでいません。こりゃまた形だけ移植される。いつの世も幸せの青い鳥なのですね。

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学校選択~07首都圏男子校のクオリティスコア

学校選択というコト[01]で「12歳のための12の学校選択指標」を紹介しました。12の項目をそれぞれ5段階でスコアをつけて、その平均をだしてみました。分析したのは首都圏私立男子校49校です。そのうち25校が2.8以上。24校が2.8未満という結果になりました。

★スコアの付け方は、

5…学校全体で自覚的に取り組んでいる

4…取り組んでいる中核になっている先生方がいる

3…意識はしていないが伝統的にあり改善策を講じる必要性を感じていない

2…潜在的にはある

1…潜在的にあるかもしれない

0…ない

★また今年のセンター模試のR4偏差値を付けました。入試が複数回数ある場合は、その平均を算出しました。これによって、【図 学校選択のための4つのタイプ】のうち、エクセレント・スクールがどこの学校で、クオリティ・スクールがどこの学校かわかります。

★両タイプは、まずクオリティスコアが2.8以上であることが条件です。そして偏差値で50以上であればエクセレント・スクール。50未満はクオリティ・スクールとなります。

★この【図 学校選択のための4つのタイプ】が、「知性」「感性「理性」の教育の質の高い学校を選ぶヒントになれば幸いです。もちろん、私の独断と偏見ですから、あくまで学校選択者の方々の自己参照基準と照らし合わせる参考にすぎません。ただ、現状では偏差値が低くても、未来に向かって頑張っている学校がどこなのか調べるときに役立つはずです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

首都圏男子校 クオリティ
スコア
2007
10月
予想
R4
平均
麻布中学校 4.50 68.0
栄光学園中学校 4.42 68.0
慶應義塾普通部 4.42 64.0
開成中学校 4.33 70.0
聖光学院中学校 3.92 65.3
武蔵中学校 3.83 64.0
海城中学校 3.83 63.0
逗子開成中学校 3.83 57.0
駒場東邦中学校 3.67 66.0
芝中学校 3.58 57.5
桐光学園中学校男子部 3.50 55.0
芝浦工業大学中学校 3.50 47.3
筑波大学附属駒場中学校 3.42 72.0
世田谷学園中学校 3.42 56.0
那須高原海城中学校 3.42 45.3
聖学院中学校 3.42 40.5
桐蔭学園中等教育学校 3.33 56.3
早稲田中学校 3.25 64.5
暁星中学校 3.17 61.0
攻玉社中学校 3.17 58.0
藤嶺学園藤沢中学校 3.17 45.3
鎌倉学園 3.00 56.0
横浜中学校 3.00 41.0
武相中学校 2.92 36.8
桐朋中学校 2.83 62.0
サレジオ学院中学校 2.83 60.5
京華中学校 2.83 39.7
京北中学校 2.83 35.0

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キャラ化するニッポンを読解する[01]

義務教育を問いなおすを問いなおす[01]では、藤田英典さんの「義務教育を問いなおす」をきっかけに日本の20世紀産業社会の理念がいかに今でも教育改革に根付いているかということを考えていこうと思っています。一方でポスト産業社会のビジョンを考えるヒントとして、相原博之さんの「キャラ化するニッポン」(講談社現代新書2007年9月)を読解していきたいと思います。

★相原さんは、バンダイのキャラクター研究所(キャラ研)の所長であり、同研究所の代表取締役ですが、自らキャラと社会現象の関係をガンガン発信しています。キティちゃんやたまごっち、エビちゃんなどのキャラ分析は、実に現代日本社会現象考ですね。キャラ・マーケティング調査もしているので、実に現代日本経済社会の仕掛け人の一人といったところでしょう。

★なぜこれが私立学校と関係があるのかふざけてるのかと思った方は、20世紀産業社会の枠組みの中の理念をお持ちの方ですね。相原さんの分析は、若手現代思想家の東浩紀さんや北田暁大さん、そしてお二人のネットワークの伊藤剛さん(マンガ評論家・編集者)などの日本現代社会現象考とサイバースペース現象考の方法論の成果をきちんとつかっています。

★東さんや北田さん、伊藤さんの膨大な本を読解したいところですが、わたくしは一般市民で、そこまでの力量も時間もないので、182ページの新書版である相原さんの本を選択させていただきました。それにここには実際にキャラ商品開発をする実用的なコンセプトがあるので、現代思想家・評論家たちのメソッドが庶民レベルにおちるときはこういう形や内容になるのだというのがわかります。もっとも相原さんまでのレベルで理解するのは、一般庶民にはまだまだハードルが高いかもしれません。

★それにしても、東さんや伊藤さんの「キャラクターとキャラは違う」という考え方や議論は魅力的ですが、サーッと読んで了解できるかといえば、微妙な点が残るというか、思想家・評論家の常なのでしょうが、不確定性原理が働くらしいのですね。

★そこへいくと、相原さんはわかりやすい。蛯原友里はキャラクターでエビちゃんはキャラであると。キャラクターはリアルだけれどキャラは違うと。自然の世界にはキャラはない。たしかにキャラはミニチュア化するけれど、そのような人為的操作に相当するものは自然の世界にはないのですね。

★エビちゃんはキャラとリアルをしっかり分けている。女優としてドラマにあまりでないから、キャラ要素とリアルな要素が区別されているように見える。しかし、たいていの女優はリアルな部分を女優というアクションにシフトしていくので、全面キャラ化するというわけですね。

★多様で多層の情報メディアの出現によって、キャラ化は何もタレントだけでなく、一般の子供たちもシミュレーションできる。ここに光と影の問題が横たわってきますね。ポストモダンはこの光の部分を強調するでしょう。モダンの側は影の部分をデフォルメするでしょう。

★政府の教育改革は、モダニズムです。キャラ化のようなポストモダンの部分は例外として対応しています。ニートだなんてレッテル貼りはその典型ですね。ここには子どもたちの間に、あるメンタルな格差を生んでいますね。それにたいして本田由紀さんチームは、違うだろうと意義申し立てをしています。

★さて、私立学校の理念はどちらなのでしょう。多くの私立学校はどちらにも与しませんね。モダニズムはリアルの内面化。ポストモダニズムはリアルのキャラ化→リアルの喪失。私立学校はそのどちらでもない。

★ところで、おわかりのように、日本の教育を考えるとき、一般の公立学校と私立学校の対立構造で考えていては全貌が見えないのですね。ポストモダンな教育機関が生まれなければならないのですが、それは一般の公立学校に包摂されて隠されているのが現状です。「キャラ化するニッポン」は大きく分けて3種類の中等教育のありかたを予想させる格好のプラグマティックな思想書です。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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学校選択の視点を持つというコト

★名古屋のセンター模試会場(2007年10月7日)の保護者会で講演をするチャンスがありました。「学校選択の視点」と「入試問題の傾向」について話しましたが、保護者の反応が逆に勉強になりましたね。

★今や名古屋は、日本の中で最も経済的な活況を帯びている都市ですから、首都圏との労働力の交流も頻繁であり、それに伴って家族も大移動となります。すると当然子供たちの教育問題が浮上しますね。学校が変わっても教育環境の条件や質が同じところを探さなければならないし、転勤族は、名古屋以外の学校情報を収集しておく必要があります。

★だから、学校選択の視野も全国的になっています。もちろん受験生の親全体がというわけではありませんが、保護者会に参加した20%の家庭では、そういうことが問題になっているように感じました。

★講演終了後、そういう問題意識を持っている保護者から質問されましたが、非常にアンテナが高い方が多かったですね。「学校選択の視点」を持たねばならないのは、もちろん東大をはじめとする有名大学に進むのに有利な条件を持っているところを探さねばならないからですが、東京の私立学校に比べ、名古屋の私立学校は(公立はもっとすごい)とにかく、勉強させる環境にあるので、そのこと自体はあまり心配していないという感じでした。むしろそれでよいのかと思うというのです。

★このような目先の大学進学実績のことだけではなく、グローバリゼーションの動きや環境問題(これはエコロジーというより国際政治や経済の話として問題にしている方が多かった)に対し、将来自分の息子や娘がどのように対応し乗り越えていけるのか、そういうことの見識や教養を身につけることができる教育環境を選択することが大事なのではないかということです。ですから、「学校選択の視点」を磨くことは、子供の10年先、20年先、30年先の未来を考えることでもあるというのです。

★それともう1つ重要な点は、コミュニケーション、人間関係、組織形態が旧態依然としていないかどうかを判断したいということですね。電車の事故や角界の不祥事は、旧態依然とした抑圧組織がもたらしたケースです。そういう学校も実は多いですね。これが水面下で起きている「いじめ」です。世間に知れわたるときには、かなり凄惨な状況になっていますね。

★学校の教職員のコミュニケーションスタイルはチェックしなければならないのです。特にこのチェックは、受験生の時に大いにできます。入学してからだとなかなかチェックしづらいし、学校に対しもの申すことは勇気がいるでしょう。在校生は、受験生に比べ、顧客だとか消費者だとかいう感覚は学内では相互に薄くなります。モンスターペアレントなどというレッテルを貼られては困ってしまいますから。

★ですから、受験生や塾は、正当性、信頼性、妥当性ある「学校選択指標」を作っていく必要があるのです。偏差値と大学進学実績だけで学校を選ぶ態度を見せていると、旧態依然としたままで実績を出せるので、学校は変わりません。学校を変えるのは、制度よりも消費者1人ひとりの厳しい選択眼なのです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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義務教育を問いなおすを問いなおす[01]

★藤田英典さんの著書「義務教育を問いなおす」(ちくま新書2005年8月)は、教育基本法改正前に出版された本であり、教育再生会議発足前に出版された本でもあります。その時点で、すでに日本の教育のベクトルを見定めている本ですから、藤田さんの見識を、きちんと整理しておく必要があると思います。

★おそらく独自の見解というよりも、日本の教育関係者の見識を代表してまとめられていると思います。藤田さんは教育社会学者ですから、現状の教育制度や潜在的カリキュラムを批判的に検討しています。日本の教育の問題点が浮き彫りにされるので、一方で教育改革というか教育改善に役に立つと思います。それで政財界、官僚にとって耳が痛い話もあるでしょうが、彼ら側に巻き込むには値する見識です。

★藤田さんご自身は巻き込まれようとは思っていないし、批判的思考でその難を逃れられると思っているでしょう。しかし、藤田さんの見解に傾倒する教育関係者、特に自称他称のお弟子さんたちは批判的思考にマスクがかけられるので、取り込まれる可能性があります。

★どこにマスクがかけられているかというと、「問いなおす」基準です。ここがあまりに大きな物語で、そこに住まうと感じなくなります。見えなくなります。居心地がよくなります。当たり前になります。コモンセンスになります。ハビトゥスになります。でも不思議なことに伝統といういう意識はないのです。トートーロジーですが、大きな物語がなくなったので、そういう場では「伝統」は成り立たないのです。意識下に隠れてしまいます。

★さて、「問いなおす」ための基準ですが、それは21世紀のビジョンを考え、それを基準にというわけではなさそうです。藤田さんは戦略的にあえてそこを明らかにしないのかもしれませんが、その基準は20世紀産業社会が必要とする教育のあり方そのものです。

★ですから「義務教育を問いなおす」→「義務教育を問い直す」→「義務教育を問い正す」という一連の流れの背景には、20世紀産業社会の理想型を参照して批判的思考がなされているのだと思います。そこを明確に意識して藤田さんの見解を読まなければ、さっきまで総合学習を批判していたのに、今度は総合学習の良いところをいったりして、何なのだろうということになります。

★東大の佐藤学さんは、自らポストモダニズム(若い社会学者のいうポストモダニズムに照らし合わすとまだまだモダニズムですが)への移行を表明し、そこを基準に教育改革の提案をされているわけですから、極めてわかりやすいのですが、藤田さんは世の中のシフトはあまり意に介していないというか、教育は変わらんんだろう基本はという現実的な思いから出発しているのかもしれません。理念社会学ではなく実用社会学だということでしょう。

★まっしかし、ここでポイントは、政治や経済では大きな物語はたしかになくなったのですが、どうやら教育の領域では、表向きは大きな物語は見えなくなっていますが、背景にはしっかり20世紀のパラダイムが目に見えない形で大きな物語として存在しているということでしょう。教育の改革の速度が、ほかの領域に比べ遅いのはそういうわけがあると思います。

★多くの私立学校の理念は、日本の官僚モダニズムとは一線を画しています。ポストモダンに対してもそうです。私立学校の理念を探究することが重要なのは、藤田さんや佐藤さんに代表される教育に対する基準が、私立学校は違うからなのです。理念はあらゆる選択判断の最終上位基準です。この基準が違えば、具体的な実践方法もおのずと違います。

★今やポストモダンの時代です。大きな物語はなくなった。だから教育についてそこから解放されて自由に現場で考えることができるということになっているのでしょうが、いやいやそれは違うのです。能書きはいらない、何をやるかだというのは権力発動の拠点です。日本人はこの言葉大好きですよね。難しい議論は時間の無駄だ、売ってこいという営業方法がいまだにあるでしょう。その原点は、難しいことはお上が考えてくれるから、指示どおりに動けばよいという教育の現場にあるのではないでしょうか。

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私立学校の理念のタイプ[7]

私立学校の理念のタイプ[6]のつづきです。前回「・・・『●●としての私は○○としての私である』という関係性の広がりを持っています。『f(x)=●●として』、『g(x)=○○として』とすると、『私{f(x)}は私{g(x)}である。』となります。」と書きました。

★「私」というのは生徒だけではなく、教職員も含みます。私立学校においてその「理念」は学校に居る一人ひとりが共有し、人間ばかりではなく、教育空間、教育道具、教育プログラムすべてに浸透しているはずです。

★しかし、それは意識してそうなっているわけでもないし、完全に「理念」に同意しているかどうかはわかりません。むしろ鵜呑みのように「理念」に盲従して行動するのは抵抗感があるでしょう。

★だからg(x)には、「理念」をチェックする仕掛けが存在する必要があります。それは「知性」「感性」「理性」「不安」という能力です。私立学校は欧米のパブリックスクールやギムナジウム、プレップスクールといったノーブレス・オブリージを背景に持っている中等教育システムの伝統を継承しています。現在の私立学校で働いている一人ひとりの教師がその伝統を意識しているかどうかはわかりませんが、意識する必要がないほど徹底しているのです。

★よく「総合学習」のようなプログラムは私立はできるけれど、公立はできないと批判されます。子供の学力が違うとか、教師の待遇が違うとか表層的な理由があげられますが、根本はリベラルアーツを継承しているかどうかです。

★このリベラルアーツの基礎は「知性」「感性」「理性」「不安」を身体と脳神経が開放系システムとして有機的能力の塊に転換できるかにあります。知育・徳育・体育とどう違うのかと問われるかもしれません。知育・徳育・体育は「知性」と「感性」だけの有機的能力の塊だけでも成り立ちます。ですから言葉が似ているからといって、同じじゃないかというのでは、困ります。

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私立学校の理念のタイプ[6]

私立学校の理念のタイプ[5]のつづきです。「私は○○としての私である。」という関係性の私であるという話をしていますが、わけがわからなくなるので、こういう表現をとりましたが、実はこのスキーマーは「●●としての私は○○としての私である」という関係性の広がりを持っています。「f(x)=●●として」、「g(x)=○○として」とすると、「私{f(x)}は私{g(x)}である。」となります。

★関数式で私を表現するなんてとお叱りをうけそうですが、「私」という存在方程式を誰もまだ発見していないし、難しいわけですね。しかし、ロボットはこの一部を関数方程式化しているから、つまりプログラム化しているから稼動します。

★プラトンやその弟子たちが造り上げたアカデメイアが数学を愛したのも、西田幾多郎が京都学派に数学を導入しようとしたのも、人間存在方程式の解明のためだったのでしょう。

★ですからいま最も社会問題になっているのはf(x)とg(x)の関数が空集合になってしまっているという事態です。「私は私以上でも以下でもない」という存在方程式はこういった感じなんです。

★そこで私立学校の場合、「理念」というのがでてくるのですね。この「理念」は実は人間存在方程式の言語化、ロゴス化、レトリック化です。数式化はあまりに複雑で、自然数や整数の世界だけでは表現できないので、まずは言語化という歴史的流れです。

★f(x)の部分を言語化すると、たいていの学校は「たとえ犠牲となっても他者のために自分は考え行動し、奉仕する」となります。これが公立学校になると「他者のために自分は考え行動する」となります。宗教的理念は排除されますからね。

★しかしこれはまだ私立学校よりです。「他者のために」は資本主義社会では不要です。「他者に迷惑がかからない限り私は好きな考えや行動を選ぶ」というのが文科省が認可できる実際的なところでしょう。

★ところが現実はこの「他者に迷惑がかからない限り」という条件すら取っ払われています。「私は好きなことはなんでもする」となっているのですね。そこでフロイトの超自我を持ち出して、なんとか低学年のうちから超自我を押し付ようと、いやいや養おうとしているのが教育心理学の大きな流れではないでしょうか。

★なかなか私立学校の理念のタイプにいきつきませんが、これでタイプを考える準備はだいたいできたと思います。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[5]

私立学校の理念のタイプ[4]のつづきです。「不易流行」とはあまりに人口に膾炙された言葉ですね。芭蕉の俳諧の理念をあらわす言葉なのも言うまでもないですね。私立学校の理念とその具体的な教育実践をあらわすときも「不易流行」という言葉をつかいます。

★私立学校の理念(本質)が、新しく時代に適合していていきながら具現化することをあらわしているのでしょう。結局本質とその表現は一致するということですね。トートロジーというわけです。

★そんなの古いじゃないかとか同じことを言っているようでは意味がない・・・とはよく耳にするフレーズですが、真理は真理なわけです。

★しかしながら、やはり「私は私である」という同義反復は不安なのです。「私は○○としての私」であるのでなければなんとも不安です。この「○○としての」という表現は、「私は私以外の何かと関係している」ということを表します。

★「関係性」のない私は不安だということなのです。「私という本質は、○○として表現される私なのである」というように「関係性」が生まれると不安は消えるのです。もちろんその「関係性」によるのではあるけれど、絶望的不安ではなく、誤謬の不安ですね。誤謬は正すことができます。しかし、絶望は・・・。

★さて、私立学校の理念といった場合、この絶望的不安を回避する「関係性」を核としたタイプがほとんどでしょう。ですから私立学校の「理念」をタイプ分けするには、その「関係性」の構造に着目すればよいのです。

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