2008年問題<06>
☆2008年問題<05>のつづきです。森川嘉一郎さんは、≪学校文化の系譜≫が≪アキバ文化の系譜≫を批判というより非難する視点をこう述べます。
アニメ絵のキャラクターと恋愛や性愛を疑似体験させるような内容のゲームをプレイするという行動に関しては、オタクに対して向けられてきたさまざまな人格的批判を関連づけてみることが可能である。退行的で社会性に乏しく、アニメから卒業できないまま大人になった。あるいは仮想と現実が混同気味になっているのではないかという類である。ギャルゲーの説明づけとしてしばしば登場するのは、対人的コミュニケーションが不得手で現実の女の子と付き合えないから、架空のキャラクターを代償にしているのではないかという見方である。社会が強制的に担わせようとする、女性をリードすべき“強い男性”というジェンダーロールに対する屈折が介在していると解釈する向きもある。(同書99ページ)
☆この「“強い男性”というジェンダーロールに対する屈折」の介在こそ≪学校文化の系譜≫そのものです。文科省という官主導でこれをつくりあげてきたのですね。経産省はむしろ≪アキバ文化の系譜≫をなんとか売ろうとしていますが、別に「“強い男性”というジェンダーロールに対する屈折」を改善しようという意図はないでしょう。市場の原理ですから、市場価値が高ければそれでよいのです。だからゲームやアニメを官主導で売ろうとしていることに変わりはありませんね。
☆さて森川さんは、上記のような偏向的批判に目くじら立てるのではなく、むしろ日本よりアメリカの方がパソコン中毒が蔓延しているし、ディズニーのように先行的な文化があるのに、アニメ絵に公然と性愛的要素を求めないのはなぜなのかという点に焦点をあてます。
☆東浩紀さんもそうですが、日本はアニメは昔から得意だったし、江戸時代の浮世絵にルーツがあるという理由づけは、1つの見解にすぎないと前面に押し出すことはありません。東さんはそもそも≪アキバ文化の系譜≫をポストモダンとして≪ディズニー文化の系譜≫に見ています。
☆一方森川さんは、東さんの問題意識を共有しながら、日本の場合、美的感覚や芸術的感覚の判断が「趣味」であることが大きく関係しているのではないかと論じます。
☆おそらく東さんも森川さんの思想を尊重しつつも、さらに一歩進めて「認識論」あるいは「表現論」のシステムの違いであり、それがパソコンという道具の活用によって、より鮮明に見える化されたと考えているのではないでしょうか。
☆江戸時代や浮世絵やもっと前の鳥獣戯画にルーツを見るのは、おそらく間違いではないのでしょうが、その指摘だけでは、現象的、存在的で、学として捉えられていないというのが森川さんや東さんの考えでしょう。
☆しかし、そうはいっても、≪ディズニー文化の系譜≫と≪アキバ文化の系譜≫の共通点と相違点が比較され、差異が強調されるわけです。
☆≪アキバ文化≫の独自性を際立たせるために、東さんは記憶装置や物語の構造の違いを論じるし、森川さんは、アメリカのプロテスタンティズムと日本の趣味の違いを説きます。プロテスタンティズムにせよ趣味にせよ、権力にとりこまれつつも、常にそこから離在しようという境地に立つシステムを持っています。上位文化に染まる趣味ではなく、上位文化を染める趣味。これが≪ディズニー文化の系譜≫と≪アキバ文化の系譜≫の共通点だと森川さんは語るわけです。
☆しかし、前者は徹底した「衛生化」で、女性や子供は純粋なロールプレイをします。しかし、後者は女性や子供を純粋に表しながらも性愛的な要素を付与します。なぜか官主導というより文科省主導の≪学校文化の系譜≫はこれを抑圧し排除します。
☆一方、経産省はこれをイノベーションとして大いに支援します。おそらくNHKでもどこでも、子どもたちに歌われている「おしりかじり虫」は、アメリカではそう簡単に売れないのではないでしょうか。マスコミなどの公器で「おしり」という言葉はタブーです。デュシャンの作品「泉」(素材は便器そのもの)が世を震撼とさせたことからも予想がつきます。
☆しかし、日本ではテレビでもネットでも街中でも、子どもも大人も「おしりかじり虫」をうたうのに抵抗を感じる人は少ないでしょう。この歌の作曲者でありプロデューサーのうるまでるび夫妻は経産省からスーパークリエイターとして表彰されているぐらいです。たしかにうるまでるびさんのキャラクター作品は、どこか村上隆さんの作品に通じるものがあると思います。
☆電車でも当たり前のようにエロティシズムが前面にでる広告が毎日のように発信されています。何もパソコンやネット、モバイルの中だけのことではないのです。森川さんはこのような≪アキバ文化の系譜≫を「個室化」とも呼んでいます。秋葉原のみならず、電車も、パソコンも、モバイルも個室化していますね。マンガ喫茶は≪アキバ文化の系譜≫の胞子ではないでしょうか。
☆フロイト主義の≪学校文化の系譜≫は、この事態を抑圧し排除し、無意識のかなたに葬り去ろうと必死です。超自我の復権はこういう流れなのです。ところがです。日本の文化は、無意識が個室化して見える化してしまっているのです。
☆プロテスタンティズムがカトリック修道院の世俗化というのなら、日本の趣味は洗練されたしかし悲しい花魁文化のつまり粋の文化、あるいはわびさびの文化の世俗化なのかもしれません。九鬼周蔵、岡倉天心、京都学派、芭蕉、利休、信長が大切にしていた表現システムの系譜の世俗化・・・。
☆電車吊り広告で露にされても、それを抑圧しようというフロイト主義者は野暮で、何も無意識のかなたに追いやる言動は必要がないという粋な趣味、あるいは教養というのが、つまりスーパーフラットで、無意識と意識という階層構造をもたない認識および表現システムが≪アキバ文化の系譜≫なのかもしれません。
☆≪私学の系譜≫は、この≪アキバ文化の系譜≫に接近しつつも、趣味や教養はリベラルアーツでさらに独自の進化をとげているのです。フロイト主義でもないけれども、生理的欲求としての性愛指向もありません。性愛ではなく人類愛やアガペー、友愛という昇華の仕方をしているはずです。だからイギリスのパブリックスクールなどの欧米の私立学校の流れをくみながらも、独自の進化をとげているのです。
☆アメリカのプロテスタンティズムは、結局巧みにフロイト主義に結びついたのでしょう。欧州ではフロイト主義は科学の基礎としての役目を果たし、キリスト教という宗教を政治経済から切り離す政治的ロールプレイを果たしてきたと思います。現段階では仮説というより感想に過ぎないですが、ともあれ日本の≪私学文化の系譜≫とは差異があります。私学によってはこの差異より、パブリックスクールやプレップスクールのものまねをしている学校もあります。完全に模倣できればそれにこしたことはありませんが、たいていは中途半端ですね。
☆さて、話を元に戻しましょう。日本はとにかく不思議ですが、キリスト教もフロイト主義も結局根付いていないわけです。甘えの構造とか島国根性とか、昔から言われてきましたが、仲間同士では、すべて露呈しています。仲間の中ではオープンですね。腹を割って話さないとだめな文化なのでしょう。しかし、外に対しては閉じています。
☆文科省主導の≪学校文化の系譜≫はこのことを理解しないで、せっかく仲間だけでもオープンになっているのに、抑圧して仲間同士で閉じた関係というコミュニケーションを作り出してしまったのです。子どもたちが学校文化の水面下に≪アキバ文化の系譜≫を持ち込むのは当然の力学、市場原理なのです。そして、それを発見した教師が再び超自我の名のもとに抑圧します。恐怖とストレスで煮えたぎっている密室がときとして爆発しているのが現状の凄惨な事件の背景です。
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