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2008年問題<02>

2008年問題<01>のつづきです。今年は現象的には、京都議定書の約束期間を迎えます。ポーランドでCOP14 が開催されます。洞爺湖サミットがあります。北京オリンピックがあります。ロシア大統領選、アメリカ大統領選があります。韓国では李明博新大統領が就任します。東京ディズニーランドは開園25周年を迎えます。

☆テクニカルにはわかりませんが、このようなイベントを日本がイニシアチブをとってやれるわけではないので、専門家が言っているように、円高になる気配はないですね。円高にならないと、とりあえず、自動車産業が活況を帯びます。産業資本に投資が進み、金融資本やクリエイティブ資本、社会関係(これは実はコミュニケーションスタイルがポイント)資本にリスク分散されませんから、どんなに生産量を海外で増やしても、生産性はあがらない、つまりGDPはまたまた転落ということになります。

☆現象面から見ていても2008年問題は語れるのですが、ポイントはこの現象をネガティブに見ることしかできない日本の思想界・専門家のものの見方がもう1つの大きな2008年問題なのです。

☆たとえば、この現象をポストモダン的に解釈すると、大きな物語は終焉したから、国家の威信を、日本は失ったのだ。個人の判断で横断的にクオリティ・ライフを楽しめる時代がきた。日本の国はスーパーフラット化したんだ。個人の判断といっても、それは趣味。自分の興味と関心のあること以外には無関心という、趣味でライフ・スタイルを作っていこうとしている・・・。とかなんとかなるわけです。

☆その趣味の象徴が、キャラクター、コミック、ゲーム、モバイル、アニメ、パソコンなどなどということになります。そして森川嘉一郎さん(1971年生まれ)は、そのような象徴でいろどられた都市を「趣都」と表現しました。

☆たしかに、電車に乗れば明らかですね。大人もマンガを読んでいるし、年配の人もDSをやっているし、四方八方の人々がモバイルでメールをやり取りしている光景は、日常の風景です。

☆この風景に対し、モラルハザードとして、ポストモダンに対し道徳や徳育を持ち出しているのが学校文化です。徳育の教科化まで持ち出しているほどです。しかし、何かとらえ方が違うのですね。政府側も徳育の教科化を実行できないでいます。

☆電車は、アキバ文化の分身です。電車吊り広告は、まさにミニアキバの雰囲気です。渋谷と秋葉原は違うというのも確かですが、小さな差異を結ぶ横断的な電車は、すべての都市に共通する文化を載せて、日本の文化を地下にリゾームとして形成しています。

☆そしてそこから成長した現代日本文化典型の大輪の花が秋葉原の電脳原野に咲いたのです。大輪の花は、やがて実を結び、日本にやってきた韓国人・中国人に運ばれ、アジアの地でも開花しています。地下鉄網で首都圏は「趣都」化し、自由貿易という法整備のおかげで、フランスやフィンランド、もちろん米国でも開花しています。

☆しかし、なんといってもアキバ文化のエイジェントは中高生。モバイルフォーンのメールや写メールで寸暇を惜しんでコミュニケーションして学校文化の基礎を実はアキバ化しています。ところが学校当局は、この現象を即モラルハザードとしかとらえないから、日本で起きている現象をネガティブファンタジー化してしまうのですね。

☆これに対し1971年前後生まれの専門家や見識者(森川嘉一郎さん、東浩紀さん、北田暁大さんらなど)は、アキバ現象をポストモダンの典型として思いきり承認します。ただし、そうでありながら、専門家や見識者は、ネガティブなんですね。途中から公共的正義論を持ち出して、ポストモダンを修正しようということになってしまいます。専門家や見識者は、アイロニーというレトリックを使わなければならないという超自我が作動しているみたいに、斜に構えるのです。

☆無批判で手放しのリベラリズムなんてという前提というか大きな枠組みがあるものだから、どんなにおもしろい分析や解釈も、結論にいたるや興ざめすることになります。結局学校文化に包摂されてしまうのです。ポストモダンの流れは押しとどめることなどできないけれど、なんとかしなくてはという学校文化に。そしてこの学校文化こそ、日本社会のシステムの原点なのです。日本社会システム生産工場なのです。私立学校の一部が明治以来、公立学校と違うもう一つの近代、オールドモダンでもポストモダンでもないアドバンスモダンを模索してきたのは、歴史的にきわめて重要なポジションを占めているわけです。

☆私立学校の選択問題には、こういう未来のビジョンを選択する意志決定要素があるのですが、そこまで意識して学校選択はなされていないし、その必要もありません。選択肢として歴史の中で存在し続けてきたこと、これからも存在し続けることが、市場の原理からみて、重要なのです。見えざる手が働く環境があることがポイントなのです。

☆アキバ文化も日本社会のシステムを生産する1つの選択肢ですが、それを承認するしないにかかわらず、アキバ文化がアキバ文化として機能する環境整備はまだまだ不十分です。カオスモーズにはなっていませんね。この言葉は、フェリックス・ガタリの創造したキーワードで、カオス(混沌)とコスモス(秩序)とオスモーズ(浸透)の融合態を意味します。アキバ文化はまだカオスという機能しか認められていません。

☆スーパーフラットというコンテンポラリーアートを生み出した村上隆さんが、ニューヨークを拠点にし、秋葉原を拠点に活躍できていないことからもわかります。まだまだアキバ文化はクリエイティブ資本としてグローバリゼーションに耐えられるだけのカオスモーズに成長していないところが2008年問題の端緒です。

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