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2008年問題<11>

2008年問題<10>のつづきです。ガタリのいうエコゾフィーについての考え方をみてみましょう。

人間的、エコロジー的なはね返りを無視して、ひとえに量的な拡張をめざす経済成長―しかも、利潤経済とネオリベラリズムの排他的な支配下におかれた―の時限爆弾のような仕掛けを取り除いて、人間の欲望の対象の特異性と複雑性を復権する新しい質的なタイプの発展をめざさなければならない。こうした環境的エコロジー、科学的エコロジー、経済的エコロジー、都市のエコロジー、社会的エコロジー、精神的エコロジーといったものの連結を、私はエコゾフィーと名づけた。それはこのようなそれぞれに異なったエコロジー的アプローチをある同一の全体的なイデオロギーの中に包含するためではなくて、逆に、多様性、創造的分岐といったものにむかっての倫理‐政治的な選択、差異と他性に対する責任の選択というパースペクティブを指し示すためである。生を構成するひとつひとつのセグメント(切片)は、そのそれぞれのセグメントを超え出る個人横断的な門(フィロム)のなかに挿入されながらも、根本的に単一的なものとして把握することできる。誕生、死、欲望、愛といったもの、時間や身体、あるいは生命のある形や生命のない形との関係といったものは、それらを新たに見つめ直すための何ものにもとらわれない澄明なまなざしを要請する。

☆同一性とか全体性という名の画一性に対し、人間の欲望の対象の特異性と複雑性を重視するというのは、まさに≪アキバ文化の系譜≫に結びつくのではないかと思います。

☆そしてそれを復権するには、環境的エコロジー、科学的エコロジー、経済的エコロジー、都市のエコロジー、社会的エコロジー、精神的エコロジーといったものの連結をするエコゾフィーという視点がポイントだということですね。

☆この「連結」は、決して一般化でも同一化でもないのですね。線で関係づけられるものでもない。ヨーロッパの伝統的な考え方であり、忘れられた「離在」だと思います。官→民間→個という流れなのですが、この個は決して国家や企業の歯車としての個ではないのですね。

☆しかし、現在の総合学習の発想や環境保護のためのエコロジーの考え方には、この意味を問い返さないため、新自由主義的な全体包摂論になりかねないわけですね。ここにガタリはこだわります。

☆ポストモダンは、このこだわりがないとオールドモダンに逆戻り、むしろ促進役になってしまうよということです。ではこのこだわりはどうやって・・・。

☆それはコミュニケーション、ことばの特異性と複雑性の構想力と実践力です。京北学園の川合正校長の「ていねいなコミュニケーション」や国際教育研究家岡部憲治さんの「かんがえ型」共立女子の渡辺眞人教頭の関係総体主義に、わたしがたびたび言及するのはそういうワケがあるのです。

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