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キャラ化するニッポンを読解する[02]

★ 「キャラ化するニッポンを読解する[01]」のつづきです。相原さんによると、日本は「キャラ化」現象であふれている、キャラなしでは生きていけない現象が起きているということらしいのです。

★たとえば、<日々仮想現実空間にどっぷり浸ることで、「生身の私」よりも「キャラとしての私」のほうに親近感やリアリティを感じるようになってしまった人たち>がいるというのです。これは「アイデンティティのキャラ化」だということです。

★<ダイエットやアンチ・エイジングに日々精を出すことで、自らの「生身のからだ」を拒絶し、永遠に劣化しない「キャラクター的身体」を手に入れようとする人たち>もいるようです。これは相原さんによれば「身体のキャラ化」。

★そのほかには、小泉純一郎をキャラ立ちさせた「政治のキャラ化」、企業イメージのキャラ化によって資金を大量に集める「経済・企業のキャラ化」、商品販売とその生産活動全体の物語よりも、キャラ属性にしか魅力を感じない「消費のキャラ化」が起きているということです。

★キャラとしての私が私である。キャラとしての身体が身体である。キャラとしての首相が首相である。キャラとしての企業が企業である。キャラとしての商品が商品である。・・・

★あらゆるものはキャラ以上でも以下でもないというのが、「キャラ化」現象なのでしょう。そんなんじゃダメだあ~となると「今の若い者はダメだ」論になってしまいます。これでは何も解決しません。まずは、この「キャラ化」現象がいかなるものか相原さんの考えを追跡しなくては!

★さて、相原さんの上記の様々なモノやヒトの「キャラ化」の考え方には、ある共通点がありますね。それはキャラ化は何かが化けているという前提があるのです。その前提は「生身」なのです。この「生身」が「キャラ化」するわけです。そして「生身」より「キャラ化」のほうが居心地がよいということになっているのですね。

★あるところで相原さんは「生身」を「リアル」に置き換えます。そしてその対義語として「仮想現実」を持ち出します。するとリアルから逃避して仮想現実に生きることがキャラ化だということになってしまうんですね。

★その点に関しては、IT社会の進化、それに伴う経済現象がそうなっているのだから、それはそれでよいと、相原さんは、この経済現象を否定しませんから、「キャラ化」現象は、ITによる経済の進化現象としても考えられているのでしょう。なるほどポストモダン的な発想ですね。

★モダニズムからすれば、特に官僚主義的モダニズムからすれば、それでは困るということになるんですね。「キャラ化」現象は道徳の荒廃をもたらすとかモラルハザードだとか言いだすわけですね。フロイドの超自我まで持ち出して、道徳の教科化が必要だというのですね。

★「キャラ化」現象には「道徳の教科化」政策でというのでしょうが、学校の法化現象が、学校のキャラ化を推し進めるパラドックスを生み出していて、「道徳の教科化」を逆に切り崩してしまいます。「キャラ化」現象に「道徳の教科化」で挑めば、その抑圧威圧に対するストレスの爆発が法化現象を生み出すのです。

★ニッポンの「キャラ化」現象を止めることはできないのです。「キャラ化」を逆手に取ろうという文科省の役人もいます。しかし、それではこの現象の本当のところをとらえることができないでしょう。「キャラ化」現象に向かわなければならない歴史的構造分析が必要なはずです。しかし、それはたいへん難しくて私の手に負えません。このまましばらくウダウダ考えていくぐらいでとどめておきましょう。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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