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2008年問題<07>

2008年問題<06>のつづきです。森川嘉一郎さんは、≪学校文化の系譜≫が≪アキバ文化の系譜≫を批判する、いや抑圧することにカウンター的な論理を展開していますが、一方で≪ディズニー文化の系譜≫にも≪アキバ文化の系譜≫をカウンター的に位置付けています。森川さん自身は≪私学文化の系譜≫に関してはどこにも位置付けていないし、表面化していないようですが、東浩紀さんや北田暁大さんは、ご自分たちのある思考の拠点や原点としてつねに中学受験や中高一貫校時代を引き合いに出しますから、かなりの部分≪アキバ文化の系譜≫と≪私学文化の系譜≫は重なっているかもしれません。しかし、ここはあくまで大雑把な予想にすぎません。

☆ともあれ、森川さんは、≪学校文化の系譜≫と≪アキバ文化の系譜≫を相対化、フラット化し、前者のフロイト主義に対し、超自我的存在の抑圧性を暴く論の展開になっていると思います。圧倒的なケースメソッドで、≪学校文化の系譜≫が、現代社会の中でいかに無効化されているかを論証していきます。

☆学校当局がいかにフロイト主義で抑圧システムを維持しようとそれはしょせん防衛コストを高めているだけで、その水面下は≪アキバ文化の系譜≫で満ちているのだということです。しかも学校を一歩外に出れば、そこには「趣都」が広がっているのだと。

Photo ☆今や≪学校文化の系譜≫は学内でのコミュニケーションがいかに了解し合えない状況をつくり、生徒たちの「個室化」を浸透させ、≪アキバ文化の系譜≫を拡大しているかということですね。学校文化はいかに≪アキバ文化の系譜≫とコミュニケーションできるのか、飲み込むのでも飲み込まれるのでもないコミュニケーションはいかにして可能なのか。この点に関しては京北の校長川合先生国際教育研究家の岡部憲治さんの思想が参考になるでしょう。

☆≪学校文化の系譜≫は≪アキバ文化の系譜≫といかにしてコミュニケーションが可能か。これが2008年問題の1つです。そしてもう1つは、≪アキバ文化の系譜≫は≪ディズニー文化の系譜≫といかにしてコミュニケーションが可能なのかということです。

☆森川さんは批判的思考のターゲットが≪学校文化の系譜≫だったので、この点については積極的に展開していないのですが、だからこそ重要な論点です。≪ディズニー文化の系譜≫にルーツを求めながらも、反抗しているというスタンドポイントが日本の行方を暗くしていますね。

☆せっかく≪アキバ文化の系譜≫はフロイト主義ではなく、無意識と意識のフラット化、相対化をしているという事態を了解できそうなところにきているのですが、この点を明確にしないために、結局超自我批判や超自我を何にするかのすりかえをいつの間にかしているというまさにオリエンタリズムの構造にはめ込まれてしまうリスクが横たわっています。

☆≪学校文化の系譜≫に対してフロイト主義の構造全体を批判できるのに、結局その超自我が国家道徳の押し付けではないかという話にすり替えられてしまうのです。≪ディズニー文化の系譜≫に対しても結局フロイト主義の超自我がホワイトアングロサクソンプロテスタントではないか、≪アキバ文化の系譜≫はそれとは違って独自のスーパーフラット化という超自我を持っているのだということになります。

☆スーパーフラット化された超自我は中空点だし空集合だから、「趣都」で生活する分では独自性を保てるのですが、グローバル都市では、結局フロイト主義的枠組みの中でコミュニケーションを強いられ、超自我の世界標準を突き付けられてしまいます。そこでイニシアチブをとれません。とる必要もないのかもしれないのですが、それでは気がついたときは発展途上国の経済生活やワークライフを強いられてしまうというのがもう1つの2008年問題です。

☆したがって、どんなに≪学校文化の系譜≫を≪アキバ文化の系譜≫によってゆさぶっても―もちろんゆさぶらないと始まらないのですが―、≪アキバ文化の系譜≫はフロイト主義的枠組みからははみだしてしまうということを積極的に論じていく戦略がポイントになるでしょう。ひと・もの・かねのフラット化はポストモダニズムの≪ディズニー文化の系譜≫はなしとげているのですが、精神(知性と感性)のスパーフラット化は≪アキバ文化の系譜≫の独自性です。ヨーロッパは精神の階級制度をまだまだ破壊できていません。アメリカは精神の階段状の発達心理学によって、精神の成長階層構造が眼前としてあります。≪アキバ文化の系譜≫はそこはカオスモーズなはずです。

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