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2008年問題<09>

2008年問題<08>のつづきです。さて、ガタリの語りを引用します。

音楽、モード、広告のコピー、ガジェット(アイディア商品)、さまざまな系列産業の宣伝などなど、今日巷にはありとあらゆるものが行き交っている。しかしながら、製造されたものどうしの差異があいまいなうえに、なにもかもが交換可能な規格化された空間のなかにあるために、すべてのものが動かないでいるかのようにみえる。たとえば、ツーリストは同じ客車、同じ飛行機で運ばれ、エアコンのきいた同じホテルを利用し、すでにパンフレットやテレビで幾度となく見たことのあるモニュメントや景色の前を通りすぎていくといったふうに、旅といってもほとんど動かないも同然の旅行をするのである。かくして主観性は化石化の危機にさらされている。主観性は差異や意外性、特異な出来事といったものへの嗜好を喪失しつつある。テレビ放映されるさまざまな競技、あるいはスポーツやバラエティー番組、政治活動なのでにおける<スター・システム>といったものが、神経を弛緩させる麻薬のように主観性に作用し、主観性を苦悩から守るかわりに、主観性を幼児化し、主観性の責任を解除する。では、かつてのような安定した標識の喪失を惜しむべきであろうか?歴史が突然停止することを願うべきであろうか?ナショナリズム、保守主義、外国人排斥、人種差別、原理主義といったものへの回帰を宿命として受容すべきであろうか?

☆少々長い引用であったかもしれないですね。しかし、森川さんや東さん、北田さんと問題の認識は共有されているということが確認できたと思います。ガタリ風に言い換えると、≪学校文化の系譜≫は主観性の化石化の危機にさらされているということになりますね。主観性という嗜好性は、しかし、ガタリの時代には喪失されてつつあったのですが、≪アキバ文化の系譜≫はその嗜好性、つまり趣味を喪失どころか、逆に生み出しているわけです。

☆ガタリはポストモダンのような考え方とは多少ズレていますから、≪ディズニー文化の系譜≫も主観性を幼児化し、主観性の責任を解除するシステムだと明快に答えるでしょう。するとガタリが希求していた主観性という嗜好性は、≪アキバ文化の系譜≫に脈々と流れていると理解することが可能なのです。

☆日本全体の流れでは、≪学校文化の系譜≫と≪ディズニー文化の系譜≫はなんとかサバイブできるようにしなければならないけれど、≪アキバ文化の系譜≫はモラルハザードとして超自我によってなんとか抑圧しなければならないし、≪私学文化の系譜≫は格差社会を促進するシステムとみなされます。しかし、自由契約社会であり、市場の原理が働いている社会であり、完全に停止させることは法原理上無理です。あの手この手を使いますが・・・。

☆それゆえ、あたかも秋葉原や私立学校という小さな世界のことに過ぎないと思うようにしているのでしょう。ところがマスコミやメディアは、逆にそこに光をあてます。売れるからですね。しかし、売れるということは市場の原理に忠実だとも言えるし、ガタリの言うように主観性を麻痺させるような一面もたしかにあるのだけれど、オープンにすることによって、逆に活き活きとさせてしてしまうわけです。オープン・システムはそれぞれの当事者の思惑とは別に淘汰する機能を持っているわけです。

☆そういう意味ではガタリが思っているようには≪ディズニー文化の系譜≫は主観性を麻痺させませんね。逆説的なのでしょうか?いやそれだけ、≪学校文化の系譜≫が意外性や差異性がなく同質化しているわけです。そこは日本の官主導の法人の特徴でしょうね。欧米に比べて・・・。

☆このようにガタリ的な視角で見ると、≪アキバ文化の系譜≫は、≪学校文化の系譜≫や≪ディスニー文化の系譜≫に対しカウンターの位置にあるのではなく、かえって理想郷としての位置にあることになります。

☆それにしてもガタリのアイロニーは預言的ですね。今日の日本は、かつてのような安定した標識の喪失を惜しんでいるし、歴史が突然停止することを願っているし、ナショナリズム、保守主義、外国人排斥、人種差別、原理主義といったものへの回帰を宿命として受容しています。だから≪アキバ文化の系譜≫や≪私学文化の系譜≫を大手をふって受け入れようとしないのです。

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