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2008年問題<08>

2008年問題<07>のつづきです。前回「ひと・もの・かねのフラット化はポストモダニズムの≪ディズニー文化の系譜≫はなしとげているのですが、精神(知性と感性)のスーパーフラット化は≪アキバ文化の系譜≫の独自性です。ヨーロッパは精神の階級制度をまだまだ破壊できていません。アメリカは精神の階段状の発達心理学によって、精神の成長階層構造が眼前としてあります。≪アキバ文化の系譜≫はそこはカオスモーズなはずです。」と書きましたが、ここでそろそろフェリックス・ガタリの遺稿を手がかりに2008年問題をとらえることにしましょう。

☆「フェリックス・ガタリの思想圏 <横断性>から<カオスモーズ>へ」(大村書店2001年)の中に収められている「エコゾフィーの実践と主観的都市の復興」という生前最後の語りおろし「遺稿テキスト」をヒントにします。

☆1999年にNTS教育研究所を創設するときに、ガタリの書「三つのエコロジー」や廣松渉の書「知のインターフェース」などを読み漁っていたことを思い出します。ガタリの書は、当時は工学院の校長をされていた城戸先生や東京女学館の校長福岡先生とお話をする中で、妙に結びつく不思議な気持ちに満たされていました。ゆるやかな私学の共同体をいかにしてつくっていくかの着想を得たひと時でした。

☆初代のNTS教育研究所の所長は、今の国際教育研究家の岡部憲治さんでした。私は研究所設立のための支援者としての立場で、スーパーバイザーをやっていましたね。ITとコミュニケーションと庭園の3つを結びつける学習環境の提案という点で私たちは共有していたし、ピラミッド構造の組織ではなくフラット化の組織(ガタリやドゥルーズの言葉で言えばリゾーム)へという発想も共有していたのですが、私は岡部さんの「アキバ文化論」について尊重していたけれど、きっと理解ができなかったのでしょう。岡部さんも私の「庭園建築空間論」について尊重していたけれど、共有するまでには、当時はいかなかったと思います。

☆コミュニケーションについても、岡部さんはガーフィンケルのエスノメソドロジーで、徹底した権力批判論、私の方はハーバーマスのコミュニケーション行為論で、共通点はあるけれど、ミクロ論・プラグマティズム的ヘーゲリアンウェイに対し、マクロ論・トマス的市場原理主義である私とは差異があったのでしょう。ITに関してもテクノロジーベースに対し、コンテンツ重視だったし、庭園論に対しても、バーチャルリアリティに対し、リアルの中のバーチャルな感覚を重視する私とはズレがあったと思います。

☆対話形式のセミナーをやったり、私立学校のアドバイスを協働でやったりしましたが、差異は共有という形というより、開く方向に進みました。Honda「発見・体験学習」のプログラムをつくるときに、岡部さんはすでにE-ラーンニグベースを考えていましたが、私の方はプロジェクト学習ベースを考えていました。もちろんインターネットは使うのですが、あくまで道具でしたから、二人のズレは決定的なものとなりました。

☆私は支援者ではあったけれども、そこまでのインフラ整備を会社を動かしてまで行うことはできなかったのですね。力がなかったわけです。その後岡部さんはいったんベンチャー企業やIT企業で活躍をしますが、再び国際教育情報室長としてもどってくることになりました。当時は能力主義で人材登用する経営者が存在したわけです。

☆今度はズレをズレとして尊重し合い、NTS教育研究所のメンバーたちと私たちが中心となって、「未来を創る学校」というテキストやセミナーを実行しました。そしてついに時代の精神をつかみかけたのですが、民間の研究機関ですから、目の前の経営に役立たないものは価値がないのですね。今度は私たちは経営と大きなズレを見出してしまいました。

☆私たちの企画は、まだまだ一部ですが、マスコミや出版社の仲間に受け入れられました。社内に応援者もたくさんいたのですが、経営陣を説得する時間を、私たちの企画を社会に広める時間に費やすチャレンジをする選択決定をしました。うまくいくかどうかわからないのですが、とにかくこうして私たちはNTS教育研究所から離在することに決めました。

☆私たちは、今こうして自分たちのスタンドポイントで企画を広める領域にそれぞれが立っています。しかし、まだまだ直観的に位置しているだけで、時代が求めている領域かどうかは検証しつつ活動していかざるを得ません。2008年問題の考察も、この領域の検証活動の一つです。

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