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2008年問題<12>

2008年問題<11>のつづきです。ガタリの表現は、ヨーロッパのリベラルアーツとしての教養に彩られていて、私にはついていくのが大変です。要約のしようもありませんから、引用が多くなりますが、ご了承ください。

子どもを対象とする精神分析家であり民族学者でもあるダニエル・スターンが<現れ出つつある自己>と呼ぶこの主観性を、われわれは絶えず生み出しつづけなければならないのだ。専門家やテクノクラートの干からびた光明のない視点に取って代えて幼年期や詩の視線を奪回すること。ここで、黙示録に描かれているような新たな<天空のエルサレム>のユートピアなどをもちだして、われわれの生きているこの現代のきびしい必要性に対応しようなどというのは論外である。そうではなくて、この必要性の核心部分に<主観的都市>を打ち立て、テクノロジー的、科学的、経済的な目標、国際的諸関係(とくに北と南の関係)、マスメディアの巨大機械といったものの方向づけを改めて設定しなおさなければならないのである。

☆「<現れ出つつある自己>と呼ぶこの主観性」とはクリエイティブ資産のベースです。「専門家やテクノクラートの干からびた光明のない視点に取って代えて幼年期や詩の視線を奪回すること」ととは官主導の≪学校文化の系譜≫が抑圧してきた子どもの才能を開放することと置き換えられます。中学受験の位置づけもそういう開放の領域だと、思ってやってきたのですね。岡部憲治さんが、マンガを使って、麻布や桜蔭の問題を読解する授業をやったのも、アインシュタインの目を読解する4年生のカリキュラムを私が作ったのも、そういう思いだったのですが、変人扱いされました^^)。今では、そんなことを思ってやっている塾は少ないでしょう。中学受験もマスメディアの巨大機械の歯車になりつつあるのだとしたら問題ですね。これも現象としては、2008年問題の対象です。

☆この開放に関しては、ガタリはユートピア的空論ではなく、実践的な「方向付け」として論じているわけですが、今の日本に≪アキバ文化の系譜≫と≪私学文化の系譜≫として既にあるのだということに気づけるかどうか、ここを無視するのは官主導だと得意なわけですが、だからこそ2008年問題がここに横たわっています。

☆そして<主観的都市>とは、森川さんのいう<趣都>と置き換えることができます。ガタリが今も生きていたら、テクノロジーや巨大機械をどのように読み解いたでしょうか。リアルスペースとサイバースペースの個々の主観的な動きを統合という名で画一化する意味でバーチャルという言葉を使っているポストモダンに対し、どういう対決をはたしたのでしょうか。

☆脳科学とITの複雑性を読み解くには、この二元論から離在する必要があるはずですが、今となっては≪アキバ文化の系譜≫と≪私学文化の系譜≫でそのような思考の方向性を見出していくしかないようです。で、この2つの系譜は、今のところ日本にしかないのですが、今のところはニッチな領域だという共同幻想があるのですね。まさにバーチャルに過ぎないと思うのですが・・・。

☆そうそう今再びカントだということです。国際立憲問題を解くには、カントの「永遠平和のために」が今でも有効だからでしょう。「商業精神」と「金の力」が平和のポイントというカントの指摘はたしかに有効です。

☆この経済力について、カントはほかの書でどう説いているのか気になるところですが、それは専門家にまかせましょう。カントは「物それ自体」は不可知だとしたのですが、存在は認めたのですね。もしだれも知ることができないのなら、無くてもよいとなって相対主義があらわれるのですが、これはバーチャルを三批判的構造として、リアルを物それ自体とすると、そうはいかなくなります。

☆リアルな経済力を物それ自体、学としての経済をバーチャルと設定するとよいのではないでしょうか。エコゾフィー的には、おそらくそうなるのでは^^)?

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