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2007年11月

成長し続ける学校力[05]~中村中(2)

成長し続ける学校力[04]~白梅学園清修のつづきです。昨夜中村中で、あるミーティングがありました。私立中高一貫校の先生方とNTSの石井さんが集まって、来年度の私立学校の授業の勉強会のコンセプトと運営の仕方について話し合うミーティング。

★この会はもともとCALという授業の勉強会で、しばらく活動がゆるやかになっていたので、今回のミーティングでは、いかに進化を遂げるかがテーマになりました。

★CALでは、授業を通して、1人ひとりの生徒が人間や社会と関係を結べる感性と知性を自己陶冶できる居場所をつくれるようになるには、どんなプログラムが考えられのか、私学の先生方が集まって勉強していた会です。そのような授業を「The授業」と称して、勉強会の成果を幾冊かの本として出版もしました。

★CALには、私立学校の授業は、教科の知識を教えるだけではなく、クリエイティブな人材、社会関係を建築できる人材を育成できるのだという信念を持った先生方が集結しています。大学受験指導を超えた本物の授業に挑戦している先生方です。

★ですから、この会の活動が緩慢になるのは、日本の教育にとってモッタイナイのではないかと、中村学園の理事長小林先生が、CALの会長の京北の校長川合先生、CAL所長の共立女子の教頭渡辺先生とCALの事務局長の石井さんとで、CALの今後について話し合うことになったのです。

★小林先生がCALの先生方にエールを送り、なおかつ学園の入試対策委員の活動で活躍されている(多忙であるということでもあるです)教頭梅沢先生と新藤先生までが協力して新しいCALを盛り上げていこうというのには、大きな理由があります。

★中村中が大人気な理由は、梅沢先生と新藤先生のハイタッチな超おもてなしの心にあるのですが、この心が学園すべての先生方の授業に反映するように互いに切磋琢磨しているところにあるからです。授業にこそ居場所がある。この心地よさが知識を余裕で整理して覚えられるし、自分の考えをその知識をうまく引き出して形作ることができるのです。

★そして、小林先生は、授業は常に未完であると語ります。毎年新しい生徒が入学してきます。生徒一人ひとりによって理解の広がり深さには違いがあります。当然授業に変化が起こります。超もてなす心とは一人ひとりの理解の状態を読み、それに合わせて問いを投げかけたり素材の工夫をするわけです。だから授業は生徒にとって居場所であるわけですが、授業としては完成したかなと思うと再び変容するわけです。この繰り返しを授業は未完であると、小林先生は語るのでしょう。

★CALの活動は、この小林先生をはじめとする中村中の先生方の気概と共振できる活動なのでしょう。それゆえ新生CALのために、中村中の伝統であるボランティア精神が動いたのだと思います。

★先生方は意識していないのですが、外部から観察していて、今や中村中の先生方の動きそれ自体が<広報>になっていると思います。かつては入試対策委員の先生方が、一生懸命<宣伝>した時期があります。しかし、今では先生方が、自らの考えを世の中に発信したり、何か子どもたちのために役に立つのではないか活動することが、世の中に心地よい気持ちを伝えることになっているのですね。これが真実の瞬間であり、本物の<広報>です。

★中村中の授業は教室の中だけで行われているわけではないということでしょう。教室を超えた空間にも授業の心が広がっています。そして学校の外にも授業の心が広がっています。それが成長し続ける中村中のベースなのです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[19]~茂木健一郎氏のコンセプト

名門校の条件[18]~茂木健一郎氏のコンセプトのつづきです。茂木健一郎さんは、倫理に対して脳科学の立場から論じているところがいっぱいあります。倫理の意識が脳科学的にどのように論理づけられるのか興味はあるのですが、まだ輪郭はみえていません。やはり茂木さんの考え方を追跡してみましょう。やがてはっきりみえてくることでしょう。

問題の鍵は、等価性や流通性、換算性といったデジタル資本主義の概念的基盤にある。もともと、貨幣は、国家権力を背景にした強制流通力というインフラの下、世界のあらゆる場所に及ぶ流通性を持っていた。それがインターネットという物理的距離の制約を超えてデジタル情報が流通していく基盤の登場により、毒性の強い「ネオ貨幣」となった。(「欲望する脳」12 人間らしさの定義)

★茂木さんは従来の国家権力の庇護の下の貨幣を懐かしがっているのではありません。デジタル資本主義の下でも、貨幣は国家権力を背景にしています。ただ、その権力を悪用するチャンスが、デジタル資本主義の中では多くなってしまったということです。

★しかしこのデジタル資本主義の事態を多くなってしまったに過ぎないという楽観論的にみなすのか、新たな闇が広がるという冷静な見方をするのかは、ものの見方のわかれるところでしょう。前者はポスト・モダン的なフラット論ですね。なんでも差がないという権威をひきおろす考え方ですね。これはこれで、大事な発想ではあります。

★後者は、やはり権力をチェックする目は重要だとする考え方です。オールド・モダンのポスト・モダン的な装いを批判的に思考する考え方ですね。国家権力や近代的自我にこだわっているあたりは、まだトランス・モダンであるかもしれません。しかし、茂木健一郎さんの考え方からは、いずれにしても名門校の環境で学んだ雰囲気が伝わってくるものです。

[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[18]~茂木健一郎氏のコンセプト

名門校の条件[17]~茂木健一郎氏のコンセプトのつづきです。茂木健一郎さんの考えの軌跡をたどっていくと、近代とは何かについて輪郭がみえてきます。

近代の資本主義は、個々の人格の単一性や独立性を前提にしなければ成り立たない。契約における債権者あるいは債務者という概念も、近代的自我の単一性が保証されなければ重大な危機に陥る。(「欲望の脳」10 私の欲望は孤立しているのか?)

★これはオールド・モダン。日本の近代は官僚によってこれが推し進められました。背景にはダーウィン主義による進化を目標とする近代。その際、大事なことは近代的自我の同一性。つまり個人の利益が、自由・平等・博愛によって保守されること。個人の利益がハッピーであれば、他者もハッピーなはず。したがって、オールド・モダンやダーウィン主義に抗うことは難しいのですね。

★しかし、歴史的には近代が誕生するときに、もう1つの近代も生まれていたのです。やはり、自由・平等・博愛を標榜。ただこちらは他者の利益が個人の利益を保証するという立場。個にこだわるのではなく他者と個人の相互利益の共有という点でトランス・モダン。さて、茂木さんの引用のつづきをご覧ください。

そのような点に鑑み、近代的自我という概念自体が、市場における取引を円滑に進めるために必要とされたある種の「インフラ」であったと考える論者が出てきたとしても不思議ではない。近代の資本主義を批判し、相対化する過程で、近代的自我自体を批判し、相対化するというのは論理的に見やすい理屈である。 

★これはポスト・モダン。近代的自我のような窮屈なモノトーンの個人より、もっと横断的で多重文脈を所有したいよという立場で、デジタル資本主義のベース。オールド・モダンとポスト・モダンはいつも親子喧嘩。フロイト的ですね。エディプスコンプレックスは、オールド・モダンとポスト・モダンの物語です。それは茂木さんの引用のさらなるつづきで明らかです。

インターネットに代表されるデジタル情報ネットワークという新たなインフラの上で、人間の欲望を無限に解放することを是認することで爆発的な発展を遂げつつある現代のデジタル資本主義も、近代的自我の成り立ちを前提にしなかければ成立しない。

★オールド・モダンはIT嫌いですから。超自我で多重文脈的自我を単一文脈になれと抑圧。これに対しポスト・モダンはネット文化で反撃。しかしながら結局、ポスト・モダンも個人の利益が優先。いやオンリーかもしれません。日本の公立教育制度のベースは、このオールド・モダンとポスト・モダンだったのですね。公立教育の論客佐藤学さんが、自らポスト・モダンを標榜していることからもわかります。

Apot ★一方、トランス・モダンをベースにしているのは、私立学校です。ところが、それはオールド・モダンのときの話で、デジタル資本主義下では、やはり不易流行でいかねばなりません。どういう新しいトランス・モダンを創るのか。それがアドバンス・モダンです。 [本間 勇人 Gate of Honma Note

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成長し続ける学校力[04]~白梅学園清修

成長し続ける学校力[03]~中村中のつづきです。白梅学園清修の成長力をささえているものの1つに、在校生の保護者の応援と教師に対する思いやりがあります。清修のサイトからその様子を引用してみましょう。

受験の時の不安な事や何かにすがりたい気持ち、色々な事が思い出されました。開校前は、60名の方が学校説明会に参加してたのが、今は240名の方が学校に来られているのをみると嬉しい気持ちでいっぱいになりました。先生方もお身体を大事になさって下さい。遅くまでご苦労様です。

★今回もまた学校説明会に訪れた方は増えたようですね。3期生を迎える学校説明会に1期生の保護者がサポートしにきて、自分たちのときに比べ4倍の人数の参加者が訪れているのを見て、感動しているところがよいですね。そして日々遅くまで生徒と保護者とコミュニケーションしている先生方に感謝の気持ちでいっぱいになっているのがわかります。

今日の説明会を見て、学校も生徒も着実に成長していると感じました。先生方の温かい、時には厳しい眼差しのお陰で、充実した学校生活が送れているのだと思います。娘は学校の話をよくしてくれます。色々な時間を過ごしているようですが、これからの学校の発展に関わる事ができ、幸せだなぁと思いました。家にいながら私も一緒に楽しませていただいています。今後ともよろしくお願い致しします。 ※今日はエプロン持参で参りました。先生方が拭き掃除などされていたので、掃除や準備はいくらでも致します。遠慮なく言って下さい。先生方お忙しい毎日ですので、少しでも体を休めていただけたらと思います。今日はお世話になりました。

★在校生の保護者が、学校と生徒の成長を実感しているのがすてきですね。そしてそれが家庭内のコミュニケーションにも良い影響を与えているのだということが伝わってきますね。特に「先生方お忙しい毎日ですので、少しでも体を休めていただけたらと思います」ということばには、先生方も教師冥利に尽きるといったところでしょう。

★しかしながら忘れてならないことは、先生方は決して忙しいと愚痴ることはないのです。おそらく忙しいと感じていないのでしょう。柴田教頭先生に、すこしゆっくりとか、今日は帰りましょうと言われて、ハッと気づくようです。いつ伺っても、教職員の方々の自然体の笑顔に癒されます。たしかに保護者のみんさんが言うように、ご自分たち自身を癒す時間を持つ気遣いが必要ですね。本当に、くれぐれもお身体を大切にしてください。

[本間 勇人 Gate of Honma Note

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成長し続ける学校力[03]~中村中

成長し続ける学校力[02]~聖学院のつづきです。今や中村中は生徒が学園生活を送りたい私立学校の1つで、応募する生徒の数はものすごい(これについては「中村中は応募者が増える学校の1つの型」でかつて書いたので参照していただければ幸いです)のですが、教頭梅沢先生や新藤先生にお会いして、人気の高いわけを改めて感じました。

★お二人のリーダーシップとおもてなしの心は絶品です。お二人に出会った保護者や受験生がその魅力にひかれて中村中に通いたいと思うのは了解できますね。しかし、この間お会いして、新たに発見したことがあります。それはコミュニケーションの間の取り方が絶妙だということです。ツカミが実に巧みというか洗練されているのです。

★これは二人の先生方の個性でもあるのですが、どうも中村中の伝統あるいは遺伝子(ミーム)のような気がしてなりません。そんなことを思っていたとき、理事長・校長の小林先生のお話を聞くチャンスがありました。

学校説明会を手伝ってくれる生徒のことを、今まで「お手伝い」と呼んでいたんだけどね、梅澤先生が「代表生徒」と置き換えたんだよね。すると生徒たちは前にもまして明るく元気に保護者を迎え入れてくれるんだよ。

★そう語って微笑んだのですが、ここですね。この真実の瞬間のツカミというコミュニケーション能力が実に高いのです。それを小林先生も見逃さない。

★脳科学的には内側前頭前野が活性化する言葉を選択したということになるのでしょうし、文学的には置換というレトリックを創造したということになるのでしょう。道としては最上のおもてなしということになるのでしょう。

★いずれにしても人間関係を結ぶ感性が豊かな学校が中村中なのです。20世紀後半の近代の閉塞状況を突き抜けるには、論理だけではなく豊かな感情が必要だと言われている21世紀です。その点で抜きんでている中村中は、ますます成長していくでしょう。 [本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[17]~茂木健一郎氏のコンセプト

名門校の条件[16]~茂木健一郎氏のコンセプトのつづきです。「欲望する脳」を読むと、実はすぐに茂木健一郎さんのコンセプトが名門校の影響を受けていることはわかってしまうのですが、そこはいずれ明かすとして(読んだ方はすぐにわかるので、もったいぶる必要はないのですが、実はいつも言っていることなのでしつこくなります。それゆえ後回しに。)、茂木さんの言葉をみていきましょう。

現代の脳科学においては、感情は生きる上で避けられない「不確実性」に対する適応戦略として進化してきたと考えられている。(「16 近代からこぼれ落ちた感情」から)

★1990年以来の脳科学の時代にあって、この提言は重要なのです。それ以前はやはり理性の時代だったし、左脳の時代だったのです。右脳の発見はそんな昔の話ではなく、90年以降の話だったのですね。

★そういえばダニエル・ゴールマンのEQもちょうどそのころにベストセラーになっています。IQだけではなくEQの重要性は、左脳だけではなく右脳も重視した脳科学に対応するわけです。ゴールマン自身、認知心理学に脳科学の成果―特にアントニオ・ダマッシオの「感じる脳」―を取り入れ、最近では「SQ(社会的知性)」という本を出しています。

★近代からこぼれ落ちたというより、オールド・モダンからこぼれ落ちたと言った方が正確でしょう。19世紀末のもう一つの近代は、感情も大事にしましたからね。名門校の系譜はそういう意味ではオールド・モダンに与してはいなかったはずです。茂木さんはこうも語っています。

私たちは、近代からこぼれ落ちてしまった感情を、一体どうすれば良いのだろう。熱心に投資戦略を練って悦に入っている人に、私たちは思わず「ヘン!」と肘鉄砲をお見舞いしたくなるが、それは、資本市場など感情のモノカルチャーでしかないと知っているからだろう。しかし、もともと現代社会の中で許容される人間の感情の幅は、どんどん狭くなっていっている。考えてみると恐ろしい。その隘路からどうやって私たちの魂を救うかという課題は、1つには芸術の問題ではあるが、より根本的には、「不可能」や「無限」をも概念として扱える、真に偉大な科学理論の登場を期するしかないと私は考える。だからこそこうして模索している。

★「不可能」や「無限」の概念も含む科学や芸術となれば、それはますます19世紀末にルーツがありますね。それに感情が貧困になっていくことを救うのは、このような科学や芸術のベースを生み出す名門校―今では私立中高一貫校の中にそれが多いのですが―に大いに期待したいと私は考えます。 

★そうそう、茂木健一郎さんは、ここでは珍しく資本市場を目の敵にしていますが、これは金融資本のことを指しているだけです。産業資本、社会資本、クリエイティブ資本の話になると、また別のはずです。感情のモノカルチャーでは、これらの市場は活性化しないからです。資本も多重文脈資本の世の中になったのが今なのですね。科学や芸術や教育も、霞を食ってはやっていけないことはお忘れなく。   [本間 勇人 Gate of Honma Note

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成長し続ける学校力[02]~聖学院

成長し続ける学校力[01]~八雲学園のつづきです。聖学院から「学校だより248号 2007年11月3日発行」が届きました。中2の上高地での夏期学校のことについて報告されていますが、今年のテーマは「生まれ変わりを経験する」とあります。一瞬ギクッとしましたが、精神面の話だったのでホッと安心。

★おそらく、このテーマは、生徒たちの脳の前頭前野を揺さぶったことでしょう。変化は刺激的ですから。それはともかく「中2学年のこの時期は中学生活の折り返し地点にあたります。これまでの自分を省み、新しく生まれ変わった自分でこれからの中学生活後半を充実させてほしい」という聖学院の願いがこめられている行事です。

★また混迷の時代を果敢に生き抜く、自分の生き方と進路を考える時間でもあるようです。なるほど「生まれ変わりを経験する」はずです。

★「学年だより」の中で、校長山口博先生は、ピリピ人への手紙から次の言葉を引用されています。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなた方の求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうていはかり知る事のできない神の平安が、あなたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

★新しく生まれかわる思春期の時代に、この言葉は生徒たちの身に染みわたったことでしょう。生徒たちはこう詠います。

登り終え 体力限界 蝶々岳 自分の心 蝶になるかも

雲の上 下を見れば 銀の道 上を見れば 未来への道

体力の 限界超えて 進み得る 新たな自分を 生み出すために

旅終えて 生まれ変わって 見た景色  しかし見たのは 迷子の自分

★生まれ変わるとは、しかしまた不確実な層に自分を投げ込む勇気でもあるのかもしれません。これは生徒たちばかりではなく、聖学院の先生方の心境でもありましょう。常に生徒とともに成長するのが聖学院なのです。 [本間 勇人 Gate of Honma Note

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教育の挑戦[06] 聖園女学院(6)

教育の挑戦[05] 聖園女学院(5)のつづきです。聖園女学院の入試問題をいただいたので、分析してみました。入試問題は学校の顔です。学校の教育理念やシラバスなどのエッセンスがきちんと表現されている優れた問題が創られる場合があります。そのような入試問題を作成できる学校は、やはり教育とそれを形成している教師の質が良いわけです。

★聖園女学院の国語の入試問題(1次A)は、まさに教育理念や教育プログラムのエッセンスがきちんと表現されているし、読解リテラシーのとらえ方も、OECD/PISAの世界標準のモノサシのレベル5を超えています。

★出題された岡部伊都子さんのエッセイは、「世界がぜんたいに幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という宮沢賢治の言葉からはじまる文章です。なんとここでも黄金律の話がテーマなのです。もう一つ重松清さんの物語が出題されました。病気のために入院、そして転校しなければならなかったクラスメイトとの心の交わりがテーマの文章です。ここにも「関係」「信頼」「思いやり」「自分を見つめる」という黄金律に通じるテーマが見え隠れしています。一貫した教育と信念を感じないわけにはいきませんね。

07★そして読解リテラシーの問いも「情報の取り出し」「テキストの解釈」「熟考と評価」という3つの能力のバランスをみられるようにプログラムされています。中学受験を通しながらも、「受験脳」に固まらず、論理的に思考し、想像に思いをはせられる柔軟な頭脳を鍛えることができる問題が工夫されているということですね。

07_2 ★また出題レベルもOECD/PISAのレベルを超えるレベル6の問題も出題され、世界標準の読解力を超える問題も出題され、生徒のチャレンジ精神に刺激を与える問いが用意されています。世界標準の読解リテラシーでシミュレーションすると、平均正答率は70.2%になります。受験者の最高点が88/100点満点で、受験者の平均が59.7点ですから、合格者の能力も世界標準に準じていると想定できます。偏差値ではどうしても「受験脳」の基準を超えることができませんから、受験勉強が人生においてどういう位置づけになるのか見えてきません。こういう世界標準のモノサシで分析してみると、聖園女学院を目指して学ぶことが世界標準を超える道につながっていること、また出題されている文章を分析することで、人間にとって大切なことを考える時間を持てることに気づきます。 [本間 勇人 Gate of Honma Note

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教育の挑戦[05] 聖園女学院(5)

教育の挑戦[04] 聖園女学院(4)のつづきです。聖園女学院の国語の授業について、教頭濱田正夫先生からお話をお聞きするチャンスをいただきました。進路指導や宗教の時間と同じ構造の展開がプログラムとして工夫されていることに気づきました。

★ワークシートを使ったり、チームで議論をし、自分たちが気づいたことをプレゼンテーションしたり、レポートにまとめたり・・・。

★たとえば、羅生門を読んで、芥川龍之介の問いかけに耳を傾ける作業を、多目的ホールで、チームに分かれて議論をしていくそうです。芥川龍之介という人間の本質を見極めようとした作家の目を通して、エゴイズムと宗教の関係についての気づきを発見するという過程を大事にしているのでしょう。

★この羅生門についての読み解きは、中1のときと高1のときの両方で行うということです。学びの成長と気づきの変化を生徒自身が気づくという螺旋型の教育プログラムになっています。生徒自身が自分で気づく過程を重視しているところがポイントですが、このような授業の展開をあらゆる教科で実施しているところが聖園女学院らしいところではないでしょうか。

★この自ら気づく、そのためには生徒どうし、生徒と教師が互いに対話するというチャンスをあらゆるところで創っていくという教育が聖園女学院の特徴です。

Photo ★このような授業がベースにあるからこそ、たとえば、生徒会が年間目標を自分たちで気づき、話し合い、自分たちの言葉で表現できるのです。今年の年間目標は、各教室や廊下に貼り出されています。「如己愛人」がそれです。生徒会で話し合って決めたそうですが、まさに聖園女学院の精神そのものではないでしょうか。

★各教室には日めくりカレンダー風の聖書の言葉があります。それをめくっていくと、なんと「あなたがたは人からしてもらいたいことを人にしなさい」という福音の言葉がありました。生徒会のメンバーはこの言葉を直接意識したかどうかはわかりません。しかし、明らかにその精神は受け継がれています。

Photo_2 ★そこまでカトリックの精神に影響を受けているのでは、少し偏っているのではないかと思われる方もいるかもしれませんが、実はこの福音の言葉は、グローバルな言葉でもあるのです。1985年に国連創立40年を記念し、アメリカ合衆国の代表として当時の大統領夫人であったナンシー・レーガン夫人があるモザイク画を国連に寄贈しました。そのモザイク画はアメリカの芸術家、ノーマン・ロックウェルによって描かれた「黄金律」がベースになっています。ロックウェルは「黄金律」が世界中の宗教すべてに共通なテーマであることを確信し、すべての民族、信教、人種を描いたんですね。そしてロックウェルの書いた「黄金律」こそ「あなたがたは人からしてもらいたいことを人にしなさい」だったのです。

★世界の痛みに気づき、世界の平和に視野を広げるときに、キリスト教や仏教などの宗教を避けて通るわけにはいかないのですが、「受験脳」に固執している間は、それに気づかない場合が多いですね。中学受験の使命は、世界で活躍する人材として育つ場を見つけることでもありましょう。それには他者の痛みと自分のつらさを重ね合わせ、乗りこえる大きな人間に成長することに価値を見いだせることが大切ですね。 [本間 勇人 Gate of Honma Note 

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名門校の条件[16]~茂木健一郎氏のコンセプト

名門校の条件[15]~共立女子のクオリティのつづきです。1990年代は日本は経済の空白の10年。しかし世界では脳科学の時代と言われてきました。右脳の発見、神経経済学の発達、脳トレなど、脳科学は政治経済、ゲームの世界、そして学びの世界で必ず話題に出る領域となっています。

★そんな中で最近、脳科学で現代社会やコンテンポラリーアートを読み解く脳科学者が出現。国語の中学入試の素材文でも出題されるようになりました。茂木健一郎さんがその人です。茂木さんは学芸大附属中高出身のようで、私立中高一貫校と同じような条件で思春期を経ている可能性があります。

★だからというわけではありませんが、茂木さんの脳内反応を見てみたく、新刊の「欲望する脳」を少し読んでみました。するとやはり名門校の条件のコンセプトが埋め込まれていることに気づきました。日能研から筑駒に進んだ、茂木さんより9歳若い東浩紀さんのコンセプトとも共通点が多いし、東さんと同じ歳の聖光出身の哲学者北田暁大さんともそうだと思います。茂木さんより3歳上の麻布出身の宮台真司さんとも共通するコンセプトを持っています。

★ただ、そのコンセプトの根拠が人間の脳内システムにあるのが、新鮮ですね。

★さてさて、どんな表現に名門校の条件を感じたかというと、

自分のことにしか関心がないナルシズムは醜いだけである。客観的な批評基準に準拠せずに、延々と自分語りを続ける人たちにはうんざりさせられる。その一方で、他人に心を開き、あまりにもスムーズにコミュニケーションを続けるだけの人間にも、どこか信用できないものを感じる。真摯であれば、時に他者を避けるのが自然なのではないか。自分の内に籠り、鬱々とする時間もまた必要なのではないか。人間の知性の本質が社会性にあるのが事実だとしても、時には「我」の中に閉じ籠って曰く言い難い私秘的な思いを醸成することなくして、深い世界洞察にも、気持の良い創造的跳躍にも到達することはできないだろう。私たちは、人間の精神のあり方について、そのような直観をも持っている。

★この二律背反というか、ダイアレクティークな感覚というか、個と普遍の感性というか、個と世界性の葛藤というか・・・こういうものの両立!バランス!中庸!公正基準!・・・。これが明治以降から続く名門校の条件のコンセプトではないでしょうか。教養というかリベラルアーツというか、そういう土壌ではないでしょうか。インテリゲンチャーではなくインテレクチャーとしての知識人の素養ではないでしょうか。そしてこの知識人の姿が名門校から抜け出て「多重文脈人」に移行されている場合があるというのが現代社会・・・。私立学校の新しい形態が生まれつつある・・・。このことについては知る人ぞ知るという段階ですが。

★ともかく、しばらく茂木健一郎さんの本を眺めてみましょう。 [本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[15]~共立女子のクオリティ

名門校の条件[14]~共立女子のクオリティのつづきです。この間共立女子の教頭渡辺先生にお会いしたとき、放送朝礼のときの先生の話の内容が話題になりました。

★渡辺先生は、「4つの願い」についての意味について話されたようです。「4つの願い」とは、

1.他の人からほめられたい。

2.他の人に認められたい。

3.他の人に愛されたい。

4.他の人の役にたちたい。

★共立女子の生徒にかぎらず、だれでもが持つ願いだし、欲求、欲望でしょう。オールド・モダンやポスト・モダンでは、否定できない願いで、どこが問題なのですかと質問しました。

★すると、渡辺先生は「これらの願いに、もし結局他の人からいい人だと思われたいという要求があったとしたらやはり問題でしょう。この場合、最初は『これをしたら人は喜ぶだろうな』ということを考えるため、『これをしたら人は嫌がるだろうな』とはなかなか思い至らないものです。世間で善い人といわれる人は<人を喜ばす人>よりも<人の嫌がることをしない人>なのでしょうね。」

★このお話を聞いて、なるほど共立女子は名門校なわけだと改めて感じたし、座談会で話し合われてきた共立女子の名門校の条件に通じる話だと確信した。それは、渡辺先生の話が、座談会のときも、朝礼の時も一貫しているから当然であるし、こうやって、名門校の条件が共立女子の隅々にまで浸透していくものなのだなぁと感じ入りました。

★他者と自分の関係を、自分中心にしない場合は、<人を喜ばす人>も<人の嫌がることをしない人>も同価値なのでしょうが、自分中心な場合<人を喜ばす人>は、結局は自分の利益を念頭に置くことになるので、4つの願いの罠に陥ってしまいます。そうならないように、振り返ってごらんというのが渡辺先生の話の目的だったわけです。

★話はさらに発展しました。「自分がしてもらいことを他者にもしなさい」というのはキリスト教的な倫理表現で、「他人に迷惑がかからないことを他者にしなさい」というのは儒教的な倫理表現だとすると、パラドクスが埋め込まれているのは、キリスト教的発想なんだと。

★自己中心的な人間が「自分がしてもらいことを他者にもしなさい」というのは、結局自分の利益を計算して合理的に行動できてしまうけれど、自己中心的な人間には、「他人に迷惑がかからないことを他者にしなさい」というのは、なかなか選択できない行動です。やろうと思えばできるけれど、あえてこの行動を選択はしないでしょう。初めから一義的に表現されているわけですね。でもキリスト教的発想は、両義的なわけです。

★麻布学園の創設者江原素六も、渡辺先生のように生徒に講話をしていたそうですが、そのとき、やはりキリスト教と儒教の両方の話をしていたということです。あの渋沢栄一もそうですね。プロテスタンティズムの資本主義を日本に導入する一方で、「論語と算盤」を執筆しているわけですね。そういう意味では、日本の私立中高一貫校としての名門校は、欧米の名門校とは一味も二味も違うわけで、名門校の比較教育をすることが、グローバリゼーションの世界に一石を投ずることになるかもしれません。

★日本の名門校は、欧米のパブリックスクールやプレップスクールをモデルにしていただけではなかったのですね。世界標準であると同時に世界標準を超えている。この両義性が日本の私立学校の名門校の条件だと改めて認識することができました。 [本間 勇人 Gate of Honma Note 

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成長し続ける学校力[01]~八雲学園

八雲学園の先生方とお会いしました。同学園が中学を再開して中高一貫校として出発したのが11年前の1996年。私が私立学校のリサーチを本格的に開始したのも11年前です。私立学校について何をどう学べばよいかわからないときに、新しい中高一貫校が、どのように教育や学校経営を組み立てていくのか、学ぶチャンスをいただきました。そのとき以来、ずっと八雲学園の成長を形作ってきた先生方のお話を聞くことができたのです。

★八雲学園の理事長・校長近藤先生は、東京私立中学校高等学校協会の会長でもあります。したがって、私学の存在意義について、自治体や文科省、マスコミに説明し続けるために、日本中を(アメリカにも行きますから世界中ですね)奔走しています。しかし、ご自分の学園の生徒・保護者・教師と対話し続けることも大切にしています。

★ですから近藤校長先生を内側からしっかり支える先生方のパワーも相当強くなければならないのですが、八雲学園の昨今の大飛躍の秘密は、何といっても、この先生方の一丸となって何にでもぶつかっていく強力なチーム力です。

★リーダーも強く、チームメンバー1人ひとりも強い。そしてその親和力こそが八雲学園が成長し続けるエネルギーなのですね。

★チームワークに欠かせないのは、やはりコミュニケーションです。近藤校長先生は、政財界人と情報交換してくるし、先生方は他校の現場の先生方や教育関係者と情報交換してきます。そして、受発信してきた情報の共有を学校でしているのです。

★ですから、お会いした先生方との話題は、多岐にわたり、示唆に富んでいるわけです。日本の教育の悩みどころを、アメリカの教育事情と比較しながら展開していく話は実に面白いのですが、もっとおもしろいのは、その悩みどころの解決を、八雲学園の教育実践の中で行っているところです。

★考えてみれば、チューター制などは、24時間体制で先生方と対話ができるシステムです。コミュニケーションという生徒にとってライフラインがあるのは、時代の苦悩や叫びを受け入れる寛容性の実行です。この制度をすべての先生方がいっしょに取り組むのは、他校では難しいでしょう。労務規定だとか、教育の論理と経営の論理は別だとか、契約上の問題が壁になるからです。

★八雲学園も、もちろん契約というのはあります。しかし、アメリカの本物の教育(アメリカはあまりに多様で十把一絡げにはできませんが)を知っている先生方は、その契約はcontractではなくcovenantであることを知っています。相互契約ではあるのですが、それ以前に教育への奉仕であるという約束をしているという意味での契約であることを。

★また、グローバリゼーションの波を避けるわけにはいかない日本の政治経済。教育も世界で活躍するクリエイティブな人材を輩出しなければなりません。それには英語で考える人材がポイントです。EUもBRICsも、本当に英語をつかう人材は当り前のように増えています。シンガポールの中高生は完璧に英語で議論ができるわけです。

★お会いした先生方は、数学と社会の教師でしたが、海外研修に生徒たちといっしょにアメリカにいくので、当然自分たちも英語を使うわけです。近藤校長先生も生徒たちにエールをおくるためにしばしば単身アメリカにわたります。

★八雲学園の英語教育は、教科を超えているし、受験英語を超えています。教師も生徒も保護者も英語をいろいろな場面でインタフェースするのです。このこと自体世界標準だし、時代をしっかり読んでいるわけです。

★成長し続ける学校力とは、フラットなコミュニケーション力と時代認識のための情報分析力、そして何といってもメンバーの親和力です。喧々諤々議論をするけれど、決まったらすぐに実行する雰囲気。この雰囲気を大事にしているのが八雲学園ですね。トルネードのように急成長した八雲学園。ここで少し安定期にはいり、次の時代のために充電したいという気持ちもあるようですが、完全に安定してしまうと、組織というのはやがて衰退期を迎えるものです。ですから安定期にも親和的なゆさぶりが必要だと。それを先生方は「f分の1のゆらぎ」というメタファーで語ってくれました。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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教育の挑戦[04] 聖園女学院(4)

教育の挑戦[03] 聖園女学院(3)のつづきです。あらゆるチャンスで、教師も生徒も保護者もアイデンティティを共有しているなぁと実感できるのが、聖園女学院の大きな特徴です。たとえば、教室に立ち寄ってみましょう。

4024★黒板の横側にある掲示板に、日めくりカレンダー風の「ルール40」が掲げられています。これはどこの教室にも同じようにあります。なんだ、やっぱりカトリックの学校は風紀が厳しいではないかと思う人もいるかもしれません。

★しかし、まずは見てください。「テストはどんなに結果が悪くても、感謝の気持ちで受取ろう!!」とあります。はたして、これは厳しいルールでしょうか?普通なら、テストの結果が悪くても、落ち込まないように。今度がんばればよいのだからと自分に目がいくでしょう。ところが、聖園女学院は違いますね。「感謝の気持ちで」と他者を迎え入れる構えをイメージさせます。

★どういうことでしょう。カトリック学校では、あらゆるチャンスは神から与えられた計画です。それに感謝しましょうということかもしれません。テストの結果が悪いことよりも、そうなったプロセスや自分の弱みを気づくチャンスを与えられたのですから、感謝と寛容の精神が大切ですねということでしょうか。

★大事なことはテストの結果が悪かったら、どうなるという契約ではありません。結果がどうあれ感謝という信頼の気持ち、つまり契約ではなく約束が重要だというカトリック精神が、テストの結果という小さな出来事にも満ちあふれているということです。まさに野のすみれにも神の愛があるのとおなじですね。カトリック学校の中で、信頼や愛の循環を、あらゆる学校生活の中に浸透させているのが聖園女学院の特徴です。

★あるほかのカトリック学校に立ち寄ったとき、聖園女学院と同じキリスト教精神を共有しているはずの学校の先生の話し方がとても横柄だったのには閉口しました。精神が隅々まで浸透しているかどうかは、カトリック学校だからといって、同じではないのですね。

★たしかに教育法規上は、教職員は宗教的精神をもっていなくても構わないわけですから、横柄な態度の教員を、カトリック学校の教師として問題だと指摘することはできないのです。学校選択の時に、カトリックの学校だからという視点だけで選ぶと入学後イメージとズレがあると感じるときもありますね。やはり、学校説明会に参加し、自分の目と耳と足で確かめることは大切です。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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教育の挑戦[03] 聖園女学院(3)

教育の挑戦[02] 聖園女学院(2)のつづきです。清水校長先生から高校二年生のSさんの作文をいただきました。平成19年度「税に関する高校生の作文」東京国税局長賞受賞作品でした。

★最近の税金問題や年金問題のこともあって、カトリック校の生徒が、どのように税金の有効性を論じるのだろうかと興味津津。しかし、拝見して一撃をくらいました。

あれこれ課題を抱えている「税金」だが、「税金」は私たちが豊かで安心して暮らせる優しい力の素であってほしい。一番必要としている人には手厚く。それには日本のどこで誰がどんなことをどのくらい求めているのかを公平な目で見、知ることが大切であると考えるし、また知らない誰かが納めてくれた税金のおかげで私たちの生活が潤っているという現実をまず私たちひとりひとりが自覚し、・・・

★ここには契約としての「税金」と約束としての「税金」の違いが書かれています。あるいは律法としての「税金」と隣人愛としての「税金」の差異が認識されています。マタイの福音にこんな箇所があります。

「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか。」イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。・・・」

★「税金」は、いけにえではなく、あわれみであるというコトの意味を、Sさんはどうして知ることができたのでしょうか。それが聖園女学院の教育によるものであることは確かなのですが、その教育の秘密とは?まだまだ思い巡らしていきましょう。 [本間 勇人 Gate of Honma Note

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教育の挑戦[02] 聖園女学院(2)

教育の挑戦[01] 聖園女学院(1)のつづきです。校長清水ますみ先生のお話の次は、平野先生が進路指導について語りました。壇上にあらわれた瞬間、若き神学生のような雰囲気がただよいました。いやディズニーランドのキャスト(これは誤解される表現かもしれませんね)のように、非常に高感度で、好青年。実に微笑ましいとお母さんがたから受け入れられたのではないでしょうか。

★ストーリーテラーは、リーダーの条件でもあるし、神学生にとってもキャストにとっても、欠かせないスキルですね。そしてプレゼンの基本でもあります。アイコンタクト、スマイル、パフォーマンスの3要素とともに物語るのです。

★それにしてもそのストーリーは、ほかの学校の説明会ではなかなか聞くことができない流れになっていました。日本全体の進路状況と今の生徒たちがおかれている状況という、外部環境からはじまったのです。時代の変化を見つめつつも、時代に付和雷同せずに、自分の生きる道を見出していく聖園女学院の進路指導のストーリー。キャストのようにサービスに満ちた平野先生のジェスチャーは、聖職者の奉仕の意味でのサービスの精神に変容していきました。

★そのことに気づいたお母さん方もいたと思います。いっしょにいかに生きるか、生きる喜びを考えましょう、夢をひとつずつかなえながら。しかし、その夢は自己中心的欲望の実現ではありません。人知れずよいことをする心を磨きあげることなのです。

★もちろん、大学進学実績は、毎年向上していますが、それは卒業生一人ひとりが道を見出し、歩き始める出発点のリストに過ぎないのです。

★平野先生は、大事なのはここですと、自分の胸をポンと打ちました。最も大事なところは、言葉ではなく行いで示されたわけです。ここにはどんなメッセージがあるのでしょうか。それは人生の道で苦しくつらいとき、わたしたち聖園女学院の教師はいつもそばにいて見守っているよという心です。平野先生の表現も、校長先生とおなじように、メタファーに満ちていたのです。 [本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[14]~共立女子のクオリティ

名門校の条件[13]~共立女子のクオリティのつづきです。

§4 共立女子のリベラルアーツ的雰囲気

本間) 「ともだち」というのはまさに共立女子の教育の質を語る上で象徴的な作品集の1つだと思います。校訓の中にも「友愛」というキーワードがはいっていますよね。

Photo_4 渡辺) ご承知のとおり共立女子は、1886年 女性が自立し、社会人として職業に就くことを目的として、教育界の先覚者34人によって設立されたのですね。この34人は、それぞれいろいろな分野で活躍された人でした。文部官僚だけれど、今とは違って日本の教育を切り拓こうというアグレッシブな人物もいたし、女子教育の草分け的人物もいた。彼らが議論し協力して設立したわけで、まさにそこに「友愛」のミームのルーツはあるのでしょう。そしてそれがベースにあるから、欧州統合の父クーデンホーフ・カレルギー伯爵の「パン・ヨーロッパ」「友愛革命」といった思想を受け入れることができたのだと思います。
 鳩山一郎は伯爵の思想に共鳴したようです。1953年に、「友愛青年同志会」を結成し、初代会長に就任しています。この同志会は、文部科学省の所管で、財団法人「日本友愛青年協会」として今も存続しています。一郎他界後も鳩山家はクーデンホーフ・カレルギーと親交を持ち、一郎の賢夫人鳩山薫が学園長時代、伯爵を招き、共立女子で講演を開いたほどです。

岡部) クーデンホーフ・カレルギーといえば、今のEUの構想を描いた伯爵。アルザスの日本学研究所とEUプログラムをコラボしていますが、本当に国境という壁がないですね。フランクフルトからストラスブール、ストラスブールからフライブルグとドイツとフランスを行ったり来たりしますが、まさに友愛という雰囲気です。共立女子の教育の原点は、はじめから壁を作らない教育だったわけですね。

本間) 伯爵の思想のルーツはテレジアーヌム(日本でいう私立中高一貫校)時代のリベラルアーツにあると言われています。

Photo_6 岡部) 欧米の教育は、良かれ悪しかれプラトン以降の思想、特にへーゲリアン・ウェイを意識せざるを得ません。欧米で言うリベラルアーツには、こういう考え方が伝統的にありますが、ヘーゲリアン・ウェイというのは結局「関係総体主義」。共立女子の教育の質はこの欧米流儀のリベラルアーツを共有しているということだと思います。

渡辺) 共立女子の授業の特徴といえば、ソクラテス型の「問答法」です。やはり対話やコミュニケーションというのが共立女子の教育のクオリティを生成し続けているということでしょう。改めて了解することができました。

本間) コミュニケーション・ベースといっても「おしゃべり」から「議論」「プレゼン」まで次元は多層ですが、どうやらその全てが共立女子にはある。だから生徒さんたちは明るいし真剣にもなれる。共立女子の多元的なコミュニケーションのシステムについてもっとお聞きしたかったのですが、また機会を頂きたいと思います。貴重なお話を伺うことができ、心から感謝申し上げます。

Photo ★鳩山一郎は、クーデンホーフ・カレルギーの本を翻訳しています。「自由と人生」がそれで、友愛革命の書なのですね。その中にこんな箇所があります。「近代世界は、友愛的な精神とは大分に懸け離れている。それは生存競争、適者生存なる所謂ダーウィンの根本法則に署名している」と。

★麻布学園、開成、桐朋、女子学院、恵泉、鴎友学園女子、聖学院グループなどは、このダーウィニズムと対峙した私立学校です。東大初総理加藤弘之が推し進めた政策がダーヴィニズムで、それに対峙したのが聖学院の初代校長石川角次郎、内村鑑三、新渡戸稲造らです。彼らの精神的師は、江原素六、新島襄です。ところで、内村鑑三、新渡戸稲造の弟子たちは、南原繁、矢内原忠雄、河井道、三谷隆生、前田多門などでたくさんいるのです。

★南原繁、矢内原忠雄、河井道らは戦後教育基本法成立に影響を与えました。三谷隆正の姉は三谷民子。民子は初代院長矢島楫子を長く支えJGの学監を務めました。前田多門の娘があの神谷美恵子。東京帝国大学医学部精神科医局において内村鑑三の長男である内村祐之教授のもとで研究もしていました。

★要するに、脈脈と続く<私学の系譜>は、日本の官僚近代世界と対峙してきたもう一つの近代、友愛近代社会形成に貢献してきたというわけです。そして共立女子もこの友愛近代社会形成のための人材輩出の拠点であり、<私学の系譜>のメンバーなのです。 [本間 勇人 Gate of Honma Note 

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Benesse力の浸透加速(2)

★前回のBenesse力の浸透加速(1)で、<Benesse力とは、スタッフが学校の先生方といっしょに悩み考え解決力を生み出していくというリーダーシップを発揮できるところだと感じ入りました。>と書きました。

★これは私ばかりではなく、カトリック学校の経営者はピンとくるはずです。特に愛光学園や栄光学園などはそうでしょうね。なんてたって、BENESSEとはラテン語で「よく生きる」というところから命名されたそうですが、要するに中世カトリック神学の匂いがしてくるからです。

★司馬遼太郎さんと立花隆さんは、対談の中で、ヨーロッパについて語ったときがあったのですが、そこで二人は、ヨーロッパは今も変わらず、神学が息吹いているよと言っていました。神学大博士トマス・アキナスの思考体系がと。もちろん、別にヨーロッパの人たちがみな意識しているというわけではないのですが、生活の基盤層にそれがあると感じるということです。

★トマス・アキナスはドミニコ会士で、修道会の祖聖ドミニコの考え方を「神学大全」というマニュアルにした神学者です。聖ドミニコの親友はあの自然を愛した聖フランシスコ。両修道会は歴史の中では結構いがみ合うほど仲がよいわけですね。聖ドミニコは火を噴くような雄弁論者で有名ですが、書を残さなかったのですね。これは聖フランシスコも同様です。

★そこでおそらくトマス・アキナスがドミニコをベースにしながら両者の生きざまから考え方、もちろん信仰のあり方まで膨大なマニュアルを創ったのです。会社に社是や社訓、私立学校に教育理念があるように、ヨーロッパのキリスト教の理念をつくっちゃったということです。

★もうすこしカッコヨク言うと、知のグローバル・スタンダードを作ってしまったんですよね。欧米人は議論を大切にすると言われます。ディスカッションやディベート大好き!というわけでしょう。

★おそらくほとんどの人が見たことがないでしょうが、トマス・アキナスの「神学大全」という知のマニュアルは、ページを開くとQ&A集になっているんですね。すごいでしょう。しかし、もっとすごいのは、考えるマニュアルなんです。Qが出題されると、それに対する反対論者の回答を5つぐらい載せるわけです。そして、トマス・アキナスは、それとは違う回答を結論として述べ、なぜそうなのか根拠を述べます。そして、最後に反対論者の回答を1つひとつひっくり返していくというマニュアルなんですね。

★当時パリ大学では、異端の脅威がありました。神学部の職をドミニコ会で占めなければローマ教会は存在基盤が危うかったわけですね。当時の大学で博士として採用されるには、公開弁論大会で勝たねばならなかったのです。そこで、トマス・アキナスは、後輩修道士のためにマニュアルを作ったのです。しかしこれは知識を暗記すればよいというものではなく、活用できなければならなかったわけです。弁論とはQ&Aの応酬です。最後に詰まった方が、負けました、ありがとうございましたというわけですね。なんか囲碁のようですね。

★ですから欧米の学びの基礎、対話の基礎には実はなんとなんと「型」があるわけです。自由でのびのびするためには「型」が必要なんですね。日本人も同様ですよね。ただ戦後の教育がこの「型」を窮屈だとかいって、あるいは規制、あるいは抑圧だとかいって、壊滅状態にしたんですね。

★もちろん窮屈だったり抑圧的な「型」もたくさんあったのですが、タレントが開かれる「型」もあった。しかし、それを見分ける目が継承されなかったのです。残念ですね。ところが、13世紀に、トマス・アキナスはもっとも大事なその「型」という基準をチェックするマニュアルも「神学大全」の中に埋め込んだんです。

★なんだか未来のマザーコンピュータに、自己チェックの知性をプログラムするような話ですよね。しかし、危機管理とはそういうものです。そしてそれがうまくいかなかったとき、ショートさせるパラドックスを仕掛けておく。だからトマス・アキナスのあとの世代は、このパラドックスを解こうと悪戦苦闘するわけです。イエズス会のスアレス、あのデカルト、あのカント(カントは物自体はわからんという不可知論で応戦)、あのヘーゲル(は神の声は聞こえるというプロテスタントの立場にたって、絶対精神で物それ自体を超えようとしましたが、そこに主観が。ファシズムの忍び込む入り口を、ハイデッガーとともに用意してしまったと言われるときもありますね)が・・・。とにかくみな応戦。でも解答はみつからない。今でも知の開かれたままの状況をつくったんですね。

★OECD/PISAでなかなか優秀な成績をおさめているフィンランドの文科省の人たちは、平気でこういう話をするんですね。ハワード・ガードナーが言うとすると、この知はDisciplined Mindです。これはSubject Matterとは全く違うものだと言います。現代教育はSubject Matterで満足しているけれど、本来はForm of Thinkingが大事だと。このFormを鍛える、陶冶する方法、つまりDマインドを新たに作りたいと言っているのが多重知能論者のガードナー。

★しかし、考えてみれば、このDマインドはトマス・アキナスのマニュアルに相当するんですね。この流れはリベラル・アーツと融合したのでしょう。今でも欧米や日本の私立学校には継承されています。

★なんでこんなことを書いているかというと、Benesseという響きがそういうイメージを沸かせたからなのですが、実はK氏が、「中高一貫校 東大合格√を考える会」の勉強会で「学びのしつけ」という話をしていると聞いたからです。さすがです。ヨーロッパの古くて新しい「学びのDiscipline」、つまりDマインドについてちゃんと語っているのですから。Benesseという響きは力と化して浸透しているということではないでしょうか。I先生からお話を聞いて、そんなことを感じたのでした。[本間 勇人 Gate of Honma Note  

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教育の挑戦[01] 聖園女学院(1)

Photo聖園女学院でオープンスクール(2007年11月17日)がありました。800人はいる講堂は一杯で立見席ができるほどでした。聖歌隊によるハンドベルの演奏から始まったのですが、参加していた保護者はお嬢さんたちと「すご~い」とか「きれいな音だね」とささやき合っていました。曲目はバッハの「主よ人の望みの喜びよ」で、その澄んだハーモニーは、聖園女学院らしさが伝わっていました。

★そういう雰囲気に包まれた中で、清水ますみ校長先生が、心のこもったおもてなしの言葉をかけられ、教育理念について語り始めました。そしてすぐに講堂内には、実るほど頭を垂れる稲穂かなという尊敬の空気が流れました。参加者の高感度な感性のあらわれでもあります。

★ともかく、校長先生のお話のすぐ前のプログラムであるハンドベルの演奏を受けて、ここにも聖園女学院の教育目標と私たちの願いがあらわれているのですよと語られたのですから、保護者は感動したわけです。そこには、生徒一人ひとりの行いと言葉を見守っているという自然体の校長先生の姿があったからです。

★しかも校長先生のおっしゃる「コンダクターに音色を合わせるハーモニー」は、聖園女学院の先生方と生徒たちがいっしょに考え行動する日常の姿のメタファー(隠喩)です。「大小様々なベルがありますが、演奏をしているときに音を鳴らしていないベルは、何もしていないのではなく、自分の役割をまっとうしているのです。音色を響かせるときも響かせないときも演奏全体の中で互いに協力し合う役割を果たしているのです」という表現も、含蓄あるメタファーです。

★幾重もメタファーが重なっているのですが、わかりやすいし、通り一遍の表現ではないので、聖園女学院が何を大切にしているのか、参加された保護者はいつの間にか集中して耳を傾けることになるのです。

★清水校長先生自らが、まずは聖園女学院が考える21世紀のリーダー像を表現するところから始まったわけですが、驚くべきは、次に話された平野先生も、その後お会いした先生方も、清水校長先生の構えをまるでイコンのように表現されていたのです。アイデンティティを見えないままにしておくのではなくイコンとして分かち合っている秘密は、以前から思っていたのですが、学びの共同体(「主の言葉の学びの共同体」という表現が正しいのかもしれません)にあるのではないでしょうか。このことについて、しばらく思い巡らしたいと思います。 [本間 勇人 Gate of Honma Note

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学びのリーダーシップ~仲間に贈る③

学びのリーダーシップ~仲間に贈る②のつづきです。私たちの仲間の一人である岡部憲治さんが、今回も教育ルネサンスで取材されていましたね。10月に取材された読売新聞 教育ルネサンス テストを生かす(7) 読解力磨く「情報の分類」の流れで取材されているのですが、要は創造的思考はいかにして鍛えられるのかということです。

★それは教育ルネサンスを読めばわかりますが、もっとわかりやすいのは、岡部さんのブログ「世界標準の読解力」をテキストとして「熟考と評価」してみることですね。

★私たちのプログラムの目標は、子どもたちが自ら、潜在的な創造的才能を見出して、その才能を創造的に活用する行動をとれるように支援するコトでした。

★そしてその支援は、価値観の違う人間どうしのチームプレイ、異質のものを関連付ける議論、自問自答を促進するトリガークエスチョン環境を創りだすことでしたね。

★岡部さんが取材で答えていることや自分のブログで語っていることは、まったく同じことです。通り一遍のドリルクエスチョンだけでは、スキルは強化されるけれど、創造的思考へジャンプできないのでしたね。

★意外性、わくわく感が生まれるトリガークエスチョン環境をつくると、ある瞬間にジャンプするわけです。意外性こそ好奇心の母であり、好奇心こそ閉ざされていた精神を開放する一撃であり、開放性は疑問を生み出す土壌でしたね。

★疑問が発せられれば、解決しようという動機が生まれます。疑問と解決?そうコミュニケーションです。コミュニケーションとはQ&Aの連鎖です。

★日常的なことがらについてQ&Aを続けながら、そこに非日常的なことがらを挿入する。まじめな話をしていたときに、ドラマやアニメやキャラ、音楽、哲学、建築、庭園、スポーツの話を挿入する。笑いが生まれたり、不真面目なという反応がおきたりさまざまですが、話をもとにもどすために、話題がそれてしまった流れを修復=問題解決しようとします。そのとき異質のものどうしが結びつきます。

★何気ないコミュニケーションが創造的コミュニケーションにジャンプする瞬間ですね。この原始的プロットタイプが「ぐるぐる」プログラムでした。あまりに原始的かつシンプルだったので、身体でツカミを感じなければならず、ずいぶん不評でした。みなタイミングがつかめないとブーブーでしたね(笑)。何せ異質のものをアドバイザーはトリガークエスチョンとして用意しないのですから。それもチームメンバーが自ら挿入するようになるまで待つというのですからわかりにくい。でも自ら挿入する刺激として、たった一つだけクエスチョンを投げかけたのを覚えていますか。「何か変わりましたか」という質問でした。そこからジャンプへのエネルギーが蓄積されるコミュニケーションの雰囲気になりましたね。

★創造的思考は創造的コミュニケーションから生まれます。創造的コミュニケーションは創造的思考から生まれます。そしてこの私たちの創造的才能を生み出すプログラムミームは、確実に多くの人のプログラムと融合して広まっていますね。岡部さんの取材はその典型例です。

★そうそう、ダニエル・ゴールマンの「SQ生きかたの知能指数」(日本経済新聞出版)とハワード・ガードナーの“Five Minds For The Future”(こちらはまだ邦訳されていないと思います)読みましたか。わたしたちのE-I関係プログラムがさらにジャンプするヒントが満載。ガードナーの8つの知(MI)を統合させるのが5つの精神。ガードナー自身プログラムの発展の痕跡。5つの中の1つが“The Synthesizing Mind”。8つの知はそれぞれ異質。それらを結びつける方法はかつては明瞭ではなかったけれど、それが5つの精神というわけです。ゴールマンがEQの次にSQ(社会的知性)を書いたのも、ガードナーと同じ流れ。さすがはハーバードの仲間たちです。

★やはり時代をつくるのは仲間たちですね。それぞれの持ち場で、生きる場をつくりながらも、時代をつくることはできます。それがミームでしたね。みんなの活躍を、新聞や雑誌、サイトなどで見られるのを心待ちにしています。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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Benesse力の浸透加速(1)

★私立学校の先生方と話していたとき、私も知っているベネッセのK氏の活躍ぶりを聞きました。「進研模試」の活用方法について首都圏の私立学校の先生方と研究会を開催したそうです。400人から500人ぐらいの人数が集まったというのですから、首都圏のほとんどの私学の先生方が集まったということでしょうか。

★テーマは「自学自習」だったようです。「進研模試」の成績表から自学自習(DO)のための目標設定(Plan)をしつつ、そのつど振り返り(Check)、再び柔軟に計画を微調整しながら実行に移っていく(Action)という自学自習態勢をいかにつくっていくかということだったようです。

★外部環境における自学自習、内部環境における自学自習という2側面の課題をおさえつつ、そのGAPをどう埋めるのかからはじめ、PDCAサイクルの話に移っていくのですから、わかりやすいし効果的ですね。

★さすがK氏だなと感心させられるのは、大勢の学校の先生方に、模試データの情報分析を提供するだけではなく、戦略の立て方まで伝授しているところですね。おそらく戦略立案モデルは、NT(Nadler-Tushman)モデルをベースにしているのでしょう。

★この戦略モデルはロジカルあるいはクリティカル・シンキングを鍛えるにはぴったりなんですね。学校の先生方は学びの計画は立てるのはなれているでしょうが、学びの戦略ということを考えるのはふだんはあまりやられていないでしょう。それをK氏は、抽象的な言い方をするのではなく、先生方が興味がある生徒たちの結果分析で、具体的に自らまずやってみせるというリーダーシップを発揮しています。

★Benesse力とは、スタッフが学校の先生方といっしょに悩み考え解決力を生み出していくというリーダーシップを発揮できるところだと感じ入りました。K氏は相当勉強しています。内部のシンクタンクリソースは相当豊かなようで、解析力もさながらみな世界の論文や文献を英語で読むと聞き及んでいます。翻訳されるよりはやく情報を得られるのがポイントです。知の情報格差が、ほかの学習カンパニーとどんどん開いていきます。普通は能書きなんて金にならんと言われるからですね。それはともあれ、この格差情報を大いに活用しているのが、K氏ですね。学校の先生方は、世界の情報を自ら入手するのは物理的環境が許しませんから、かなりありがたいとI先生が語ってくれました。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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白梅学園清修の戸塚先生は天才数学教師

★ここのところ全国学力テストの結果発表や12月に公表される予定のOECD/PISAの結果をどう読むか、そしてそれをどう生かすかというテーマで、マスコミの方々と企画編集のミーティングをする機会が増えました。

★私自身も「世界標準」というモノサシで、入試問題を分析したり全国学力テストを分析したりしているし、実際に「世界標準」を意識した授業も企画しています

★ただし、今のところ、<読解リテラシー>のモノサシをベースに国語や社会の分析に終始しているのですが、本来リテラシーなるものは、教科横断ができると思っていますから、なんとか数学とジョイントできないかと考えていました。

★そんなとき、いつも相談にのってくれるのが、白梅学園清修の天才数学教師戸塚先生です。OECD/PISAのモノサシ(数学リテラシー)について議論をしたあと、すぐにPISAの問題の分析をしてみましたが、戸塚先生は1つひとつの問題のレベルを「世界標準」に合わせて明快に説明してくれました。

★そして、レベル6(PISAの数学リテラシーで最高)に到達するにはどうしたらよいのか、学びの方法論についても興味深いアドバイスをいただきました。

★1996年の早稲田の政経の数学のある問題(世界標準のレベル6を越えていますが)などは、中2の生徒も、今学んでいる数学の力で解けるんですよという話などがそれでした。2001年の東大の文系数学入試問題4番もそうでした。あることに気づけば中2の生徒もジャンプできるんですね。

★それには、たとえば、今背理法や三平方の定理について学んでいるということですが、世界標準のレベル4ぐらいまでの段階までで、あまり難しい問題をやるのではなく、日常の生活に隠れている背理法や三平方の定理を発見する学びをセットし続ける創意工夫が大事だということです。

★映画「トリック」のある場面に隠れている背理法を教材にして、生徒たちといっしょに考える授業をしているのですから、なんとも魅力的。このような通り一遍ではない工夫された授業によって、あるとき生徒は、「わかった!」「なるほど!」とジャンプするというのです。これは茂木健一郎さんのいうアハ体験ですね。

★どこかで「世界標準」の数学リテラシーと読解リテラシーを連動させる授業をやりましょうという話になりました。そのときの授業の様子を思い浮かべると今からワクワクします。それにしても、放課後もアトリウムというオープンスペースで話をしていたので、まわりに生徒さんたちが集まり、戸塚先生が取り出した大学の入試問題をいっしょに解きだしたのには驚きました。戸塚先生が、図形に色を塗りだしたとたん、「あっ、わかった!」となったのもたいへんおもしろかったですね。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[13]~共立女子のクオリティ

名門校の条件[12]~共立女子のクオリティのつづきです。

§3 「共立」の意味

本間) コミュニケーション・ベースとか関係総体主義というのは、ある意味「編集過程」「創作過程」の基礎だということですね。この過程は関係を発見してつないでいく知的な活動だし、新たな関係を発見するには、自由で柔軟な雰囲気と自立が必要ですね。

Photo_2 岡部) なるほど、わかりました。高校1年生の「テーマ研究 レポート優秀作選集」を拝見しましたが、社会問題、自然科学の問題を、通り一遍の切り口から展開していくのではなく、「オタク文化」「萌え文化」「アニメ文化」から論じていく生徒も多かったのは、自立や自由を先生方が大事にしているからですね。

本間) 生徒会が中心となって編集している「さわらび61」では、高校1年・2年を対象に「中高一貫校についてのアンケート」結果の特集が掲載されていました。編集委員のみなさんは、こんなふうに言っていますね。「辛口コメントの中にもやさしさがみえる」「それぞれ違う価値観を持っている1200人が共存しているこの状態。これがまさに共立って学校の特徴なんじゃないのかな」「二律背反。相互に矛盾する二つの事が等しい妥当性もって主張されることよ」

Photo岡部) 渡辺先生が現代思想の用語を駆使されるだけではなく、生徒さんたちも難しい言葉を使うんですね(笑)。

渡辺) 生徒はそういう言葉を使いたがる時期ですね。でもそれはそれでよい。高みに上って俗に還るのはもう少し成長してからでよいでしょう(笑)。ともかく、生徒たち自身、いろいろな価値観や考え方をもった自分たちが「共存」「共感」していると了解することがとても好きですね。中学では「共立」という言葉を「ともだち」と言い換えている文集がありますが、この感覚はすべての生徒に浸透していますよ。まさに関係総体主義的でしょ(笑)。

★前回、共立女子の生徒は公共性を批判的に検討し、個性も大事にするように成長すると述べました。今回の対話の部分にはそのように育つ理由が語られています。「通り一遍の切り口」ではないというところが、批判的切り口ですね。共立→ともだち→共存→共感という意識の流れが、行事や部活において当然あるのでしょうが、多くの作品創作過程の中にもあるということもポイントですね。そして公共性と個性は、「二律背反」。それをどう解決するか。これこそまさに「関係総体主義的」構えです。

★そうそうそれから、「通り一遍でない切り口」は、学校説明会でも、先生方によって発揮されています。毎年配布資料には工夫があり、共立らしさを表現するモノが配られます。今年は、共立女子の制服を着たキティーちゃんのストラップでした。これはただカワイイとい表現をしているわけではありません。在校生にもたいへんな人気だったと聞きます。そりゃレアものですから。しかし、そうではないのです。この「キャラとキャラクター」が現代日本の文化を考えるきっかけ、つまりトリガーになるんですね。そのことについては、今回の対話で岡部さんが触れていますね。モノがコトにシフトする瞬間の隠喩が共立女子のキティーちゃんにはあります。モノからコトへとは、通り一遍の考え方を新しい切り口で拓くという「関係総体主義的」構えです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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入試問題は学校の顔[05]~鴎友学園女子

入試問題は学校の顔[04]~かえつ有明のつづきです。前々から気になっていた鴎友女子学園の国語の問題。解き味がほかの学校と比較してかなり違うんですね。長文で記述式がほとんどですから設問が少ないわけです。というと、麻布、開成、武蔵、桜蔭の国語の入試問題スタイルの仲間にはいるわけです。しかし、どこか違うのです。もちろん、もっとも多い模擬試験に近いオーソドックスなスタイルとは全く違います。

★細部をきちんと読んでいくのはあたりまえだけれど、設問がそこを細かくついてくることはしませんね。かといって全体の構造をしっかり考えて解答するというわけでもないのです。テーマがわかるとスーッと了解できる、そんな不思議なタイプですね。

★2007年の物語は、サンタクロースの存在をどのようにとらえるようになるかで、成長の段階が急に変わるというストーリーのものが出題されています。サンタクロースの存在認識が、プレゼントをもらう側になるのか与える側になるのか、その境界線をめぐる話なんですが、これはもらう側とは人に愛される幼年期を象徴し、与える側は人を愛する立場に立つ大人に成長する象徴なんですね。

★論説文は、経済発展と自然保護の矛盾をどう考えるかというのがテーマです。両者をべつものとしてとらえるのではなく、自然保護の延長線上に経済発展を考えていく視点がポイントですが、かなり高い見識を持っていなければ、実際には解答に窮するでしょう。

07 ★両方とも鴎友学園女子の教育プログラムの重要なテーマです。まさに入試問題は学校の顔です。ところで、いつものようにOESD/PISAの読解リテラシーのモノサシで分析してみました。やはり「情報の取り出し」「テキストの解釈」「熟考と評価」のバランスはよく考えられています。

07_2 ★一方、レベル分析の結果は、世界標準レベルで、世界標準のレベル5を超えるレベル6までのものは出題されていませんでした。これが、一般の入試問題に比べ、格が違うなと感じる一方で、麻布や桜蔭が出題するような問題とも違うなと感じる理由なのだと思います。中学入試の段階では、世界標準の最高レベルの出題で十分でしょう。このモノサシで合格者の全体平均正答率をシミュレーションすると60.8%になります。実際の結果ともそれほどズレはないはずですから、やはり、よく練られた最適の問題ですね。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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次につながる大庭先生の授業

★ 開成の生田先生の地理授業観で、「生田先生のもとで学んだお弟子さんたちが、各学校で生田先生のアイディアを継承し、実践しています。」と書きましたが、大庭さかえ先生もその1人だと思います。

★生田先生や大庭先生とは、CALという私立学校の先生方が集まっている勉強会で出会いました。この勉強会は、2001年7月から活動が始まり、2006年まで継続的に続いていましたが、2007年はいったん休眠。しかし、来年の4月には新たな展開をしようとしています。

★勉強会の中心テーマは「The 授業」で、総合学習が始まる前に「総合学習を超える授業」をみんなで開発しようと、集まった先生方が、自分たちが生徒になったつもりで、ワークショップ型で進めてきました。2011年以降に本格実施される新学習指導要領が「探求型」の授業を模索するようですが、CALの先生方は、すでにそれを確立し、さらなる発展を目指しているのですね。

★そんな勉強会で大庭先生と出会うことができ、話をお聞きするチャンスもいただけました。大庭先生の授業観の根底には「寛容」という精神があります。というのも大庭先生の教員のキャリアは、大変豊かなのです。現在の全日制の私立学校の前には、通信制の生徒、全日制でも特別なコースの生徒などと接してこられたのですね。したがって、生徒を受け入れる姿勢が「寛容」である必要があったのだと思います。

★そしてこの「寛容」の精神が、「授業というのは、そこで学んで終わりではなくて、次につながる何かに生徒が気づく機会なんですね」という考え方を生み出しています。その方法論は、やはり生田先生流儀なのかもしれません。調べたり、情報をまとめたりするリテラシーを重視した授業だそうです。つまり問題追究型の姿勢を身につける授業だということでしょう。

★知識を学ぶと同時に、知識を探求するガイダンスになっているのが、大庭先生の授業の特徴というわけですね。方法論は違うけれども、こうした基本的な方向性に共感する先生方がCALには参加しているのです。日本の教育は全般的には心配ですが、改革の糸口はCALに集まっている先生方の活躍に認められます。文科省が日本の明日を支える先生方の存在に気付いてくれることを期待しています。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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開成の生田先生の地理授業観②

開成の生田先生の地理授業観のつづきです。生田先生の「地理オリンピックの問題から地理の授業をとらえ直す」は、たんに日本の地理授業の見直しをするだけではなく、「地理オリンピック」に行くためにはどうしたらよいかという戦略が考察されています。モニタリングによるアンケート調査からまとめられているので、客観的なトーンで書かれていますが、出場のための意欲が伝わってきます。

★開成といえば、国際数学オリンピックをはじめ、物理、化学などの数々のオリンピックで、生徒たちが大活躍しています。地理オリンピックも出場してその実力を証明したいところでしょう。もちろん賞をとることが目的ではなく、オリンピック参加は、学びのインセンティブにすぎないのでしょう。

★しかし、参加への準備を読むと、地理オリンピックをレバレッジとして、日本の子どもたちの知の質を高めようという戦略が明らかになります。

(1)大会では英語を使用するので、地理用語を英語で読み・書きできるようにする。

(2)問題やフィールドワークは大会開催地に関連しているところが多い。来年の場合には、チュニジアだけでなく、北アフリカ、地中海沿岸という枠組みの地域理解が必要。

(3)地理オリンピックが問う地理の知識は、OECD/PISAで問う学びと同じものである。その意味では、Graphicacyの育成や問題追究型の学習・学び方の学習を、段階的に訓練する必要がある。

(4)日本地理学会は地理オリンピックのために実行委員会を設けたが、その活動の様子は一般には知らされていない。広報活動を通じて、地理・地理教育を広く振興する必要あり。

★(1)は、グローバリゼーションとしての学び、(2)は、フィールドワークとしての学び、(3)は、世界標準としての学び、(4)は、オープンマインドとしての学び。生田先生の地理を超えた、「学びのガイダンスの一般理論」を垣間見ることができます。この学びのガイダンス論は、公立の学校でこそ重要ですが、学習指導要領の改訂問題ではなく、テスト編集法や授業方法論の改革が喫緊の問題だということでしょう。

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開成の生田先生の地理授業観

★「歴史と地理 2007年 №608」(山川出版社)は、ハッとするような内容です。「国際地理オリンピック」の意味の検証をしつつ、日本の地理授業の弱みを見出しているところです。特に論者の一人、開成学園の生田清人先生の「地理オリンピックの問題から地理の授業をとらえ直す」は、傑作です。

★問題を分析し、日本の地理授業とのズレを発見する方法には、テストも授業も、問いの構造という点で共通しているという大前提があります。モニタリングによって見えたズレは、

(1)地理は総合的な科目である

(2)地図・資料の読み取り能力“GRAPHICACY”を育てる

(3)リテラシースキルの養成

★いずれも問いの構造の話です。(1)は、関係をオープンにする問いの構造の話ですね。(2)は、法則を発見する問いの構造の話ですね。そして(3)は論理的に構成する問いの構造です。

★たしかに、地理だけではなく、ほかの教科でも、オープンな問いかけや、法則を自ら発見する問いかけ、論理をチェックできる問いかけは、日本の教育の中には少なかったわけです。

★生田先生ご自身の授業の構造では、すでに上の3つが実現されています。そして駒沢大学で先生のもとで学んだお弟子さんたちが、各学校で生田先生のアイディアを継承し、実践しています。

★日本の教育は、テストと授業の問いの構造の広がりと奥行きによってはじめて変わります。生田先生の功績はそこにあるのです。

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白梅学園清修は新しい教育ニーズのセンサー

★前回21世紀の教育改革は、学習指導要領にあらずで、教育の世界標準は思考ベース、創造べースであると述べました。文科省も2011年の新学習指導要領でそういう方向に持っていくのですが、4年間も変化を待てないという意見におされて、2009年から変えられるところから変えていくということにしたようですが、おそらく加速度感はないでしょう。しかし、大事なことは教育の変化を国民あるいは市民が望んでいる声が文科省にまで伝わっているということですね。

★その声ははたしてどんな声なのでしょう。知りたいと思っても、全貌を文科省が公開することはないですね。それでは、本当の教育改革はうまくいかないでしょう。ところがです。この声を直接聞くことができる学校機関があるのです。それは私立学校なんですね。私立学校を選択する場合、現状の公立学校のシステムやプログラムに不安を感じたり、満足できなかったりするからなのは言うまでもありません。

★ですから、この声を実現している私立学校は、人気も高いし、教育のクオリティも年々磨きあげられていくのです。逆にいえば、人気の高い学校では、教育内容それ自体に、教育ニーズが直接反映しているともいえるのです。特に新設校で人気がある学校は、もっともそのニーズを反映しているといえます。ですからそのような学校をリサーチすることで、21世紀の新しい教育がなんであるかがわかるというわけです。

★そういう学校で世の中が(当然私も)注目している学校が、白梅学園清修ですね。毎年学校説明会の参加者の数は増えています。柴田教頭先生によると、秋に行われる中学入試のための三大模擬試験でも、いずれも志望者登録の数が増えているそうです。

★また、11月に入って、今までの志望校をやめて、白梅学園清修を志望校にすると決断する保護者が増えたそうです。数学や英国研修について、生徒たちがプレゼンテーションしている様子を見て、知識ベースと思考(創造)ベースの教育プログラムがあることに気付いて、志望校を清修に変える保護者があらわれたということのようです。

★もちろん、少人数教育のメリットである、目配り気配りのいきとどいた教育は絶大なる魅力なのですが、保護者や受験生が求めていた新しい教育プログラムが実現されていることにも魅力を感じるようです。開設して2年目ですから、心地よい雰囲気を感じるだけではなく、教育の実践の成果も見ることができるのがポイントですね。

★しかし、こういう高感度な学校選択眼をもっている保護者は、説明会に参加するとかならず質問されるそうです。ですから、個別相談で、ていねいに回答する対話の時間をつくっていますね。だれが保護者と対話するかというと、柴田教頭先生が全部お1人でやります。

★受験生の保護者はほとんどすべて個別相談を申し込むでしょうから、年間100人以上と対話をするでしょう。しかし、この対話が大事です。たとえば、英国研修の時期が早いのではないかという質問に、英国研修の幅広い意義について回答することによって、白梅学園清修の教育のふところの深さを共有できるというのです。

★入学前にアイデンティティを共有する個別相談という対話のチャンスは、白梅学園清修の教育の質を高める大事な一期一会なのでしょう。だからビジョンマネージャーである教頭柴田先生が自ら対話を行うのです。これによって、白梅学園清修の軸はブレないし、俊敏に柔軟な対応がとれるのです。

★白梅学園清修の新しい教育のプログラムとステークホルダーとのコラボレーションのメソッドに、文科省は学ぶとよいと思います。白梅学園清修の中等教育の姿は、これからの公立学校の改革の大きなヒントになることは間違いありません。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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21世紀の教育改革は、学習指導要領にあらず

11月9日15時12分配信の読売新聞によると、<渡海文部科学相は9日の閣議後の記者会見で、早ければ2011年度としてきた新学習指導要領の実施時期を前倒しし、2009年度から一部の内容を実施する方針を明らかにした。>ということのようです。

★このところ、「全国学力テスト」の結果の取り扱いについて、各自治体の決定も話題になっています。このテストのモデルになっているナショナル・テストを行っているイギリスでは、シックス・フォーム(日本の高校2年と3年に相当)を義務教育化するという話題もでています。

★それに、慶応が小中一貫校を、横浜市に新設するというニュースもリリースされました。2011年にだそうです。これらの動きは、一件ばらばらですが、全部つながっています。

★学習指導要領の改訂という側面からみると、まったく結びつきません。イギリスのナショナル・テストや全国学力テストなどは、教育格差が生まれるとか、市場の原理を教育に入れるのは困ったもんだとか言われているにもかかわらず、学習指導要領では、脱ゆとりで授業を増やそうとかいう話になっています。ますます格差が広がるのでは・・・。

★そんなとき慶応が独自に小中一貫校をつくるという話題。私立学校がこれほど各メディアでとりあげられるとは、さすがは慶応ブランドですね。きっとメディア界にも慶応出身者はいるのでしょう。

★まったくばらばらの動きです。しかし、どれも共通した動きは、創造的授業の復権が必ず話題の中心になっているのです。えっと思うでしょうが、まったくそのことに気付いていないかのように、メディアが取り上げるものだから、気の抜けた教育改革の内容が伝わってくるのです。

★メディアや教育ジャーナリストは、教育改革のコンセプトとその具体化の結びつきについて全く語りません。制度の項目しか扱いません。あるいは、コンセプトのみ、あるいは具体的実践を点として話題にするだけです。

★今回の新学習指導要領論議も、イギリスのナショナルカリキュラムや新義務教育論も、慶応小中一貫校の教育も、21世紀の人材に必要なものは、創造的学力だということは大前提です。知識と探究。この両方を、教科学習の中にどう取り入れるのか。それが中心なのです。それなのに、知識を注入する時間を長くするというイメージの情報発信のものが多いですね。

★イギリスの教育も、同じように批判されています。しかし、そういう論者は、まずテストと授業が連動しているものだという前提を忘れています。テストのない授業は、自学自習のスキルが育たない授業です。授業のないテストは、羅針盤を失った、あるいはレーダーを失った飛行機のように、方向性を見失うでしょう。

★授業とテストが連動していれば、両方の内容は一致するはずなのです。ですから内容の妥当性はともかく、全国学力テストが知識ベースのAテスト、思考ベースのBテストをやったというのは意義がそれなりにあるのです。両方の内容を授業でやらねばならなくなるからです。

★イギリスのナショナル・テストなどを批判しているジャーナリストは、改革途上の結果を見て、批判していますが、その中身たる授業やテストについて、憶測ではないかと思えるような取扱いをしています。たとえば、第三者評価機関に相当するQCAのサイトを見れば、プログラムのモデルが、いかに対話編になっているかがわかります。

★OECD・PISAの問題も見れば一目瞭然、いかに思考ベースであるかがわかります。慶応小中一貫の教育はまだこれからですが、すでに設置されている慶応グループの初等中等教育の授業や入試問題を見れば、思考ベースであることはまず間違いないでしょう。幼稚舎の入試問題は、実にアーティスティックな問題ですよ。

★20世紀は公平に平等に知識を記憶させることが重要だったのです。知識それ自体安定していたし、それを組み合わせるだけで、産業は大いに発展し、経済も右肩あがりだったのです。しかし、それは先進諸国を超えて広まったのです。

★21世紀先進諸国は、今度は誰もが創造的なレベルにまで引きあがられなければ、国力は衰退するのです。知識は記憶するのではなく、生み出す対象になったのですね。既存の知識を活用するのは、BRICsなどに追いつかれてしまったのです。だから新しい知識を作らねばならない。オリンピックで勝つためには、技術以上にルールという知識を新たに作ってしまう必要があるのと同じです。

★だから世界標準で、教育も組み立てていかないと、たいへんなことになるというわけですね。しかし、大きな国家の物語は、終焉してしまったのです。個人がこの難局をサバイブするにはとなると、やはり思考ベース、創造べースでないとやっていけない。どっちにしても思考ベースであることに変わりはない。

★そうすると学習指導要領で、何をどこまでやるかの配分をいくらかえたところで、どうやって思考するのかというスキルが開発されない限り、何も変わらないということなのです。思考力・表現力が大事ですといったところで、何も変わりません。

★しかし、それはテストの内容をみれば、どう変わっていくかは見えてきます。OECD/ PISAや全国学力テストの問題を見れば、どういう授業展開を開発しなければならないのかわかります。逆に中学入試問題を見れば、どういう授業展開がなされているかイメージできます。授業とテスト、テストと授業の中身の改革これをおいて教育改革はないのです。

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学びのリーダーシップ~仲間に贈る②

学びのリーダーシップ~仲間に贈るのつづきです。子どもたちが、自ら考え自らアイディアを出す。この考えやアイディアは、教え込むのではなく、「想起」する環境をつくることによって、トリガークエスチョンの仕掛けによって、生まれてくると話してきました。

★そうそう、子どもたちの自己評価もこの「想起」の環境です。さてさてなぜ「想起」なのでしょう。それは学びのプログラム、特に中等教育時期のプログラムにおいてとりわけ注意してきたことに関係があります。その注意してきたことというのは、心理学的な手法の学びのプログラムにならないようにというものでした。

★心理学は専門家でないと取扱いが難しいし、子どもたちの心の奥に触れることは、よほど慎重にしなければという理由からでした。ですから小さな変化をみのがさないというのは、知的な発展の側面もあるのですが、心の微妙な変化も見逃さないということでした。ただし、心の変化については、レッテル貼りに陥りやすいので、判断を中止して、担任の先生やカウンセラーに相談するというやり方でしたね。

★ところで自己評価という子どもが自ら反応する行為のどこに、その小さな心の変化があらわれるというのでしょうか。それは独裁度と民主主義度なんですね。実は心理学的手法を学びのプログラムに入れない本当の理由がここにあるのです。

★心理学は自己実現に関係ありますが、この自己実現の心理学的意味は、リビドーの文化的、政治的、宗教的、経済的、ボランティア的昇華とこの昇華を通してのリビドーの構成的本能化にあるわけですね。リビドーという本能は、あるいは欲は、生きるエネルギーです。太陽エネルギーのメタモルフォーゼが、地球上のあらゆる物質のエコロジーですが、それとリビドーは同じです。いやリビドーも太陽エネルギーの変態にすぎないのですが。

★それはともかく、五感に関係する欲と弛緩と緊張のバランスという筋肉的欲の形成が、学童期まえに完成されます。超自我はこの五感と筋肉の抑制としてこの時期にあらわれるといわれてます。エディプス期でもありますが、生殖の欲は思春期にずれ込みます。超自我が家庭生活で形成されていないと、思春期に生殖の欲をどういう形に転化するか本人自身がわからないままなのですね。そうすると頭では人間関係は民主主義でなければならないとわかっていても、生殖のリビドーのもっていき場がない。すると攻撃的になります。暴力的攻撃は、規律の厳しい学校生活で抑圧できますが、知的暴力的攻撃、イデオロギー的闘争は見過ごされてしまいます。議論をやっていて頼もしいとか誤解もされます。

★ともあれ、この場合、独裁度と民主主義度の両方が高くなる場合があるのですね。そんなときどうしたらよいか。決めつけることはできません。ただ、目の前に起きていることを矛盾としてとらえるのではなく、リビドーをまだ構成的本能化できずにむき出しの本能が思春期において噴出して不安あるいはパニックになっていると理解してみるのも1つの判断です。そうすれば学びのリーダーは、腹が決まります。やっぱり徹底的に話し合ってもらおうと。ただそれは議論ではないですね。むき出しのリビドーの昇華の過程だとみなす(了解とレッテル貼りは違います)ことです。これでリビドーを文化やアイディアや経済、政治、科学に転化する準備ができたし、そのあとは昇華の過程をたどるでしょう。このプロセスを全体として生み出すことが「想起」だったのですね。

★学びのプログラムを8年前に、本格的に創るプロジェクトを立ち上げたときに、アドバイザーとして参加してくれた大学院生及び大学生の専門分野は、言語学、政治経済学、そして心理学だったんですね。教育学部の学生は最初のころはいなかったんですね。プログラムが軌道に乗ってからは教育学部の生徒は増えました。これは偶然ではなく、そのように選択したのです。

★リビドーは教育の前に昇華する環境を作らねばならなかったからです。環境が整えば、教育の出番です。カリキュラムとかシラバスというのは要するに学びのプログラムです。その運営のプロはやはり教師ですから。しかし、その前はまず多方面の視点が必要だったのです。学びのプログラムづくりにも、幼年期、学童期、青春期、老年期という発達段階があるのですね。学童期までは、リビドーの昇華の時期なのです。

★ただし、思春期にやってくるリビドーに関しては、予測不能なんですね。何が予測不能かというと、昇華に至る過程で、どのように変態するかということが。そこの見極めは難しいですね。根っこが家庭生活にあるからです。才能が豊かであり、学童期までに超自我ができなかた生徒は、特にそうです。

★しかも私たちの学びのプログラムは、抑圧型コミュニケーションより創造型コミュニケーションによって、「想起」環境をつくろうとするものですから大変です。これは、かつてのような家庭システムを望むのは現実的ではないし、五感と筋肉のリビドーの昇華方法が抑圧的であるのが、心理学では当たり前のようになっていることに疑問があったので、どうしても創造型コミュニケーションベースになってしまうのですよね。

★それにしても思春期を形成する生殖リビドーの渦が、完璧に構成的本能化されるのは、家庭を作る相方さんとの出会いという愛によってなのですから、中等教育がいかに人生のクライシスかおわかりいただけるでしょう。リビドーの構成的本能化のプログラムが、実は中等教育時期の学びのプログラムであるといっても過言ではないのです。あまりに逆説的なのですが・・・。man for othersという私立学校のプログラムは、この結晶だったのです。

★8年前当時、心理学を学びのプログラムに忍び込ませないために、心理学を学びました。マズローとロジャーズ、ラカン、ギブソン・・・。しかし、実践的な理屈は、エリクソンのライフサイクル、ハーバーマスとコールバーグ、ビゴツキー、私立学校の先生方との勉強会(CAL)でした。

エリクソンについては、アドバイザーの中でまとめてくれた学生がいました。そのノートもNTS教育研究所のホンマノオトに残っています。エリクソンはフロイドの思想に与しますが、リビドーの昇華の過程を「対話」=コミュニケーションと呼んでいます。基本的にはフロイドから脱却していませんが、学童期以前のリビドー昇華の対話のやり方が、必ずしも抑圧的ではないのですね。理論的には抑圧的なんですが、具体的な実践を読むと、どうもそうではない。そこら辺は今後のテーマですね。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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西村和雄氏の新学習指導要領批判

★「都市問題」(第98巻・第12号2007年11月号)で、西村和雄さん(京都大学経済研究所所長)は、<「新学力観からの脱却が問われる教育改革>という論考を発表しています。臨教審時代から今にいたるまで、いかに文科省が教育の重要問題に気づきながら、解決せずに、逆に問題を生み出すような改革をやってきたかを論じています。

★1989年の「新学力観」ベースの学習指導要領は、「知識・理解」を「旧学力」とよび、個性を重視し、学ぶ過程、関心、意欲、態度重視を「新しい学力」とよんだということです。この個性重視、学ぶ過程、関心、意欲、態度重視の転換そのものは悪くはなかったんですが(ベルリンの壁が崩れてからというもの世界の教育の流れでもありますね)、西村さんによると、その方法論が悪かったようです。

★この「新学力観」にもとづいた「絶対評価」が問題だったんだと。だから今度の新学習指導要領改訂で、授業時間増など論議している場合ではないということのようです。たしかに西村さんの論点は一見その通りで、深刻です。

★教師の主観が入り込む絶対評価によって、子どもたちは、教師のお眼鏡にかなわないと不当な評価をうけるために、のびのびと個性など結果的にだせず、ストレスをため無気力になるか爆発するかのどちらかになっているというのです。だから廃止してしまえと。

★個性重視だ、興味だ関心だといっても、絶対評価によってそれはかなわないかもしれなければ意欲などわきようがありません。これは典型的なダブルバインド状態ですね。このジレンマに押しつぶされる子どもやここから抜けだそうと暴力に訴える子どもが出る可能性はたしかにあります。

★だからといって、相対評価がよいかというと、これもダブルバインドという構造は変わらないのです。人の足を引っ張るような競争はダメだよ。他者に迷惑をかけないように自由にやりなさいという民主主義のミニマムルールがあるわけですが、一方で相対的な価値が尊重されてしまうのですから。

★この「旧学力観」でも「新学力観」でも結局ダブルバインドというジレンマ構造は変わらないないのです。その解決策を一度も講じていないわけですから、教育問題は臨教審以降もこれからも解決されないわけです。

★西村さんの提案には、自学自習用の教科書提案とか総合学習の時間は現場の選択に任せるという提案などがありますが、それができるぐらいなら困らんなあという類のものばかりです。

★とはいえ、私にそれらを解決する提案ができるのかというと、ジレンマやパラドックスから逃避しないコミュニケーション論を提案する以外にないのですが。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[12]~京北学園の川合校長先生との対話②

私立学校の理念のタイプ[11]~京北学園の川合校長先生との対話①のつづきです。今や家庭でも、地域でも、学校でも、企業でも、社会でも、国家間でもコミュニケーションが大切であることは、誰もが知っています。川合校長先生は、それを前提に、次のような問題意識をお持ちです。

<ところが、コミュニケーションには、曖昧模糊としたイメージがつきまとっています。誰もが正しいと思っているコミュニケーションのとり方も、ひょっとしたら、生徒や保護者には通じていない、いや、関係を悪化させている恐れもあります>(月刊学校教育相談2007年4月号「ワークショップ ていねいなコミュニケーション№1」)

★ここには、重要なコミュニケーション論の枠組みがあります。コミュニケーション不足とかよく言われますが、コミュニケーション不足も関係を悪化させるようなコミュニケーションも、実は全部コミュニケーションのスタイルなのです。コミュニケーションといえば、なんでも人間関係を良くするものだというのは思いこみなのですね。

★川合先生は、コミュニケーションを人間関係の在り方としてとらえているのではないでしょうか。はじめに人間関係ありきで、ていねいなコミュニケーションとは、今目の前の人間関係をまずは受け入れよう。そこからどういう人間関係にしたいのか想像しよう。するとどんなコミュニケーションをしたらよいのかわかりますよということなのではないでしょうか。

★川合先生のコミュニケーションは、このように人間関係の在り方を映し出す媒体なのですね。しかし、それだけではありません。人間関係の在り方を変える方法論でもあるのです。両義性という言葉が思い浮かぶかもしれませんが、ここでは結論を急がないようにしましょう。

★川合先生の「ていねいなコミュニケーション」は、存在論と実践論がベースにあるということですね。なるほど京北学園の創設者が東洋哲学者井上円了のことだけはあります。井上円了もオールドモダン(官僚近代:Oモダン)と闘った思想家です。

★Oモダンでは、コミュニケーションは、結局一方通行的に伝達する方法論にすぎません。すべては決まっているのです。言葉の意味も多義性を認めません。言葉は論理以外の何ものでもないのです。Oモダンにおける脳科学的には、右脳は左脳の奴隷です。

★これがポストモダン(Pモダン)になると、今度はコミュニケーションの正当性という大きな物語は失われます。前回「表層的」という言葉を使いましたが、それはトランスモダン(Tモダン)やアドバンスモダン(Aモダン)、Oモダンの立場から見て「表層的」なのであって、Pモダンにおいては、それは「表層的」でも「深層的」でもありません。すべてはフラットですから、そういう発想がないのですね。

★ですからPモダンにおけるコミュニケーションは、ほかのモダンの視点から見ると、大いに危ういのです。しかし、新しいアイディアが生まれる可能性は、それだけに大きいモダンコンセプトです。ここは大事なポイントですが、川合先生の話に戻ります。

★ともあれ、川合先生のコミュニケーション論は、松田先生の授業や学級運営と同じように、人間関係を変える、もちろん豊かにする実践的方法論がきちんとあるのです。これがロランバルトなどのTモダンとは違うところですね。トランスモダンは分析論は鋭いし、その分析ができる教師は、同時に方法論も無自覚に生み出しています。しかし、それが無自覚である限り、学校の現場でそれを広く共有できないのですね。わかる人がわかればよいということですから。

★ところが川合先生のコミュニケーション論は、方法論を教師のみならず、生徒も保護者も共有するという動態的な理論です。コミュニケーションは人間の存在のあり方も映し出します。人間の存在については、教師が操作するのではなく、当事者が互いの関係の中で考え、悩み、つくりあげていくものでしょう。こういう価値観はしかしOモダンにはないのですね。Aモダンにおいて初めて気づくことです。京北学園のコミュニケーションは、豊かで新しく、でも井上円了の精神も継承されているのです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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私立学校の理念のタイプ[11]~京北学園の川合校長先生との対話①

私立学校の理念のタイプ[10]~明大明治の松田先生との対話③のつづきです。私立中高一貫校の系譜は、オールドモダン(官僚近代:以降Oモダン)とは違う道を歩むところに求められます。これを前回アドバンスモダン(以降Aモダン)と呼ぶと書きました。これ以外にポストモダン(以降Pモダン)、ロラン・バルトのような言語構造をベースにしているモダンを、トランスモダン(以降Tモダン)と仮定しました。

★Aモダンを基礎とした教育理念を展開する学校というか教師には、京北学園の校長川合正先生がいます。川合先生は、ご自身がコミュニケーション教育実践の第一人者であると同時に、教育実践研究の学識者人脈もたいへん広い先生です。

★ですから、東大や千葉大の教育学部(とくに教育心理学)の知を直接ご自分の学校に動員しています。またご自身も東洋大学で未来の教師にコミュニケーションによる授業を伝道しています。

★コミュニケーションは誰でも大事だと思っていますが、Pモダンだと、コミュニケーションとは言葉の表層だけのやりとりになります。つまり、コノテーションなきコミュニケーション。Oモダンだと、国家とか集団の超自我に従ってコミュニケーションが行われます。Tモダンの場合は、豊かなコミュニケーションが行われているのだけれど、Oモダンと見た目かわらないという場合もあります。Aモダンの場合は、常に当たり前と思われている概念を批判し、自分の考えを参照しつつ公共性を形作っていきます。

★このAモダンをベースにしたていねいなコミュニケーションこそ、川合校長先生の実践されている方法論です。「月刊学校教育相談」(2007年4月以降)で「ワークショップ ていねいなコミュニケーション」を連載されています。先生とはときどきお会いしてお話をお聞きしますが、この書籍では、そのときの内容をさらにわかりやすく深く論じられているので、今回はこの書籍を基に、川合先生の考えをみていきたいと思います。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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学びのリーダーシップ~仲間に贈る

★前に勤めていた組織の仲間とときどきすれ違います。学びのプログラムを創って、運営する仲間たちは、本番を迎えるギリギリまで議論し、シミュレーションします。その舞台裏のどたばたは、学びのプログラムの本質を見ようとしない人にとっては、効率がわるいと見えるらしいのです。そこには利益やお金に還元できないものがあるからです。

★効率がわるいと思う方々にとって、そこにお金を支払うことができないから、慈善事業じゃないと学びのリーダーたちをけん制し、それでもやるのは自由だよといいながら、経費がかさまないことを確認すると急に笑顔になります。

★学びのリーダーたちは若いにもかかわらず、そういう老獪な経営陣を、悟った老賢者のようなまなざしで見守ります。彼らにとって、大事なことは、目の前の子どもたちの小さな変化を見逃さないことです。老獪な経営陣の防衛凍結を溶かす温かいまなざしがなければ、それはできません。子どもたちの小さな変化は、野のすみれのように、太陽の真下でも、嵐の吹き荒れるときも止まることはありません。ですからどんなときも見守ることをやめません。ただそれだけが学びのリーダーの崇高な行為です。

★さて、その小さな変化は、ピアジェによれば認知のズレかもしれません。ヴィゴツキーによれば最近接領域が開かれる瞬間なのかもしれません。J.S.ブルーナーによれば科学的構造が子供たちなりの理解へ埋め込まれる瞬間なのかもしれません。村上春樹によれば無限の示唆を世界から感じる一瞬なのかもしれません。谷川俊太郎によれば、言葉の宇宙の果てに旅する決断をする時なのかもしれません。

★学びのリーダーたちは、そんな偉い人たちが自分の内なる声に耳を傾けているとき、子どもたちの言動に耳を傾け、言動を見守っています。彼らの小さな変化に、世界が動く音を聞き、世界が変わる瞬間を見ます。そして聞くことと見ることが統合される瞬間。ビジョンが生まれます。子どもたちの未来は、決して心地よいものではないでしょう。でもそれを乗り越える思想と言動のビジョンが生まれる瞬間をいっしょに過ごします。

★学びのリーダーシップはただそれだけです。ただその瞬間をいっしょに過ごすという優しさと意志を有することが大事です。そして学びのリーダーは1人では弱すぎます。こんなことができるのは、万人に1人もいないからです。学びのリーダーシップは一人の力によるものではありません。チームプレイで、互いに支えながら、立派なリーダーシップを作りあげていきます。一度できても、マニュアル化は決してできません。子どもたち1人ひとりの成長のライフサイクルを生み出すきっかけづくり。チームプレイによる学びのリーダーシップは、先見性はあるものの、合理的ではない対話によってはじめて持続可能になります。

★たとえ、離れていても、学びのリーダーのみなさん、いつも私もいっしょにいます。あらゆるもの、あらゆることは、新しく生まれるのではありません。いつもありてある存在から「想起」されるのです。子どもたちの存在を大切にしてください。必ずそこから「想起」されるはずです。学びのリーダーシップとは、子どもたちを教え育てるのではなく、子どもたちが自らの存在に気づき、子どもたち1人ひとりがそれぞれの存在の意味を「想起」するまで、いっしょにいる気遣いそのものです。それを今もいつも世々にいたるまで互いに確認していきましょう。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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入試問題は学校の顔[04]~かえつ有明

入試問題は学校の顔[03]~栄光学園のつづきです。校舎移転、共学校化、校名変更、教育改革など大きな学園のパラダイム転換を推し進めて2年目を過ぎようとしているかえつ有明。その人気ぶりは、ここで確認するまでもありませんね。

★しかし、このかえつ有明の変貌ぶりは、とどまるところを知りません。大変革の中心は今まで「サイエンス」だったのですが、この新教育プログラム自体、さらに大きく変わろうとしています。変わるというより加速度的に広がっていると言った方が適切かもしれません。

★その広がりとは、今まで国語と理科との連携がベースだったのですが、さらに英語や社会とも連携しようと企画しているのです。教科間の知の連携と教師どうしのチームプレイが広がっているのですね。

★一方英語もIB(インターナショナルバカロレア)の世界標準のプログラムのアイディアを導入しようとしています。世界標準と言った場合、かえつ有明では、まずは教科横断的なプログラムと教師どうしの連携のことを示唆しているようです。IB自体、教科横断的なマルチインテリジェンスの方法論をベースにしています。

★さて、「連携」が「サイエンス」と「英語」の共通語であり、それが示唆するのは「世界標準」というのが、かえつ有明の新たな戦略のようです。わくわくしますね。

★そうなってくると、しかし入試問題に多少の変更が出てくるかもしれません。というのも入試問題は学校の顔ですから、入試問題自体「世界標準」を標榜するような問題が作成される可能性があるからです。

07 ★今春2月1日のかえつ有明の難進の国語の問題を分析してみました。「読解リテラシー」の3つの能力である「情報の取り出し」「テキストの解釈」「熟考と評価」のうち3つ目の自分で意見を考えたり、批判的な思考を駆使する問題は出題されていませんでした。「世界標準」を標榜した以上は、この能力をテストしないわけにはいかないでしょう。もちろん、入学してから鍛えますということでしょうし、実際にそうしていますから問題はないのですが、入学してくる前から脳を全体的に働かせておいたほうが、入学後の伸びに差がつきます。「世界標準の読解リテラシー」について、かえつ有明の国語科の先生がどのような回答をだすのか来春が楽しみです。

07_2 ★レベルに関しては、すでに「世界標準」です。レベル4、レベル5という難問も20%弱出題しています。合格者の全体正答率は70%近くになるはずですが、レベル4とレベル5の問題が極端にできなかったので、もう少し正答率は低くなっていました。現状では、レベル4とレベル5の問題を避けてほかの問題に集中した方が受かりやすいというのが本当のところです。

★しかし、これでは入学してから「世界標準」の授業に臨むときに相当苦労します。入学前の働きかけが、かえつ有明から準備される必要がありますね。パラダイム転換をして、それを実現可能にするエネルギーは生半なものではありません。かえつ有明の先生方の気概と知性と機知に富んだセンスを見定めに、ぜひ学校説明会に参加しましょう。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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キャラ化するニッポンを読解する[04]

キャラ化するニッポンを読解する[03]のつづきです。「キャラ化」現象は、大きな物語が喪失したときに、日本中に広まります。大きな物語の喪失は、1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される社会主義国の資本主義化が始まったときからやってきます。日本はそのあとすぐにバブル経済が崩壊していますね。そこから経済の空白という10年が続きますが、脳科学が一方では進みます。世界はグローバリゼーションの嵐が吹きます。ヨーロッパはEU革命、BRICsは世界経済をゆさぶります。忘れてならないのは21世紀に表面的には崩壊しましたが実際には定着しているIT経済も世界をかけめぐっていますね。

★日本の経済神話、経済の空洞化と「キャラ化」現象は関係があるかもしれません。したがって、89年前はおそらく「キャラ」というキーワードはそれほどでまわっていなかったでしょう。使われたとしても「キャラクター」の略語ぐらいのイメージで、今のように「キャラクター」というキーワードと別の言葉であるような扱いは受けていなかったと思います。

★相原さんも「キャラ」という言葉と「キャラクター」は、今では違うけれども、89年以前は「キャラクター」という言葉がまず浸透する時代だったと、「キャラ」前史を簡単に見通しています。

★「キャラクター」という概念は、日本においては戦後復興すぐに生まれたとしています。そして以下のように経緯を挙げていきます。

1946年「マンガの神様」手塚治虫デビュー。40年代後半には「冒険王」「少年クラブ」が大人気。

1950年にはディズニーアニメ「白雪姫」が公開。不二家のペコちゃん、佐藤製薬のサトちゃん、エスエス製薬のピョンちゃんなど企業キャラクターも続々登場。

1959年「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」が創刊。

1960年代「月光仮面」「鉄人28号」などテレビキャラクターが人気。1963年にアニメ化された「鉄腕アトム」は空前の視聴率。

60年代後半「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「巨人の星」「タイガーマスク」「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」など人気テレビアニメ続々登場。

1974年に「ハローキティ」誕生。1977年に「宇宙戦艦ヤマト」劇場公開。同じころ「機動戦士ガンダム」。

1983年「東京ディズニランド」オープン。任天堂から「ファミコン」が発売。そして88年から89年に宮崎勤「連続幼女誘拐殺人事件」発生。オタクバッシングが猛威を奮う。

★ベルリンの壁崩壊前夜に、「キャラクター」文化の光と影の話題が頂点に達します。そしてその光と影の背景の大きな物語が喪失すると同時に「キャラ化」現象が生まれるのです。

★「キャラクター」はまだ大きな物語を完全にには切り離していません。というのもバンダイキャラクター研究所で、キャラクターが提供する精神的効能を調査して、8つに分類しているのですが、それらは大きな物語からのストレスからいかにして自己防衛するかという範囲内にあるものばかりだからです。8つの分類を見てみましょう。

①やすらぎ

②庇護

③現実逃避

④幼年回帰

⑤存在確認

⑥変身願望

⑦元気・活力

⑧気分転換

★これらは、みな大きな物語に帰還するためのすべて気分転換の表現です。何かに似ているでしょう。そうですね。フロイトの転移ですね。「キャラクター」が治療者の代理を果たしているわけです。

★この「キャラクター」戦略は、日本独自のものではなく、実は戦後復興と称してアメリカ文化から学んだものです。まんがは日本にも昔からある文化ですが、それをキャラクター化したのはアメリカ文化です。というよりアメリカ資本主義のプロモーション戦略の一環でしょう。その代表的なものがディズニーで、「まんがの神様」手塚治虫もそこから学んでいるらしいのですね。

前回軽井沢について少し話しましたが、この話は明治時代からの話です。軽井沢にはすでにアメリカ資本主義を操作する富裕層の思想とそれに対峙する私立学校の思想があったわけですが、このどちらでもない文化の孵化装置が「キャラクター」文化だったという話になるのでしょう。相原さんの考えから少しズレたかもしれません。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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キャラ化するニッポンを読解する[03]

キャラ化するニッポンを読解する[02]のつづきです。今の時期(というかこれから)、軽井沢は寒いです。電気ストーブとホットカーペットだけでは、生活しにくいですね。ヒーターは必須です。それはともかく、やはり紅葉は美しい。碓氷峠を登る前までは、今年はまだまだ緑緑しているのですが、さすがに朝起きると10度以下(昼間でも15度以下かも)の軽井沢では紅葉がはじまっています。Dsc03559_2

★なぜ「キャラ化」現象と軽井沢が関係あるのか?と言われそうですね。それは1888年にさかのぼります。今から119年前、英国人宣教師A.C.ショーが軽沢に第一号別荘を建てたのですが、それ以来軽井沢は、日本の政財界・文化人の別邸が建ちなびました。

★彼らの子弟は私立学校に通いましたし、私立学校創設にかかわった新渡戸稲造、内村鑑三もここで思想を広めました。ですから私立学校の別荘も多いんですね。この辺の事情は、「ホンマノオト≪未来を創る学校2005≫を振り返る(15)以降」を参照いただければ幸いです。

★ともかく、そういうわけですから、軽井沢は「キャラ化」現象が遅れてくる、あるいはこないかもしれません。もっとも西武系が経営している軽井沢・ショッピングセンターは高大なアウトレットで、ブランドキャラをがんがん売っています。夏休みの軽井沢リゾート地の渋滞を招いていますね。それにIT長者も星野リゾートエリアに続々集まっているとか。

★星野さんとか堤さんとかいう有名人は、A.C.ショーとは対極のプロテスタンティズム資本主義をイメージさせます。しかし、「キャラ化」現象は抑えるのかもしれません。「キャラ化」現象を生んでいるスーパーリッチを集客するには、それとは差異化されたカルチャーを用意するということでしょうか。

★都市と軽井沢の差異。これもまた実際には「キャラ」差異に過ぎない。しかし、軽井沢族という、そういう時代の流れにまったく関係ないグループも存在しています。彼らはある意味A.C.ショーの精神を継承しているといえるかもしれませんね。

★ショーは香蘭や立教大学創設にもかかわっています。日本にミッション系の私立学校のしくみを導いた宣教師なんですね。都市で生活していると「キャラ化」現象一色のように見えるのですが、そんなことはないのですね。それがまだまだはっきり見えるのが軽井沢です。少し時代の流れから遅れているから、いやもしかしたら、ここで時代の先を計算している人たちがいるからなのかもしれませんが。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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キャラ化するニッポンを読解する[02]

★ 「キャラ化するニッポンを読解する[01]」のつづきです。相原さんによると、日本は「キャラ化」現象であふれている、キャラなしでは生きていけない現象が起きているということらしいのです。

★たとえば、<日々仮想現実空間にどっぷり浸ることで、「生身の私」よりも「キャラとしての私」のほうに親近感やリアリティを感じるようになってしまった人たち>がいるというのです。これは「アイデンティティのキャラ化」だということです。

★<ダイエットやアンチ・エイジングに日々精を出すことで、自らの「生身のからだ」を拒絶し、永遠に劣化しない「キャラクター的身体」を手に入れようとする人たち>もいるようです。これは相原さんによれば「身体のキャラ化」。

★そのほかには、小泉純一郎をキャラ立ちさせた「政治のキャラ化」、企業イメージのキャラ化によって資金を大量に集める「経済・企業のキャラ化」、商品販売とその生産活動全体の物語よりも、キャラ属性にしか魅力を感じない「消費のキャラ化」が起きているということです。

★キャラとしての私が私である。キャラとしての身体が身体である。キャラとしての首相が首相である。キャラとしての企業が企業である。キャラとしての商品が商品である。・・・

★あらゆるものはキャラ以上でも以下でもないというのが、「キャラ化」現象なのでしょう。そんなんじゃダメだあ~となると「今の若い者はダメだ」論になってしまいます。これでは何も解決しません。まずは、この「キャラ化」現象がいかなるものか相原さんの考えを追跡しなくては!

★さて、相原さんの上記の様々なモノやヒトの「キャラ化」の考え方には、ある共通点がありますね。それはキャラ化は何かが化けているという前提があるのです。その前提は「生身」なのです。この「生身」が「キャラ化」するわけです。そして「生身」より「キャラ化」のほうが居心地がよいということになっているのですね。

★あるところで相原さんは「生身」を「リアル」に置き換えます。そしてその対義語として「仮想現実」を持ち出します。するとリアルから逃避して仮想現実に生きることがキャラ化だということになってしまうんですね。

★その点に関しては、IT社会の進化、それに伴う経済現象がそうなっているのだから、それはそれでよいと、相原さんは、この経済現象を否定しませんから、「キャラ化」現象は、ITによる経済の進化現象としても考えられているのでしょう。なるほどポストモダン的な発想ですね。

★モダニズムからすれば、特に官僚主義的モダニズムからすれば、それでは困るということになるんですね。「キャラ化」現象は道徳の荒廃をもたらすとかモラルハザードだとか言いだすわけですね。フロイドの超自我まで持ち出して、道徳の教科化が必要だというのですね。

★「キャラ化」現象には「道徳の教科化」政策でというのでしょうが、学校の法化現象が、学校のキャラ化を推し進めるパラドックスを生み出していて、「道徳の教科化」を逆に切り崩してしまいます。「キャラ化」現象に「道徳の教科化」で挑めば、その抑圧威圧に対するストレスの爆発が法化現象を生み出すのです。

★ニッポンの「キャラ化」現象を止めることはできないのです。「キャラ化」を逆手に取ろうという文科省の役人もいます。しかし、それではこの現象の本当のところをとらえることができないでしょう。「キャラ化」現象に向かわなければならない歴史的構造分析が必要なはずです。しかし、それはたいへん難しくて私の手に負えません。このまましばらくウダウダ考えていくぐらいでとどめておきましょう。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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白梅学園清修の数学教育

★ここ数日、何やかにやと忙しく、白梅学園清修のサイトを見ることができないでいました。何せほぼ毎日更新されているサイトだけに、ちょっと油断していると、読むのにものすごい時間がかかります。

★しかし、今どき珍しい理想郷のような生徒と保護者と教師の濃い対話、教科間の連携など、マルチな関係に心癒されるので、読まないわけにはいかないのです。もっとも、この理想郷の舞台裏のてんやわんやを想像すると、学園ドラマさながらで、涙を流してというより、ニンマリほほ笑み、いやいやときどき抱腹絶倒して、スッキリすると言った方がよいかもしれません。

白梅学園清修の教育活動はいずれも興味深いのですが、女子校であるにもかかわらず、数学の授業がオーラを放っているのには驚かされます。

★数学の戸塚先生は、教科連動型カリキュラムを実践しています。数学的発想を、あらゆる教科に結びつけることができる天才肌の数学教師ですね。昨年は数学史がテーマでした。今年は「未来予測」。

★生徒たちは、未来を予測するデータを見つけ、そのデータの背景を調べ、議論し、チームでプレゼンテーションするのでしょう。数学というと問題の解き方をトレーニングする教科というイメージが浮かぶと思うのですが、戸塚先生の数学教授法は、あらゆるコトを数学的発想で解決しようというものです。これは、生きるための数学として、生徒たちは「活用」することができます。数学の楽しさに触れることができます。

★しかも、この数学的発想法が、東大の数学を解くのにも当然役立つのだそうです。生徒たちは楽しみながら、いつのまにか受験数学の力も身につけていくわけですね。

★ともあれ、このプレゼンテーションを、学校説明会でお披露目するので、新設校のために大学進学の実績がまだでていませんが、保護者の方は大いに期待をかけるようです。これだけやれば大学進学実は出るだろうと。しかし、それより何より、この温かい人間関係とテクノロジーの集結した教育環境に触れれば、ぜひわが娘を通わせたいというのが、保護者の本音でしょう。

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名門校の条件[12]~共立女子のクオリティ

名門校の条件[11]~共立女子のクオリティのつづきです。

§2 共立女子の対話の意味

本間) コミュニケーション・ベースというのは確かに21世紀型ですね。大きな物語に隷属して生きていくのではなく、個々の判断が多様な物語を作っていく。しかしその物語の正当性や信頼性・妥当性はというと、それは自分たちの対話を通してだと。

渡辺) 本校を受験する帰国生は、やはり日本の文化と海外の文化の違いを体得しています。岡部さんの言う通り、彼女たちは対話ベースの環境が前提になっています。確かに対話は、あらゆる授業や教育活動の中心です。

岡部) 別の言葉で言い換えると、学習者中心主義(子ども迎合主義ではありません)ということですね。OECD/PISAでランキングが上の北欧、特に世界が注目しているフィンランドの教育デザインの方法論です。そういう意味でも共立女子の教育はもともと先進的。

Photo_2 渡辺) 確かにそうかもしれません。共立祭も、中学と高校それぞれに実行委員会があって、生徒が自主的に運営するチャンスを増やしています。「自立した女性」の育成は本校のビジョンでもあります。今年中1は入学して1ヶ月経ったところで校外オリエンテーションとして、葛西臨海公園に行きました。現地集合現地解散です。自分で判断して自分で動くという文化がここにもあります。ダブル・ドッジボールなどのスポーツを楽しむのですが、ここでは、ボールが言葉に替わりコミュニケーションのメディアです。

本間) ダブルというのが複雑系ですね。コミュニケーションは複雑・・・。

渡辺) そういう複雑な条件下で、コミュニケーションによってチームは協力していくのですね。生徒1人ひとりタレントは違います。ドッチボールが得意な生徒、不得意な生徒がいます。互いに支え合うということはどういうことなのか、いろいろな行事の存在によって、支える役割、支えられる役割がその都度入れ替わるのです。部活や演劇という活動の中で、すべての生徒がリーダーシップや主演の役割を担うことはできない。そのときの葛藤も相当なものです。しかし、それはいろいろなチャンスで解消されるし、葛藤を乗り越えるには感じ方や考え方を変えていかなければならない。互いに話し合いながら・・・。

Photo_3 岡部) 行事の多元性の意味は、生徒数が多いにもかかわらず、1人ひとりの居場所が作られるデザインということだと思います。さらに6年間の授業というかシラバスが興味深いですね。論文とアーツの創作編集活動が6年間続いていくそのプロセスが、渡辺先生のおっしゃる関係総体主義的に構成されていると思います。

★大きな物語がなくなってという一般的な文脈では、よるべき価値がなくなって、個々の人間が好き勝手なことを思いのままに行って、他者との共同というのは難しい、困ったものだねとなります。しかし、共立女子の場合は、そういうことではありません。国や権力者が創った大きな物語を鵜呑みにしないで、批判的に思考し対話しながら、自分たちなりの価値を創っていく。しかもそれは公共的な意義がないと意味がないという、独善的な発想は回避しようというものです。もちろん、だからといって、集団的な1つの価値を共有しようというのではなく、1人ひとりの個性は大事にされます。さて、それはいかにしてかは、次回の対話につづきます。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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名門校の条件[11]~共立女子のクオリティ

名門校の条件[10]~合理性と創造性を統合した桐光学園のつづきです。今回は共立女子を紹介します。共立女子の教頭渡辺眞人先生国際教育研究家岡部憲治さんの座談会をまとめたもので、「Netty Land かわら版2007年6月号」に掲載された内容です。コーディネーター・執筆は本間でした。

★この座談会をきっかけに、お二人のコラボレーション授業のチャレンジが実現しました。私自身も「名門校の条件」を考えていく着想を得た記念すべき対話のひと時でした。かわら版ではページ数が限られていましたから、ここでは、少し補足しながらご紹介していけたらよいなと思っています。

★誰もが認める私立の「名門校」共立女子。「名門校の条件」は言うまでもなく教育の質が高いことです。しかしそれはなかなか目で見て確認できるというものではありません。その見えない共立女子の「名門校の条件」が、お二人の対話によって映し出されます。

§1 共立女子の教育の質は対話が生む

Photo_3 本間)学校選択の潮流では、大学進学実績や偏差値という指標以外に、教育のクオリティを判断する指標が求められています。私どももまだまだ独断と偏見ではありますが、クオリティスコアを「12の指標」から算出しています。共立女子のクオリティスコア(図は2006年版)は相当高いのですが。その理由についてお話いただけますか。

渡辺)端的に言うと「要素還元主義」から「関係総体主義」へ、「モノ」から「コト」へという視点から、6年間の教育のデザインがされているということでしょうか。生徒の数も多いし、行事も大変多いのが共立女子の大きな特徴ですが、それがバラバラに設計されていたのでは、質は生まれてこないのです。互いに違う考え方・感じ方を持った人間どうしの関係が、密になるように行事も有機的につなげる設計をする。だから質が生まれてくるのです。

12 本間)いきなり難しい話から始まりましたが、たしかに要素を配置するだけでは合理的で効率がよいという意味での質は生まれてきそうですが、ヒューマニティとしての質は見えてきませんね。

岡部)渡辺先生のキーワードの使い方は、戦略的なのです。共立女子の教育を従来のキーワードで語ってしまうと、伝統的で良妻賢母的な教育というイメージで捉えられかねない。しかし、共立女子の帰国生の取材をしたときに感じたのですが、かなり先を行ったデザインがされていると思います。そのために、まだ教育市場では普遍化していない新しいキーワードで語る挑戦をしていると了解できます。

本間) そのかなり先を行ったデザインとは何なのですか。

岡部)それはコミュニケーション・ベースのデザインということだと思います。校訓やカリキュラム、校則などの制度が上から作られて、生徒たちの活動が決まるのではなく、生徒どうし、生徒と教師の学園生活の中でのコミュニケーションの中から生まれてきた文化が共立女子の教育の文化や制度に結実しているということでしょうか。帰国生は、共立祭に訪れた時に接してくれた在校生の親身さ・優しさ、全体的な学校の明るい雰囲気に魅力を感じたのが最終的な学校選びにつながったと語っていましたね。

★共立女子の教育の構造は、器械モデルでも、機械モデルでもないのです。もちろん植物態モデルでもないのですね。ですから有機的という言葉だけ使ってしまうと誤解されるおそれがあるのです。それで、お二人は日常生活では使わないけれど、現代思想などの文脈では使われる「要素還元主義」とか「関係総体主義」あるいは「モノ」とか「コト」という記号表現をされているわけです。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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