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学びのリーダーシップ~仲間に贈る②

学びのリーダーシップ~仲間に贈るのつづきです。子どもたちが、自ら考え自らアイディアを出す。この考えやアイディアは、教え込むのではなく、「想起」する環境をつくることによって、トリガークエスチョンの仕掛けによって、生まれてくると話してきました。

★そうそう、子どもたちの自己評価もこの「想起」の環境です。さてさてなぜ「想起」なのでしょう。それは学びのプログラム、特に中等教育時期のプログラムにおいてとりわけ注意してきたことに関係があります。その注意してきたことというのは、心理学的な手法の学びのプログラムにならないようにというものでした。

★心理学は専門家でないと取扱いが難しいし、子どもたちの心の奥に触れることは、よほど慎重にしなければという理由からでした。ですから小さな変化をみのがさないというのは、知的な発展の側面もあるのですが、心の微妙な変化も見逃さないということでした。ただし、心の変化については、レッテル貼りに陥りやすいので、判断を中止して、担任の先生やカウンセラーに相談するというやり方でしたね。

★ところで自己評価という子どもが自ら反応する行為のどこに、その小さな心の変化があらわれるというのでしょうか。それは独裁度と民主主義度なんですね。実は心理学的手法を学びのプログラムに入れない本当の理由がここにあるのです。

★心理学は自己実現に関係ありますが、この自己実現の心理学的意味は、リビドーの文化的、政治的、宗教的、経済的、ボランティア的昇華とこの昇華を通してのリビドーの構成的本能化にあるわけですね。リビドーという本能は、あるいは欲は、生きるエネルギーです。太陽エネルギーのメタモルフォーゼが、地球上のあらゆる物質のエコロジーですが、それとリビドーは同じです。いやリビドーも太陽エネルギーの変態にすぎないのですが。

★それはともかく、五感に関係する欲と弛緩と緊張のバランスという筋肉的欲の形成が、学童期まえに完成されます。超自我はこの五感と筋肉の抑制としてこの時期にあらわれるといわれてます。エディプス期でもありますが、生殖の欲は思春期にずれ込みます。超自我が家庭生活で形成されていないと、思春期に生殖の欲をどういう形に転化するか本人自身がわからないままなのですね。そうすると頭では人間関係は民主主義でなければならないとわかっていても、生殖のリビドーのもっていき場がない。すると攻撃的になります。暴力的攻撃は、規律の厳しい学校生活で抑圧できますが、知的暴力的攻撃、イデオロギー的闘争は見過ごされてしまいます。議論をやっていて頼もしいとか誤解もされます。

★ともあれ、この場合、独裁度と民主主義度の両方が高くなる場合があるのですね。そんなときどうしたらよいか。決めつけることはできません。ただ、目の前に起きていることを矛盾としてとらえるのではなく、リビドーをまだ構成的本能化できずにむき出しの本能が思春期において噴出して不安あるいはパニックになっていると理解してみるのも1つの判断です。そうすれば学びのリーダーは、腹が決まります。やっぱり徹底的に話し合ってもらおうと。ただそれは議論ではないですね。むき出しのリビドーの昇華の過程だとみなす(了解とレッテル貼りは違います)ことです。これでリビドーを文化やアイディアや経済、政治、科学に転化する準備ができたし、そのあとは昇華の過程をたどるでしょう。このプロセスを全体として生み出すことが「想起」だったのですね。

★学びのプログラムを8年前に、本格的に創るプロジェクトを立ち上げたときに、アドバイザーとして参加してくれた大学院生及び大学生の専門分野は、言語学、政治経済学、そして心理学だったんですね。教育学部の学生は最初のころはいなかったんですね。プログラムが軌道に乗ってからは教育学部の生徒は増えました。これは偶然ではなく、そのように選択したのです。

★リビドーは教育の前に昇華する環境を作らねばならなかったからです。環境が整えば、教育の出番です。カリキュラムとかシラバスというのは要するに学びのプログラムです。その運営のプロはやはり教師ですから。しかし、その前はまず多方面の視点が必要だったのです。学びのプログラムづくりにも、幼年期、学童期、青春期、老年期という発達段階があるのですね。学童期までは、リビドーの昇華の時期なのです。

★ただし、思春期にやってくるリビドーに関しては、予測不能なんですね。何が予測不能かというと、昇華に至る過程で、どのように変態するかということが。そこの見極めは難しいですね。根っこが家庭生活にあるからです。才能が豊かであり、学童期までに超自我ができなかた生徒は、特にそうです。

★しかも私たちの学びのプログラムは、抑圧型コミュニケーションより創造型コミュニケーションによって、「想起」環境をつくろうとするものですから大変です。これは、かつてのような家庭システムを望むのは現実的ではないし、五感と筋肉のリビドーの昇華方法が抑圧的であるのが、心理学では当たり前のようになっていることに疑問があったので、どうしても創造型コミュニケーションベースになってしまうのですよね。

★それにしても思春期を形成する生殖リビドーの渦が、完璧に構成的本能化されるのは、家庭を作る相方さんとの出会いという愛によってなのですから、中等教育がいかに人生のクライシスかおわかりいただけるでしょう。リビドーの構成的本能化のプログラムが、実は中等教育時期の学びのプログラムであるといっても過言ではないのです。あまりに逆説的なのですが・・・。man for othersという私立学校のプログラムは、この結晶だったのです。

★8年前当時、心理学を学びのプログラムに忍び込ませないために、心理学を学びました。マズローとロジャーズ、ラカン、ギブソン・・・。しかし、実践的な理屈は、エリクソンのライフサイクル、ハーバーマスとコールバーグ、ビゴツキー、私立学校の先生方との勉強会(CAL)でした。

エリクソンについては、アドバイザーの中でまとめてくれた学生がいました。そのノートもNTS教育研究所のホンマノオトに残っています。エリクソンはフロイドの思想に与しますが、リビドーの昇華の過程を「対話」=コミュニケーションと呼んでいます。基本的にはフロイドから脱却していませんが、学童期以前のリビドー昇華の対話のやり方が、必ずしも抑圧的ではないのですね。理論的には抑圧的なんですが、具体的な実践を読むと、どうもそうではない。そこら辺は今後のテーマですね。[本間 勇人 Gate of Honma Note

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