学び野[28]究極の授業の勉強会 第1回The授業リンク開催
☆昨日(2008年5月19日)、中村中学校で、究極の授業を求めて、教師や教育関係者が50人以上集まりました。講師は明大明治の松田孝志先生です。それにしても私立学校の不易流行を思い知った勉強会でした。
☆松田先生の授業それ自体が、官僚近代学校の授業とは全く違う、すなわち規律統治型ではなく、やる気や興味、そして知識を想起させる問答型の授業だったという点がまず一つですね。ソクラテスやトマス・アキナスのような問答形式の授業の組み立てなんですね。
☆古代ギリシアにおいてあるいは中世ヨーロッパにおいて、彼らは権力や人間の世俗知や憶測知に対して挑み、多くの人の世界観を変えたのですが、これがおそらく欧米のリベラルアーツのルーツで、松田先生の授業もそこにつながりますね。このことについては、The授業リンクのメンバーどうしで確認し合うチャンスが必要かもしれません。
☆松田先生の授業は決して独断と偏見ではないのです。ある意味小泉八雲のような位置づけでしょうか。夏目漱石の東大の授業は、もともと小泉八雲がやっていたんです。漱石は小説はおもしろいのですが、授業は講義型で、理屈っぽく、一方的で、当時はつまらないという評判だったようです。それに比べ八雲の授業は対話型でおもしろかったと。上田敏は八雲が東大を去ることになって、非常に落胆したほどであったそうですよ。
☆大江健三郎さんは小泉凡さんに「世の中はやっと八雲のものの見方や価値観に追い付いてきたと思います。八雲の研究はこれからです」とエールを送ったということらしいのですが、まさに松田先生の授業に、世の中が追い付いてきたのではないでしょうか。
☆それからたいへんわかりやすい形で不易流行を実感したのは、共立女子の渡辺教頭先生が、実は中村中学校の小林理事長・校長先生とは同窓でかつ同じ専門だったという話や、私は松田先生の教え子で、今ある私学の社会科の教員をやっていますとか、私はこの会の会員のS先生の教え子ですよというような話を一遍にお聞きしたことです。
☆松田先生の授業の批評・分析は、この勉強会に参加していた国際教育研究家の岡部憲治さんがいずれ自らのブログで発表するということなので、私は気づいたことを1つ述べておきましょう。
☆世の中がやっと追い付いてきたのですが、松田先生はまた大きな一歩先に進んでいるのに驚いたのです。その大きな一歩とは、授業の展開やそのノウハウのことではないのです。それは生徒一人ひとりの分析をきっちりしているということです。
☆これは生徒の評価のことではないんですね。1人ひとりの生徒の価値観や認識方法、感じ方を分析できているということです。
☆なになにそんなの当たり前ではないかと反論する方もいるでしょうね。しかし、1人ひとり違ってよいのだから、その違いは気にしないというのが、実は学校現場です。習熟度クラス分けは、1人ひとりの違いに注目しているわけではなく、あくまでグルーピングです。偏差値なんてと言っていながら、わける発想や理屈は同じことです。
☆結局スコアの背後にある1人ひとりの違いを分析できていないのです。そんなことはない1人ひとりの特徴を私はこんなに詳細に了解していると反論されるでしょうが、その了解したことを見える化しているかというとそうではないのですね。それでは分析したことにはならないのです。了解と分析の紙一重の差異。しかしこれが大きな一歩の差異になるのです。ところがしかし、この松田先生の分析手法をただ真似をしてもだめなのです。それは今度は了解にかなわないんですね。
☆松田先生の分析は問答法が前提なんですね。ダイアローグあっての分析ですから、それは統合でもあるんです。地と図の反転の繰り返しがあって分析は生きるのです。松田先生の授業が終わったあとに質問が幾つかでていましたが、噛み合わなかったかもしれません。ものの見事にカント的な質問とソクラテス―ヘーゲル的な応答のすれ違い。
☆The授業リンクの前身のCAL時代の会員は、≪私学の系譜≫のメンバーだけだったのが、新しい授業の勉強会は、より広く会員が集まっています。価値観の多様性がこの勉強会で浮き彫りになったわけです。改めて貴重な機会だと感銘を受けました。
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