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2008年5月

私学の経済ポジショニング[01]端緒を探る①

08 ◆今年、首都圏の私立中学入試の受験率は、20%を超えたと言われている。これは首都圏の中高一貫校がやっと20%:80%の論理、つまり古典的ではあるがパレート最適の理屈が成り立つ時代がやってきたと言えるのである。

◆3年ぐらい前から、マスコミの私立中高一貫校の取り上げ合戦がすさまじいことは今さら言うまでもないが、全国誌のマスコミも、首都圏で売上があがるように編集コンセプトを固めているところからも、首都圏、特に東京の私立学校の教育における発言力は強まっているといえよう。

◆せっかく強まっているのだから、私立学校の教育の強みを世の評判とし、大学実績の話題だけではなく、日本社会や世界の諸問題の解決に大きな影響を与えるような発言をしていくことがポイントになるのではないだろうか。

◆私立中高一貫校に進学できる数は、同世代人口の7%であり、首都圏の場合だと3%である。少子化の影響は甚大ではない。いやむしろこの少子化が生みだす諸問題を解決する影響力を私立学校は持っているのであるから、それを大学進学実績を出すことに蕩尽してはならない。

◆少子化が生みだす諸問題とは、経済格差、教育格差、人間力格差=環境破壊などであるが、明治以来の官僚近代が推し進めてきた、殖産興業・富国強兵・戦争→大量生産・大量消費・大量移動の優勝劣敗路線の破綻の兆しであると言っても言い過ぎではない。

◆この大量生産・大量消費、つまり経済成長の減速を、官僚近代路線は、かなり小手先の対処療法で立て直そうと躍起となっている。消費者のニーズを大切にするなどと言う甘いささやきのもと、消費者の人間性を空洞化し、ニーズをキャラ化し、消費意欲を人工的にアップさせる環境統治型戦略をとっている。

◆しかし、少子化は、この大量生産・大量消費・大量移動を否定する事態である。質の生産・質の消費・質の移動への転換が時代に期待されている。この期待に応えることができるのは、教育であるが、公立学校の教育は、残念なことに、この大量生産・大量消費・大量移動を促進するための教育であり、そのモチベーションアップの手法は優勝劣敗という抑圧系の方法である。こうして高ストレス社会が日本に蔓延してきた。

◆ところが、私立学校の教育は、この意味で真逆の方向をたどっているのだが、結局進路の過程が公立学校の教育と同じであるため、目に見えないキャリア教育の質に気づかれることがなかったのである。

◆しかし、やっと少子化によって、クオリティ・ライフとしての生産・消費・移動が必要であることが見え隠れし始めた。大量の生産・消費・移動を支えてきたものは、資源奪取と労働集約の論理であったが、これが環境の持続可能性と創造的労働に転換することになる。

◆人間は自分が住んでいる環境そのものであり、人間の品性の向上はその環境を創造する知恵に根拠がある。少子化は放っておくと、環境を荒廃させ、創造性を枯渇させる。教育によって補完することが求められるのは、そこに理由がある。その教育の方法論を持っているのは私立中高一貫校(もちろんそうでない私学もある。傾向としてということ)であり、この教育が社会の経済性を官僚経済・企業経済から市民経済にチェンジするトリガーであることは間違いない。

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学び野[36]言葉のフィクション性

小5授業で自殺方法を紹介「睡眠薬や練炭も」…福岡・篠栗(5月30日12時12分配信 読売新聞)によると、

福岡県篠栗(ささぐり)町の北勢門(きたせと)小(岩崎陽一校長、708人)で、5年の担任男性講師(37)が28日の授業中、児童に対し、自殺する方法を具体的に紹介していたことが分かった。・・・講師は「児童から『こわい話をしてくれないか』などと言われたのがきっかけだった。命は大切で、自殺をせずに力強く生きてほしいと伝えるつもりだったが、力不足で不適切な発言をしてしまった」と反省しているという。

☆言葉のフィクション性の了解が、教師と生徒との間で共有できなかったのだと思います。芥川龍之介や太宰治の人生を語る中で、自殺の問題はでてきます。この話にいきつくまで、時間がかかります。

☆そのうち、言葉のフィクション性に気づく生徒が多くなるはず。しかし、これとてもまだまだ危ないですね。ふだんの国語の授業で、言葉の構造差異を了解できる言葉観をきちんと理解できるプログラムが展開されていなければならいでしょう。

☆言葉の力とは、言葉の意味の記憶でもないし、その意味が使えればそれでよいというわけではないのですね。

☆言葉が放たれると、行動や気持ちや想像も喚起します。だから、言葉の力のマネジメント力を育成することが大事ですね。

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学び野[35]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか(了)

☆第1回The授業リンクの講師松田先生の授業について、つれづれなるままに考えてきましたが、まずはいったんまとめましょう。そして、今度は松田先生と議論して、また考えていきたいと思っています。もっとも、松田先生は、お忙しいですから、いつ議論できるチャンスが訪れるかは神のみぞ知るですが^^)。

☆さて、今まで書いてきたことを箇条書きにして、まずはまとめてみます。なぜ松田先生の授業はターニングポイントに立っているのか?という問いに対する回答ですね。

①日本の公教育が到達していない世界標準の思考レベルを超えている。

②異文化を理解するコモンセンスとしてのコミュニケーションの成立。

③商品化された多元的なキャラに気づき、自分の多面的なキャラと自分のキャラクターの統一に挑む居場所の成立。

④他者の考えや感じ方を知り自由な足場としての居場所づくりの成立。

⑤教育の質の競争を生みだすResonant Leadershipの発揮。

⑥授業の新たな組織づくり。

☆今まで書きたかったことは以上のような理由です。①と②については私よりもむしろ岡部憲治さんの方が、論理的に詳細に分析していますので、そちらをご覧ください。

The 授業リンク -松田先生の授業 - 了

☆①から⑥の項目を満たす授業が、もし多くの先生によって行われるようになったとしたらどうでしょう。想像してみてください。

想像・想像・想像・・・・・・・・・

☆どうです。世界は変わるということが了解できたことと思います。しかしです。この授業はコストがかかるんですね。今のところ松田先生は完全にボランティアでやっているわけです。企業家が見れば、それはありがたいスタッフですが、このスタッフのクオリティをどう維持し、広めていくか考えるでしょう。もし強い信念を持った経営者やオーナーであれば、プライスの決定を高めに設定することは間違いありません。目先の利益しか考えない経営者やオーナーは、事業化はしないでしょう。

☆さて、学校経営においてこれを当てはめるとするとどうなるのでしょうか。このような授業をやらない理由は、本当はただ一つなのです。経営上の問題です。明大明治の授業料は年間52万円前後です。これに補助金が出て、1人当たり80万円から90万円ぐらいの授業料を払っていることになりますかね。あくまで予想に過ぎませんが。慶応普通部は授業料だけで90万円弱です。

☆慶応普通部だって、すべての先生が松田先生のような授業をするわけではありませんが、松田先生の授業の一部分はどの先生も実施します。コラボとプレゼンは当り前だと思います。明大明治はどうでしょう。たぶん全員ではないと思います。その差は結局帰属収入の差なのです。

☆帰属収入の60~70%が人件費だとすると、授業料だけでは人件費は賄えないでしょう。そうすると学内に倹約の圧力が無意識のうちに生まれますね。倹約の圧力は、創造性を萎縮させ、事務的になります。その状況を脱しようなどという動きになると出る杭は打たれるということになるのは必然の流れです。

☆ところが明大明治は、ホームページで松田先生の授業を明大明治の授業として自己表現しているわけですね。これは革命的なことなのです。ターニングポイントの意味は、教育の論理のチェンジだけではなく、経営の論理のチェンジも示唆しているのです。

☆もし松田先生のような授業を、すべての先生が行ったら、授業料をアップするしかないのです。新商品を作って儲けることは法人型NPOである学校法人にはできません。帰属収入で経営していくしかないのです。倹約倹約で先生方にがまんしてもらうか、先生方のクオリティの高い授業にリーズナブルな授業料を投資してもらうかどちらかです。

☆不足知識を埋め合わせするような講義型授業をやり続けているのに、授業料をアップせよは保護者は納得しません。しかし、4:1の割合で、講義型と松田型の授業を実行したなら、年間授業料を60万にするのは保護者は了解するでしょう。

☆2:1の割合でやったのなら、年間授業料80万円にしてもよいでしょう。松田先生の授業が、なぜターニングポイントに位置しているかというと、教育の論理と経営の論理のパラダイムを転換させるからです。

☆このシーズンは、各学校で理事会が目白押しでしょう。理事会には学校長以外に企業のオーナーや学識者も入っていると思います。彼らは授業の中身なんてわからないので、授業で経営ができるなどという発想をほとんど持ち得ていません。これが日本の教育の本当の悲劇であり、隠蔽され続けてきたリスクなのです。

☆彼らが、社会起業の精神や市民経済の精神を理解するにはもう5年かかるでしょう。そのときまで、松田先生のような授業に理想と夢を持ち続けてもらうには、コミュニティが必要です。その一つがThe授業リンクなのだと思います。

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世界を変える学校[22]桐光の知②

☆桐光学園が、編集した本「大学授業がやってきた!知の冒険」(水曜社)を読んでみると、これは大人も楽しめるし、中学受験生も知的好奇心をもちながら受験勉強ができることに気づきました。

☆読書は大事ですが、その目的は様々です。知識を得るため、人生の悩みを解決するため、不安をケアするため、情報を収集するため、感動するため、自己を見つめるため、娯楽のため・・・。そうしているうちに、座右の銘に出会うことになるのですが、最も大事なことは自分の中の何かがカチッと音を立てて変わる本に出会うことでしょう。

☆「知の冒険」とはそういう自分を変化させる本かもしれません。ということは、もともとこの本のもとになったライブは、授業そのものです。授業を受けた生徒の何かが変わったということでしょう。

☆「授業という体験→<媒介項>→経験値アップ」というサイクルが桐光の知の仕掛けであるわけです。このサイクルの仕掛け人である教師の存在が桐光の価値を高めていますね。

☆ところで、このサイクルの<媒介項>はなんでしょう。おそらく授業のあと、感想文や授業に触発された自由研究などが必ず挿入されているはずです。生徒どうしの議論があったり、そこに教師も参加したりというようなシーンもあるのではないでしょうか。

☆また「経験値アップ」として、生徒はどんな変化をしているのでしょうか。進路決定とそこに向かうモチベーションがアップしたとか、今回の本に収録されている多木浩二さんの複眼視点や熊野純彦さんの思考回路そのものを体得し、使えるようになったという生徒も出現しているのではないでしょうか。

☆桑子敏夫さんの「トキをどう野にかえすか」という授業は、理系に進む人材のサバイバルスキルが語られています。分野横断的コラボとステークホルダーとの協力というチームワークやリーダーシップが最先端科学の世界でも必要だということですが、スポーツ系の部活をやっていた生徒が、これだ!と思った瞬間があったのではないでしょうか。

☆それにしても、この本を中学受験生が読んだらどうなるのでしょうか。「人間はなぜフィクションを必要とするのか」という宇佐美毅さんの文章は、受験生でもOKでしょう。この箇所を読む前に、受験生と「人間はなぜフィクションを必要とするのか」ということについて問答をして、その次に読んでもらう、そして再び議論する・・・。そんなサイクルでプレ授業して、ついてくる生徒がいたら、その生徒こそ桐光の教育理念に一致するのではないでしょうか。

☆もっとも、そんな真面目なプレ授業ばかりだと、生徒獲得戦略としては、微妙ですが・・・。いきなり知的楽しさを体験するのは難しいかもしれません。まずは体験そのものを大いに楽しみ、経験値をアップするのは入学してからのおたのしみというのが王道でしょうか・・・。

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世界を変える学校[21]桐光の知①

☆桐光学園が、2007年に実施した大学訪問授業を一冊の本にしました。そのタイトルは「大学授業がやってきた!知の冒険」(水曜社)です。あらゆる分野の大学教授18人の講義がまとめられています。

Photo ☆この出版の意義は、革命的です。創立30周年記念事業の一環であることの奥の深さが伝わってきますね。単純に30年たったから節目として、30周年史を出版しようというのもそれはそれで自らの系譜をたどる意味で重要ですが、授業の中身を出版しようというこの試みは新鮮です。桐光が30年で大飛躍し、これからも内生的成長を続けるだろう成熟期を迎えたことを象徴する一冊ですからね。

☆18人もの大学の教授とジョイントするだけでもすさまじく多忙なプロジェクトであることがすぐに思い浮かべることができます。単純にアポをとって、当日までの資料づくりだとか、場所の設営などの運営をして終わりというわけにはいかないのですね。

☆思想分野、医学分野、最先端技術分野、経済分野、法学分野、芸術分野などなどあらゆる領域に対する見識を広め深める先生方の膨大な探究と生徒の興味とマッチングを図るマーケティングの作業が大前提にあるわけです。

☆大学進学指導だけしているのなら、こんな時間と労力をかける必要はないのですが、なぜこんなことをするのでしょうか。これだけ大学進学実績を出していれば、それだけで生徒も集まってくるのですから、経営的にも何の問題もないはずです。にもかかわらず!

☆伊奈校長は巻頭言でこう語っています。

これから挑もうとする『知の冒険』に潜む胸躍らせる希望の存在と、その旅立ちのための中学高等学校での学びの意味を生徒たちに明示・・・

☆美しいフレーズですね。大学進学実績を上げるための進学重点指導をはるかに超える高邁な精神。これが教育そのものです。桐光の先生方は、ビジネスでもボランティアでも起業でもない、教育そのものに奉仕しているのです。生徒が日々大きく変化し、羽ばたいていける理由がここにあるのです。

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学び野[34]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか⑥

☆松田先生の授業の大きなねらいは、生徒の居場所づくりです。ジグソー法によるプログラムは、互いの脳内の思いや考えていることを音声というテキストに表現し合います。こうなってくると実はここでポイントになるのは生徒の読解リテラシーです。

☆読解リテラシーと居場所づくりがどう関係するのか?それは大ありであり、このことについて気づかないと生徒の居場所づくりは不発に終わるのです。「居場所づくり」とは松田先生以外にもよく使われるキーワードですが、言語構造の差異があり過ぎます。

☆物理的な落ち着く場所という意味でも使うでしょうが、松田先生はそれだけを意味しているのではありません。良好な人間関係作りを意味する場合もあるでしょうが、松田先生はそれだけを意味しているわけではありません。茂木健一郎さんなら脳がいろいろ考えて集中している状態を居場所ができている状態というでしょうか。松田先生はもちろんそれも意味していますが、それだけではありません。

☆何を言っているのかと思われるでしょうが、松田先生の考える「居場所づくり」を了解するには、実は国際教育研究家の岡部憲治さんのPISAの読解リテラシーの考え方が補助線となります。ちょうど岡部さんが松田先生のジグソー法(The読解リテラシーで行った分だけの分析ですが)を読解リテラシーの思考のレベルに合わせて批評しています。詳しくはそちらをご覧ください。

☆ご覧頂いたという前提で、話を進めていきますね。さて、松田先生のジグソー法ですが、岡部さんも分析しているように、レベル6まで考えるプログラムとして成立するのですね。今回はある種デモンストレーションですからプログラムとしてはレベル4の論理的思考までが想定されていますが、チームによってはそれを飛び越えレベル6まで到達しているところもあったでしょう。

☆私の属していたチームは、おそらくレベル6まで到達しましたね(自画自賛 ^^;)。興味のある社会的事件としては、アメリカのサブプライムローン問題の背景に見え隠れするアメリカの世界戦略、ミャンマーのサイクロンとそれに対する政府の人権を無視するような対応、中国四川省の大地震から見える政治経済問題、佐世保以来の少年少女の事件といったものを互いに確認し、問題の共通点と違いの整理や分類を行いました。しかし、最終的には一見結びつかないこれらの問題の背景にディスコミュニケーションや情報の格差、貧富の格差、強者弱者格差などの問題が権力問題につながっているという議論になりました。

☆論理的に話すだけではなく、批判的視点が加わっているし、横断的複眼的な視点は創造的な思考を生み出しています。レベル6に到達しているわけです。

☆それはともかく、この議論の最中に、生徒たちがそれぞれキャラを出しはじめます。まとめ役だとか記録するが役割だとか批判する役割だとか・・・。これははじめは表面的なのですが、だんだんと思考のレベルを促進させる役割なのか、阻害する役割なのか、停滞させる役割なのか、内的なキャラが浮き彫りになってきます。

☆この内的なキャラはさらに、結局倫理観や価値観や感じ方に結びついていきます。つまりキャラクターですね。同じレベル4や5、6でもこのキャラクターによって中身は大きく違ってきます。キャラクターが空集合の場合、キャラは上滑りをし浮遊感と空虚感で充満します。

☆逆もあります。キャラの言動が、キャラクターを生み出していくというケースですね。ここらへんはあまりに多様な動きでとらえにくいのですが、ここをとらえようとして松田先生が対話を仕掛けるのですね。このとき居場所が広がります。キャラとキャラクターが離れたり結びついたりしながら、他の参加者のキャラとキャラクターの相関とさらに結びついたとき、思考のレベルの上昇と人間関係のつながりが広がるのです。その瞬間が「居場所」です。この瞬間の連続性こそが「居場所づくり」なのではないでしょうか。

☆逆に言えば、思考のレベルをここまででよいと限定したり、人間関係を役割分担的に限定したりすると、そこには居場所への抑圧が生まれます。エディプス・コンプレックスというのもその一つの形態ですね。「居場所づくり」はこのような得体の知れない抑圧を見える化し、それに対応する内的な知性の塊そのものです。この対応の仕方にしてもキャラクターは違います。回避したり、迂回したり、粉砕したり、乗り超えたり、握手したり・・・といろいろです。

☆ただし、明大明治のような私学では、教育理念が共有されているので、キャラクターは明大明治のアイデンティティとして、生徒たちは受け入れられるのですね。だからキャラとキャラクターの関係は、もしかしたら教育困難校とか進路多様校と、これまた抑圧的に呼ばれてしまっている学校に通っている生徒よりとらえやすいかもしれません。ジグソー法は、その生徒がとりまく環境まで明らかにしてしまう可能性があります。

☆今回参加したメンバーのほとんどが教師でしたから、ゆるやかな理念共同体としてキャラクターがはじめから共通していた可能性があります。それゆえスーッとプログラムにはいれたのかも知れません。

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不安を生みだす抑圧系[07]2008年大学入試 工学部復調?

☆日経(2008年5月12日)によると、今年の大学入試の国公立大学前期日程学部系統別志願状況において、工学部は昨対比3.8%増(河合塾調べ)だそうです。そして、法・政治(3.3%増)、経済・経営・商(2.1%増)と続くそうです。

☆医・歯・薬系では歯学不振が際立ち、私立大学では、食物・栄養、児童、社会福祉、歯など資格に直結する分野が振るわなかったようです。

☆隔年現象とか少子化の影響とかあるのでしょうが、21世紀型産業や社会を切り拓ける学部に人気が集まったと予想することもできるのではないでしょうか。

☆資格や技術は、サバイバル・スキルとして重要なのですが、安定した組織の存続が前提です。その組織の中で通用する資格や技術の獲得は、その中で有利に競争を展開できるわけです。

☆しかし、新しい組織がどんどん生まれるような21世紀の社会では、自分の技術を生かす起業をした方が、利益も生むしやりがいもあります。よく言うハイリスク・ハイリターンですが、この傾向は、日本社会でもこれからますます強まるでしょう。

☆今のところは、3%から4%ぐらいの増では、実感は持てませんが、企業の中でいじめの相談件数が増えたり、鬱になる会社員が増えているというような話は、従来型の組織の圧力にそろそろがまんができなくなっている兆しだと考えることもできます。

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不安を生みだす抑圧系[06]労働相談件数増加②

07 ☆厚労省の「平成19年度個別労働紛争解決制度施行状況 」には、民事上の個別労働紛争に係る相談内容の内訳も分析されています。解雇に関するものが最も多く22.8%、いじめ・嫌がらせに関するもの、労働条件の引下げに関するものが12.5%と続いています。

☆解雇に関する事例としては、同調査によると、

会社から「営業成績が悪い」として解雇されたが、会社の解雇回避の努力もなく、雇用契約期間の途中に解雇されたことに納得できないとして、解雇の撤回又は精神的苦痛及び経済的損害に対する補償を求めたもの。

☆同様に、いじめに関する事例としては、

顧客からクレームがあった際、上司から人格的価値、社会的評価・名誉を害する発言を受け、会社に職場環境の改善を求めたが聞き入れてもらえず、逆に会社からも言葉の暴力等により精神的に追いつめられ、退職を余儀なくされたとして、精神的苦痛及び経済的損害に対する補償を求めたもの。

☆労働条件の引下げに関する事例としては、

突然会社から1か月の勤務時間数が削減される勤務シフトを提示され、それに納得できないことから、労働条件変更の撤回を求めたもの。

☆これだけの事例では、実際のところはわからないですが、一方的な抑圧的なコミュニケーションが行われていることが共通しているということになりますね。

☆大事なことは、このような紛争が起きている会社では、雇用者側や上司はコミュニケーションがとられていないとは思っていないことです。おそらく報・連・相などは徹底しているケースがほとんどではないでしょうか。

☆そのコミュニケーション自身が、抑圧的な言動になっていることに気づくことはないのでしょうか。本当は気づいているのだけれど、形式的コミュニケーションをとって、職場の活性化を行っているということにしているだけなのでしょうか。

☆いずれにしても抑圧の原因は、コミュニケーションの質の問題で、この質が改善されないのに、よく話し合うようにという助言指導があったとしても、何も変わらないのです。創造的なコミュニケーション、双方向的なコミュニケーション、寛容なコミュニケーションのバランスがよい組織づくりが、抑圧的なコミュニケーションを解体します。

☆そのためには、知恵と見識と思いやりが必要だし、そういう知性があれば、保守主義、偏向主義、リスクの隠ぺい、無気力を打ち破ることができるはずです。

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学び野[33]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか⑤

☆松田先生の授業の核心になかなかせまれないで、ぐるぐる周縁を歩いているような感じで気づいたことを書いているのですが、今回は少し核心に向かえそうな気がします。

☆松田先生の議論や編集やプレゼンをジグソー法のプログラムで進める手法や徹底的に生徒たちが書いた興味と関心事を整理分類していく手法、そして生徒たちが書いたものすべてにコメントを返していく手法のゴールはなんなのでしょうか。

☆座学や講義形式の授業では絶対にできないコトがゴールなのは、およそ予想がつくと思います。いったいそれは何なのか。1人ひとりの個性と才能を共有するコトだと思います。

☆それは、別に松田先生の授業でなくても了解することは可能なのではないかと言われるかもしれません。対話型の授業、プレゼン、振り返り、コメントのすべての要素が入っている場合はそれは可能です。

☆しかし、講義型の授業では、それは難しいのではないでしょうか。担任の先生は、分かっていると思うでしょうが、松田先生のような授業を通してでなければ、意外にも決定的なことを見逃してしまう場合もあるのです。

☆一般には、学力情報と性格や態度を教師は了解するのですが、性格や態度についてレッテル貼りになる場合が多いし、教科の専門性において優れていればいるほど、レッテル貼りをしていることに気づかないケースが多いのですね。しかし、教師間のコミュニケーションが豊かな学校では、これによって偏った生徒の見方をいつの間にか補正しているので救われているのですが・・・。

☆この補正とはどういうことかというと、最近の言葉で言えば、キャラとキャラクターのGAPがわかるということなのです。このGAPに気づかないと、態度だけ見て、あるいは言動だけ見て、1人ひとりの生徒の個性や才能を想定します。経験からいって当たる場合も多いのでしょうが、外した場合、教師と生徒は互いに信頼しているがゆえに、お互いに気づかないうちに鬱屈した雰囲気になります。先生は君を信じているぞ。先生のことを尊敬しています。なのになぜ何かが違うんだろう。でも互いに信頼し合っているわけだしとなるのですね。

☆パワハラ発言や言葉の暴力など、それはもはや論外で、実は互いに信じ合っているのに、うまくいかないということこそ隠れたリスクなのです。この隠れたリスクが、松田先生の授業で見えてくるわけです。

☆生徒にとって、居場所づくりとは、まさにこの自分のキャラと自分のキャラクターのせめぎあいのなかでやっとのことで生まれるバランスの境地なんですね。自分のキャラクターを前面に押し出せば、他者との関係はあまりに重たくなりますが、キャラクターを隠して、キャラだけで人間関係を造っていくと、自分らしさを本音の部分で出せないわけですから、それはそれで重苦しくなるんですね。自分の中でのバランスと相手とのバランスをとれるようになるためには、自分のキャラとキャラクター、他者のキャラとキャラクターの四肢的なGAPを振り返る仕掛けが肝要なのです。

☆古典的な手法ではジョハリの窓というのがあるのですが、これだけではキャラとキャラクターの差異が見えてこないのですね。

☆というのも、ジョハリの窓が基礎としてきた考え方は、従来のアイデンティティのシェアとかいう話だったと思います。あるいは「エス―エゴ―スーパーエゴ」という構造で語られてきたことかもしれません。しかし、それではかなり抑圧的なんですね。生徒は個性といわれながら、1つの価値観や感じ方、道徳を共有する一元的な同心円の社会構成の中に位置付けられてしまってきたのです。

☆ところが21世紀の社会構成は多元的です。同心円に位置付けるというか鋳型にはめこむことはできなくなっているのです。ここらへんのことをもう少し考えてみましょう。多元的といっても小さな同心円がたくさんできているだけだとしたら、それは悲劇ですから。

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不安を生みだす抑圧系[05]労働相談件数増加①

☆ 「<職場いじめ>昨年度27%増…相談6千件 厚労省まとめ 5月24日11時35分配信 毎日新聞」によると、

厚生労働省は、07年度の総合労働相談の結果を公表した。職場でのいじめに関する相談が前年度に比べて約6000件(27%)も増えたのが特徴だ。労組や弁護士グループの労働相談でもいじめ相談はここ数年増加しており、職場でのいじめが深く広がっていることをうかがわせた。総合労働相談は全国の労働局が約300カ所で実施。相談件数99万5061件(前年度比5.2%増)のうち、労働条件の引き下げなど個別の労働紛争に関する相談は約20万件(同5.5%増)に上った。

07 ☆この記事の情報ソースは、厚労省の「平成19年度個別労働紛争解決制度施行状況 」によっていますが、そこに載っている相談件数の増加のグラフを見ると、ゾーッとします。それはこんなに増えているのかというより、今まで相談という形をとらずに、どれほど泣き寝入りしてきた数が多かったかということを想像してしまうからです。

☆これは教育という職場でも同構造なのでしょうね。教職員の中の人間関係の悪い学校に子どもが通うと、それはあまりに不幸ですね。教職員間で抑圧的な雰囲気があると、それは生徒たちにも影響を及ぼすからです。

☆これは家庭でも、企業でも、官庁でもどこでもそうです。かつてある公立中高一貫校の校長がパワハラの言動をとっている姿をみました。私立中高一貫校のある教員が業者に対して非人間扱いしている現場にも遭遇しました。人間は互いに狼であるとは誰が言った言葉だったでしょうか。まったく悲しい現実です。

☆子どもたちをオオカミの餌食にされてはたまったものではありません。人間は互いに狼でないように信頼関係を結ばなくてはなりませんね。あれっ!これって社会契約論ではないですか。もっともルソーではなく、ホッブス的ですが。

☆なるほどロールズの公正的正義論は有効ですね。この契約は、しかしコントラクトなのでしょうか、コベナントなのでしょうか。1つの言葉は言語的差異の構造でできあがっています。コミュニケーションの重要性は、この差異の構造を常に再構成しながら議論することです。

☆これができないのは日本の教育に問題があるのですが、そのことにすでに気づいていた私学人は福沢諭吉ですね。「文明論之概略」は、議論ができない日本人よなんとかせいというところから始まります。

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学び野[32]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか④

☆松田先生の授業について、このブログに書きこもうと思った矢先、それまで聴いていたモーツアルトのアダージョ(オーボエなどの曲)のCDを、ブルックナーの交響曲七番のCDに取り替えました。同じアダージョでも重層の響をイメージしながらではないと松田先生の授業は語れないなぁと気づいたからです。

☆授業のテンポとか旋律のイメージは、教師によって違うでしょうが、松田先生の場合はブルックナーの7番かなあと。私が研修でジグゾー法をやるときはモーツアルトの38番か魔笛をイメージしながらやります。ぐるぐるメッソドを使うときはマーラーのシンフォニー5番のアダージョかな。

☆国際教育研究家の岡部憲治さんの授業からは、リヒャルト・シュトラウスのヒーロー。京北学園の校長川合先生の授業からは、ジョン・レノンのイマジン。開成の橋本先生の授業からは、グレン・グールドのバッハの演奏。麻布の校長氷上先生(授業は直接みていないけれど、語り口調や文章を手がかりに)からは、ベートベンのシンフォニー7番のイメージを喚起します。これらはまったくの独断と偏見ですが^^);

08 ☆さて、松田先生の授業についてですが、なぜターニングポイントかということでしたね。日能研編集の「2008年首都圏入試白書」によると、今春の首都圏の中学受験の受験率(受験者÷小学校卒業生)は、20.6%です。なんて感慨深いのでしょう。98年、99年は、それまで右肩上がりで、93年から受験率13%を超えてきていたのに、13%を切る時代を迎えてしまったんですね。

☆そのとき私学の先生方が、いろいろなところで宿泊までして勉強会をして、もう一度13%を超えようと知恵を絞り、多様な自己表現を開始したんです。岡部さんとこのThe授業リンクの事務局をやっているNTS教育研究所の石井さん、今はリクルートのキャリアガイダンス編集で活躍している江森さんといっしょに、セミナーをかなりの回数企画し開催しました。

☆私たちのセミナーや勉強会は、大学の先生や企業人に基調講演を頼むものではなく、私学の先生方に基調講演を頼むものでした。ですから、ビジョンや戦略的な話だけではなく、最前線で役立つ戦術論の話にもなりました。そういうセミナーや勉強会を通して、出会った先生方ともっと本質的な私学の魂を表現しなければという共通意識が芽生えてきました。それがThe授業リンクの前身のCALだったのですね。

☆当時受験率13%にこだわったのは、この地点に到達すると口コミが爆発的に広がる可能性が高いと言われていたからなのです。せっかく13%に到達したのに、それが右肩下がりになりはじめた。放っておくと私学のマーケットが冷え込むという危機感を先生方は持っていたのですね。

☆だから、従来のように宣伝のためのパンフレットを作り、それを読んでいるような学校説明会だけではチェンジできないだろうということになったのです。チェンジはまず方法論や学校同士のネットワーク作りからはじまりました。自分の学校だけでがんばっても、そもそも市場そのものが冷え込んだのではどうしようもない。マーケットの質と量を拡大しようと。

☆そこで合同説明会が花開き、ちょうどホームページという新しいメディアも現れたので、表現のイノベーションも各校がどんどん行っていきました。しかし、量の追求は、学校の場合は限界があります。内発的な成長路線に切り替えるにはどうするか、それが問題だということになりました。

☆それには本質の表現以外にあり得ない。私学の本質を表現する最高のリソースは何か。授業以外にあり得ないではないかというのがCALの出発点でだったのです。当時は誤解も多く、授業を販売促進の材料にするのかという意見も多々ありました。

☆そうではなく質の表現の重要性だったのです。当時の学校選択の指標は、大学進学実績と偏差値という量によるものだったんですね。マスコミもその指標を前面にだしていました。これでは、明治以来、官僚近代に対峙し続けてきたもう一つの近代の理想郷であった私学の精神が、崩れてしまうという危機感が本音の部分であったのです。

☆私学の先生方の努力と国の教育行政の失敗があいまって、受験率はすぐに13%を超えました。同時にマスコミも、まだまだとはいえ、学校選択の指標を量から質にシフトしてきました。「授業」で学校を選ぶという視点で取材をし続ける教育ジャーナリスト鈴木隆祐さんの登場はその象徴です。

☆そして受験率20%を超えました。CALもThe授業リンクとしてステージをチェンジしました。なぜか。20%:80%の論理展開ができるようになったからです(東京都の私学に限れば、2001年以降20%を超えています)。これはやっと私学の教育力が世の中に大きな影響を与えるターニングポイントを迎えたことを意味します。

☆明治以降の日本の教育は、官僚近代教育です。そこで細々と私学は本質的近代の追究を継承してきました。しかし、やっとその流れが大きくなったことを意味します。しかし、そのときに、私学が大学進学実績をアップするための授業をやっているというイメージをもしもマスコミによって表現されたり、私学自ら意図に反してそのような表現をしてしまったら、その影響力を本質的近代の追究に活用できず、振り返れば官僚近代教育を後押ししていたなんてことになりかねません。

☆私学が公立学校よりよいということを言いたいのではないのです。官僚近代教育の閉塞と抑圧に苦しむ子供たちの環境を変えるためのトリガーが、歴史的社会構成上、私学なんだと言いたいだけなのです。しかし、私学が一致団結して、リフォメーションを起こすことは考えられません。あくまで教育ですから、見識と知恵と教養で世界を変えるしかないのです。

☆見識と知恵と教養は授業で生まれます。それぞれの私学が、そして公立が、教育の最前線で、大学受験のための知識や学習指導要領で配列された断片的知識を獲得するための授業を廃し、本質的授業を展開すれば、おのずから世界が変わる20%:80%の論理が展開するときがやってきたのです。

☆松田先生は授業を通して、私学公立問わず共鳴共振の響を伝えているのです。ブルックナーの7番の響にのせて。松田先生は、あのダニエル・ゴールマンも推奨する“RESONANT LEADERSHIP”の持ち主なのですね。<いま・ここで>の世界のターニングポイントは、軍事力や経済力によるものではないのです。知の響を共振し合うことで変わるのです。

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学び野[31]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか③

☆松田先生の授業について、今回は少し違う側面から考えてみたいと思います。限られた授業の中にジグゾー法という対話型(今回のプログラムにはディスカッションまではなかったですが、それも当然活用されます)のプログラムを入れると、通常の講義型の授業にはないロールプレイをする目が必要になります。

☆それは、松田先生がスーパーバイザーだとすると、ほかにアドバイザーが必要になります。各チームで対話が生まれているわけですが、同じレベル、同じ速度、同じ質疑の内容が行われているわけではありません。

☆スーパーバイザーだけでは、チームの状態の違いを把握しにくいので、アドバイザーがチーム活動の時間管理をしたり、様子をスーパーバイザーに連絡するシステムが必要になります。

☆そして、もう一つのアドバイザーが大きなポイントですが、それは授業の参加メンバーには見えない隠れた存在です。松田先生の授業は限られた時間で変幻自在に展開しますから、一冊のテキストを渡して、それで授業すること自体、展開を停滞させます。事前に準備万端整えたプリント類がものをいうわけです。しかし、それは膨大にあるし、使う予定のものが使われなかったり、使う予定にはいってなかったものを使うことになったりするのです。

☆このプロデューサーのロールプレイをするアドバイザーがいなければ、一般にはこのような授業はうまく実行できません。このバックヤードの存在こそ、20%:80%の論理なのです。要するに20%は「出来るヤツ」です。80%はそのマネジメントに従って、与えられた役割をこなせばよいわけですが、20%の「出来るヤツ」は、あらゆる事態を想定し、臨機応変に対応できる戦略的リーダーでなければなりません。

☆松田先生が、ご自分の学校で授業をやるときは、おそらくこの3者のロールプレイを、自分1人でやってのけるのでしょう。だから、他の先生が真似しにくいわけです。また、松田先生も精魂尽きるまで授業にかかわるということになります。

☆公立学校で、本物の総合学習ができにくかったのは、教師1人の能力によるということもあるのですが、体制の問題も大きかったのですね。フィンランドでこのような授業ができるのは、やはり少人数授業ができるということにポイントがあるのかもしれません。

☆ともあれ、今回はそのプロデューサー的ロールプレーをなんなく遂行できた、つまり松田先生と阿吽の呼吸で動けた「出来るヤツ」が、開催校中村中学校にいらしたのですね。それはS先生なんです。劇場にたとえて言うと、中村中の授業やイベント、今回のような催しものは、舞台です。その舞台で俳優たちが見事に演じきれるには、音響やライト、メイク、衣装、小道具、集客、広報などなどトータルプロデュースが「出来るヤツ」が必要です。この「出来るヤツ」こそS先生です。中村中がパワフルなのは、S先生のような教員がたくさんいるということでもありますね。

関連記事)→The 授業リンク -松田先生の授業④-(岡部憲治さんのサイト)

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学び野[30]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか②

☆岡部憲治さんのサイトでも「The 授業リンク 開催 -松田先生の授業- ①」が書きこまれ始めました。岡部さんはご自分の留学経験から松田先生の授業はアメリカのESLの授業に似ていると指摘しています。

☆手法が似ているということも語っているのでしょうが、大事なことはコミュニケーションの前提ということです。

☆松田先生もプログラムの中で、「チームに分かれてそれぞれ話し合うといっても、今日は先生方だからわりとスムーズに語れるわけですが、生徒の場合は、話さない子もでてきます。この生徒がやらされていると思わないようにするのがプログラムの妙技ですね」というようなことを語りましたが、岡部さんはそこに共鳴してブログに書きこんでいるのだと思います。

*松田先生の今回のテーマが「居場所づくり授業への試み -リード・ランからドッグ・ランへの試み- 」と設定されているのには、こういう背景があったのでしょう。

☆コミュニケーションの前提は話したいという欲求があることです。この欲求を生みだす仕掛けをESLの授業ではあの手この手を尽してプログラム化されている。その点が松田先生の授業と共通しているのだということでしょう。

☆自分の関心領域を相手に語ってみるという最初のプログラムもその仕掛けですね。生徒は与えられた課題については操作性を感じた場合、思考はなぜか停まるものです。自分の関心領域については内側からこみあげてくるのですね。

☆しかしそれでもお互い話さなくても以心伝心という状況の場合、口数は少なくなると岡部さんは指摘するわけです。たしかにESLの授業に参加するメンバーは国も文化も違う場合が多いですから、表現しなければ互いを理解することはできないわけです。

☆一期一会です。お互いを理解しようという欲求こそコミュニケーションの大前提ですね。ところが日本ではお互いのことはわかっていると共同幻想があり、それゆえその大前提がないというわけでしょう。そしてなおかつ日本は世界に比べれば相対的に平和です。問題意識は身近なリアルな空間では生まれにくい。

☆隠れたリスクをあえて掘り起こすプログラムが松田先生の授業ということになります。しかもその問題は、保守主義と偏向主義によって、深い地層に埋め込められています。そりゃあ、生徒たちが社会問題に対し無気力になるのも当然というか必然です。今の生徒や若者がたまたま無気力で、互いに傷つけあうことを避ける傾向になっているのではないのです。彼らの生活時間の大半を占める授業の影響力は意外とすごい。そういう話題はあまりでてきませんね。授業は学力低下を回復する装置という側面ばかりがとりあげられていますから・・・。

☆つまり、通常の座学の教科授業の本当の問題点は、生徒たちの問題意識が大学入試にしかないようなプログラムになりがちだということです。いや時事問題をやりますといわれるかもしれません。しかしそれは実際に解決するまでの問題意識を問いません。事実の確認と評論をやって終わりです。なぜ今授業なのか、The授業リンクなのか。学力低下を回復するための授業なんかが目的ではないのですよ。

☆ともあれ当面の目の前の問題は大学入試です。地層深く埋め込まれたリスクについてのセンサーはどんどん鈍感になります。それでは困るのだというのが松田先生の授業だし、岡部さんの指摘するESLのプログラムでしょう。

☆時代を変えるリーダーは、この隠れたリスクに対するセンサーとマネジメントの力が強いのですが、もしかしたら今の日本の授業は、リスクを隠して自分の利益だけを調整するリーダーを育成してしまっているかもしれません。実存的リーダーか損得勘定に長けたリーダーか、松田先生は生徒とともにいつもそこを考えているのです。

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学び野[29]なぜ松田先生の授業がターニングポイントなのか①

☆前回の「学び野[28]究極の授業の勉強会 第1回The授業リンク開催」で明大明治の松田孝志先生の授業の重要性について気づいたことを語りましたが、うまく書けませんでした。それでいつものようにつれづれなるままに書いていきながら、着地点を見出せたならと思います。

☆とにかく松田先生の授業は、現代の日本の隠れモダニズムであるポストモダ二ズム・マーケットを変えるヒントがあるという直感を抱いているわけで、そのへんをウダウダ考えてみましょう。

☆ハーバード大学の教授ダニエル・ゴールマンは、EQ(心の知性)で世に知られている脳科学と行動科学をベースにした心理学者です。ゴールマンはジグゾー法を、他者を、彼らというモノから私たちという関係にシフトする手法の一つであると最近の著書「SQ(社会的知性)」で語っています。

☆松田先生の授業の手法の一つに、やはりこのジグゾー法を発展させたメソッドが開発されています。この手法はともすれば知識伝達の有効性や新しい発想に気づく方法として有効などという狭い評価になりがちなのですが、生徒一人ひとりの違いを見える化する方法だということが、ゴールマンのスコープをあてれば見えてきます。

☆さてなにゆえに生徒一人ひとりの違いを見える化することが必要なのでしょう。プレゼンテーションをする自己のアイデンティティの確立のため・・・などというキッズ・マーケットやキャリア・マーケット的発想ではありません。

☆しかし教育のマーケットの問題点は、あきらかに「キャラ立ちブランド形成」の必要性を販売促進しています。簡単に言えば「レッテル貼り」こそブランドだなんて言っているわけで、何か違うんじゃないか、けれども、そういう商売が着実に私立学校に忍び寄っている。松田先生の授業はそういう隠れモダニズム的ポストモダニズム(東浩紀さんたちのポストモダンとは似て非なるものです)の侵食を防ぐ授業になっている。そういう点でまずはターニングポイントなのではと、The授業リンクの勉強会に参加して感じました。

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学び野[28]究極の授業の勉強会 第1回The授業リンク開催

☆昨日(2008年5月19日)、中村中学校で、究極の授業を求めて、教師や教育関係者が50人以上集まりました。講師は明大明治の松田孝志先生です。それにしても私立学校の不易流行を思い知った勉強会でした。

080519 ☆松田先生の授業それ自体が、官僚近代学校の授業とは全く違う、すなわち規律統治型ではなく、やる気や興味、そして知識を想起させる問答型の授業だったという点がまず一つですね。ソクラテスやトマス・アキナスのような問答形式の授業の組み立てなんですね。

☆古代ギリシアにおいてあるいは中世ヨーロッパにおいて、彼らは権力や人間の世俗知や憶測知に対して挑み、多くの人の世界観を変えたのですが、これがおそらく欧米のリベラルアーツのルーツで、松田先生の授業もそこにつながりますね。このことについては、The授業リンクのメンバーどうしで確認し合うチャンスが必要かもしれません。

080519_2 ☆松田先生の授業は決して独断と偏見ではないのです。ある意味小泉八雲のような位置づけでしょうか。夏目漱石の東大の授業は、もともと小泉八雲がやっていたんです。漱石は小説はおもしろいのですが、授業は講義型で、理屈っぽく、一方的で、当時はつまらないという評判だったようです。それに比べ八雲の授業は対話型でおもしろかったと。上田敏は八雲が東大を去ることになって、非常に落胆したほどであったそうですよ。

☆大江健三郎さんは小泉凡さんに「世の中はやっと八雲のものの見方や価値観に追い付いてきたと思います。八雲の研究はこれからです」とエールを送ったということらしいのですが、まさに松田先生の授業に、世の中が追い付いてきたのではないでしょうか。

☆それからたいへんわかりやすい形で不易流行を実感したのは、共立女子の渡辺教頭先生が、実は中村中学校の小林理事長・校長先生とは同窓でかつ同じ専門だったという話や、私は松田先生の教え子で、今ある私学の社会科の教員をやっていますとか、私はこの会の会員のS先生の教え子ですよというような話を一遍にお聞きしたことです。

080519_3 ☆松田先生の授業の批評・分析は、この勉強会に参加していた国際教育研究家の岡部憲治さんがいずれ自らのブログで発表するということなので、私は気づいたことを1つ述べておきましょう。

☆世の中がやっと追い付いてきたのですが、松田先生はまた大きな一歩先に進んでいるのに驚いたのです。その大きな一歩とは、授業の展開やそのノウハウのことではないのです。それは生徒一人ひとりの分析をきっちりしているということです。

☆これは生徒の評価のことではないんですね。1人ひとりの生徒の価値観や認識方法、感じ方を分析できているということです。

☆なになにそんなの当たり前ではないかと反論する方もいるでしょうね。しかし、1人ひとり違ってよいのだから、その違いは気にしないというのが、実は学校現場です。習熟度クラス分けは、1人ひとりの違いに注目しているわけではなく、あくまでグルーピングです。偏差値なんてと言っていながら、わける発想や理屈は同じことです。

☆結局スコアの背後にある1人ひとりの違いを分析できていないのです。そんなことはない1人ひとりの特徴を私はこんなに詳細に了解していると反論されるでしょうが、その了解したことを見える化しているかというとそうではないのですね。それでは分析したことにはならないのです。了解と分析の紙一重の差異。しかしこれが大きな一歩の差異になるのです。ところがしかし、この松田先生の分析手法をただ真似をしてもだめなのです。それは今度は了解にかなわないんですね。

☆松田先生の分析は問答法が前提なんですね。ダイアローグあっての分析ですから、それは統合でもあるんです。地と図の反転の繰り返しがあって分析は生きるのです。松田先生の授業が終わったあとに質問が幾つかでていましたが、噛み合わなかったかもしれません。ものの見事にカント的な質問とソクラテス―ヘーゲル的な応答のすれ違い。

☆The授業リンクの前身のCAL時代の会員は、≪私学の系譜≫のメンバーだけだったのが、新しい授業の勉強会は、より広く会員が集まっています。価値観の多様性がこの勉強会で浮き彫りになったわけです。改めて貴重な機会だと感銘を受けました。

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世界を変える学校[20]麻布の知①

☆ 「麻布の丘に(2007年10月20日発行)」の巻頭ページで、氷上校長は「教育とは何か」という論考を載せています。内村鑑三の教育論、江原素六の教育論、氷上先生ご自身の麻布時代の経験論という3つのエピソードを示して、いずれにも共通している点を抽出されています。

☆その共通点について、氷上校長はこう語っています。

教育とは何かという問いは、すなわち、人間とは何かという問いとほとんど同義である。人間理解が教育問題のすべてだ、といってよいのである。世の中の流れがどうあれ、自由をその校風とする麻布学園の教育は、人間にとって、個性とか主体性がいかに大切なものか、共に感じ、共に考え合う教育でなければならないと思う。

☆ここには麻布学園の見識があります。教育問題は、すなわち人間問題であり、自由の校風とは麻布独自の文化資本そのものであると同時に、人間を考える人類普遍のリソースでもあるのです。

☆しかしながら、市民社会としての人間の質の競争ではなく、資本主義的量の競争を教育に導入したり、教育の評価を外部評価という外発的圧力でなんとかしようという文科省の対処療法的な「改革」議論が騒然としているわけです。もはや教育の商品化とは関係のない教育の本質には興味がないという様相です。教育行政側に教育の本位に耳を傾ける人材はいないかのようです。

☆そこで「世の中の流れがどうあれ」麻布学園は「教育の真諦」を保守しつづけようと不易流行の覚悟を示しているのではないでしょうか。

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世界を変える学校[19] 開成の知②

世界を変える学校[16] 開成の知①のつづきです。生田先生は、授業構造の視点とコンテンツの視点の統合性を、お弟子さんたちに求めていると思いますが、具体的に少しみてみましょう。

☆ちょうど大河ドラマで「篤姫」をやっていますから、生田先生が編集された「地理と歴史の授業研究(3) 多様な視点から『授業』を創る」から「公武合体と尊王攘夷運動」という授業企画案と教材プリント案を見てみますね。

☆国内と国外の動き、公家と武家の関係、公武合体と尊王攘夷運動の関係、イギリスとフランスの世界戦略の違いというきれいな比較の視点が、授業の中で立体的に組み立てられています。

☆コンテンツの視点としては、内向きによるリスクの隠ぺいが、外からの圧力に耐えることができないという組織の力学が埋め込まれています。歴史の時間としては、幕末のことなのですが、組織の力学としては歴史から学ぶ点が多いというコンテンツになっているんですね。

☆この授業構造の視点は、生徒には編集の視点の学びになります。また、コンテンツの視点は一般化の発想と論理の学びにつながります。まさに「ゆさぶり」のある授業づくりになっているのです。

☆この教師の授業づくりの視点が、生徒の思考の視点にシフトする方法論は何でしょう。これは教師と生徒との対話以外にないのですね。生田先生がお弟子さんたちといつも対話をされています。それは開成の生徒たちに対しても同じです。

☆開成の知の形成の1つのプロセスが見え隠れするのが、この本の特徴です。ところで、「生田先生→対話①→開成の生徒」、「生田先生→対話①→駒澤大学の学生」まではわかりますが、「駒澤大学の学生→対話②→将来の生徒」との関係はどうでしょう。「対話①」と「対話②」の構造あるいはシステムの質は同じでしょうか。ここはブラックボックスですね。

☆ここが解明されれば、開成の知は広く世の中に浸透するのでしょうが、そうはなかなかうまくいきませんね。そしてだからこそ開成の存在の価値があるのです。

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若者論と私学[01]

☆少子高齢化、政治の不安定の2大問題が、日本の未来の見通しを悪くしていると言われています。しかしながら、一方で大量生産、大量消費、大量移動の資本主義社会を、資金倹約型、労働集約型、職人技術型の労働条件下で行ってきた日本が変容しようとしている大きなきっかけであるという認識の仕方もあります。

☆従来型の日本社会の作り方でいえば、少子高齢化問題は重大なインパクト。そして社会が変容しようとしているのに、それに背を向け旧態依然とした利権政治をやっていれば、それは政治は不安定にならざるを得ないでしょう。

☆ですから、未来の日本を展望しなければならないのだけれど、単純に目の前の現象を否定して未来を描こうとすると、反動的になるだけで、後退すれども前進なしという膠着状況が生まれてしまいます。

☆少子化という時代に乗って、子ども論や若者論の商品化が展開されていますが、商品というのは時代を拓くトリガーになるものもありますが、そうでないものがほとんどですから、巷にあふれている若者論の多くは、若者をターゲットとした新しいトレンドのマーケット創出に一役買うものが多いというのもわかりすぎるぐらいわかります。

☆商品は本質をえぐるものであってはならないのですね。顧客の満足を生み出すものがよいのです。顧客満足を作りだすものは、不安解消ハウツーです。20世紀型日本社会は家族、特に親が生きることへの抑圧に耐えることが半ばルールでしたから、常に不安の雰囲気の中にいるわけです。大家族から核家族への解消と同時に生きることへの抑圧におとされるわけです。自分の力で独立独歩歩まねばならないと。

☆日本の家電もPCも、この1人個人で多くのことができる環境を作っていき、その環境が見事に商品化として成功するんですね。独立独歩、マイウェイは間違いなく近代の光の部分なのですが、どうも様子がおかしい。

☆しかし、そんなことはわからないまま、核家族化した家族には宝物以上に大事な子どもが誕生する。同時に目の前で子どもや若者の了解できない言動現象が生まれている。不安はいっそう募ります。そこをターゲットに若者論を売るわけですね。

☆「抑圧→不安」という環境を設定しておきながら、その解消ハウツーを販売する。これがある意味資本主義の生態系でしょう。しかし、逆にだからこそ、<いま、ここで>の言動現象の分析は大事なわけですね。その分析結果があるからこそ、その結果を生み出している社会分析のヒントが得られるわけです。

☆しかし、言動現象と社会構成の両者がうまくいっていない(後者については社会批判になるので、売れ筋にならない場合が多いんですね)ものが多いんですね。言動現象の分析はすごくおもしろいけれど、社会構成論としては全く言及がないもの。言動現象の分析は紋切型でおもしろくないけれど、社会構成論としては実に鋭いもの。いろいろです。

☆ところで若者論と私立学校がどのように関係するのでしょうか。それは私立学校、特に首都圏の私立中高一貫校をここではさしているのですが、この領域では<いま、ここで>の若者の言動現象が通用しない、あるいは私立学校自身がそのような言動現象とは違う路線を作ろうと四苦八苦しているわけで、多くの若者論が見逃している領域があるということを示す必要がありますね。首都圏の私立中高一貫に通っている生徒数は、同世代人口のうち3%前後です。量的には無視できるかもしれませんが、社会的影響力は大である領域でもあるはずです。

☆日本の未来は、いうまでもなく若者にかかっているわけです。その若者論の光と影の部分を見ておくことは意味のあることだと思っています。そんなわけでいつものようにつれづれなるままに綴っていきたいと思います。

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学び野[27]究極の授業の勉強会始ります。

☆2008年5月19日(月)、中村中学校で、究極の授業の勉強会「The 授業 リンク」の第一回の集まりがあります。参加申込みは締め切られ、参加者は60名弱と聞き及んでいます。私立の先生も公立の先生も参加するようです。またマスコミ関係者、ジャーナリストも多数参加の予定だということです。2001年から私学の先生方が行ってきた勉強会CALの発展形です。一方、世の中は、やっと脱ゆとり路線で変わろうとしています。あるいは全国学力テストの結果分析で、教育における何かを変えようという動きが今というより今ごろ始まっています。

☆そして、何を変えたらよいのかというと、結局言葉力やコミュニケーションであり、その総合的な活用の場である授業であるということのようですね。そういう意味では現行の学習指導要領の開始時点で、私学の先生方は、すでに、本質的な授業の在り方を確立し、世に問わなければという危機感と使命感を持っていたことになります。

☆今回CALからThe授業リンクにシフトするのは、現行学習指導要領の総合学習がたんなる体験学習で、見識、知の塊、人間形成といった本質的な部分を忘却する可能性があるという危機意識が、新学習指導要領では和らぐどころか、さらに深刻になるという反動的な教育行政の在り方にますます危うさを感じたからでしょう。

☆いずれThe授業リンクのサイトが立ち上げると思いますから、詳しくはそちらをご覧いただければよいのですが、この会の発起人である、京北学園の川合校長、共立女子の渡辺教頭、中村中の小林理事長・校長の立ち上げアピール文を紹介しましょう。

〔The授業リンク〕の発足に寄せて ~もっと授業を~

【いまこそ授業の充実を】

 《The授業リンク》という研究会が発足します。それは、学校で子どもたちを生き生きさせ、学習の効果をあげるのは「授業力」であるという視点からの発信です。その前身の「21世紀型学習研究会CAL(Center for the Advanced Learning)」は2001年から活動を続けてきました。「子どもたち1人ひとりの才能、創造力を引き出し伸ばしていく仕掛けや仕組みは、学習プログラムにある」という発想で、首都圏の私立の中学校、高等学校の教師仲間たちとそれぞれの「授業」を軸に研究を続けてきました。

【国際社会の中での日本の子どもたちの学力】

 しかし、21世紀の日本の教育はその後、決して良い方向に推移してきたとは言えません。2007年12月4日、日本記者クラブでのOECD事務総長アンヘル・グリア氏のスピーチは、我々が危惧していた教育への不安を明確に指摘していて衝撃的でした。日本の教育で子どもたちは、
  ※ 初めて出会う状況で、知識を応用する必要がある場合、困難に直面する。
  ※ 彼らは将来の労働市場に出たときに必要とされるスキルを身につけていない。
  ※ 文章情報を取得し、処理し、統合し、評価することが、最大の課題。
  ※.科学が自分の人生に機会を与えてくれると考えておらず、自分の将来という観点     から科学を学ぼうとする動機づけが弱い。
  ※ 多くの日本の若者が環境問題について平均よりも高い楽観意識を報告している。
  ※ 科学関連の活動への女子の参加率は特に低い。この点は教育政策上の重大な懸念事項。
であると言うのです。わざわざこんな辛辣なことを言いに日本まで来たのかと驚いてしまいましたが、これはEU社会から日本への温かいメッセージであると受けとめたいと思います。

【教育関係者の使命】

  我々教育に携わる者は、日本の未来を担う子どもたちのために躊躇しているわけにはいかなくなりました。子どもたちを活かす教育を真剣に考え、模索していかなければなりません。その思いに賛同した仲間たちと、この会を発足することになりました。その理念は、
  授業で人間関係・社会関係をつなぐ感性と知性を養い、授業から世界の痛みを感じ、  解決するアイディアが生まれる。この、授業に挑戦する理念共同体(「利益共同体」  と対義。思い・願いに賛同する者が集う意)が“The授業リンク”。教科授業にはとらわれない。
と今現在では考えています。勿論、研修がつづく中でさらに参加者と共により高い理念へと発展させていけることを願っています。

【授業が変われば、日本が変わる】

  具体的には、1人ひとりの生徒が人間や社会と関係を結べる感性と知性を自己陶冶できる居場所づくりをするために、丁寧なコミュニケーションに基づくThe授業に挑戦していく。体験・探求・議論・発表・編集を創意工夫して組み立てることによって、1人ひとりのモチベーション・好奇心が生まれる授業および考える時間・表現する時間を大切にする授業の仕掛けについて、それぞれ違う学校に属しながら情報交換し、必要な時にはコラボレーションして新しい授業のプログラムを作っていきたいと思っています。
 教育に携わる多くの人が、この理念に賛同され参加されることを願っています。

☆第一回目の講師は、明治大学附属明治中学校の松田孝志先生です。タイトルは「居場所づくり授業への挑戦 ―リード・ウォーキングからドッグ・ランへの試みー」です。松田先生からのメッセージもご紹介します。

 
「君が一番手だよ!虎の穴へようこそ!」
[The授業リンク]の最初の研究会発表者に指名されて、武者震いしています。それは、この場を企画した方々の志が高いこと、教育現場の現実に翻弄されながらも将来の日本を見据えて理想の旗を振り続けていることを知っているからです。子どもたちを「育てる」ことにこだわり、自分たちの腕・感覚を磨くだけでなく、後に続く人たちに“ぶつかり稽古”の場を提供して下さっているのです。“人生意気に感ず”私は、諸先輩から受け継いだものに自分の持ち味を加え,それを多くの方々と共有・分かち合いをしたいと思っています。講義形式の授業にアクティブな授業を組み合わせることで、子どもたちが「学ぶことの快感」「自分には持ち味がある」「Only oneの自分であると同時にOne of themの自分である」を実感し,そして「その過程で多くのスキルを身につけてもらいたいのです。今回の<「居場所づくり授業への挑戦」―リード・ウォーキング授業からドッグ・ラン授業へ―>は、関わりの中で知識に習得・事象に理解の次のステップへ誘うジグゾー法によるグループワークを体験していただき、それを活用する試みに挑戦したものです。「とりあえずやってみる!」という気持ちです。さぁ,“ぶつかり稽古”をしましょう!

*松田先生の最近の著書

「心を揺さぶる授業~居場所づくりを支援する」

大阪府の指導主事も自らモデル授業を行っているそうです。The授業リンクの先生方の活動が本質的な授業の広がりに影響を与えるのではとワクワクしています。授業が変われば、世界が変わります。これが本来の教育改革の在り方ですね。改革は常に現場という最前線から生まれます。授業のビッグバンの予感がします。

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不安を生みだす抑圧系[04]大学二極化

☆日経新聞(2008年5月12日)に大学二極化激化の記事が掲載されていました。記事の中に散在していた数字を集めて表にしてみると、たしかにすごいですね。

08 ☆MARCH以上は、少子化にもかかわらずほぼほぼ増えていますが、駿台予備校の設定する最低ランクEの大学の70~80%は実質倍率が2倍に到達しないのです。大学全入時代とは、なるほどこういうことです。

☆しかしながら、Eランクの大学でも20%~30%の学校は志望者がある程度集まっているということでもあります。こちらを注目した方が、抑圧はなくなるし、そうすると大学受験の不安は消えますね。

☆もっともその大学に入って、卒業後の就職はどうなんだろうという、労働環境という圧力がありますから、不安はなくなりませんね。

☆さて、それはどうしたらよいのでしょう。それがEランクの大学の新しい役割チャンスですね。キャリア・サポートをしっかりするプログラムを作ることです。何も企業に就職することだけが選択肢ではないのです。企業か公務員か、資格か、研究かだけしか選択肢がないのなら、この労働環境そのものが抑圧的雰囲気を生み出します。日本の近代社会は、ずっとこういう圧力を国民にかけてきたのです。

☆やはりEランクの大学は、起業の道を学べるプログラムをつくるということです。日本は文化というクリエイティブな仕事をもっともっと起業できるリソースがあるんですね。その象徴が村上隆さんのフィギュア「マイ・ロンサム・カウボーイ」に16億円の価値がついたということです

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世界を変える学校[18] 白梅学園清修の変化③

世界を変える学校[17] 白梅学園清修の変化②のつづきです。白梅学園清修の数学の水脈はたいへん興味深い。授業終了後の特別講義で、その鉱脈の質が少し見えますが、ふだんの授業の前面にでてくるのはこれからでしょう。

☆数学科の戸塚先生の探究は、おそらく日本の数学教育や日本の教育そのものにも影響を与える活動だと思います。特に新学習指導要領の改訂作業が行われている今、注目に値すると思います。

☆99年以降、東大の文系の数学入試問題では、頻繁に確率の分野から出題されるようになっているそうです。もちろん学習指導要領の影響ですが、戸塚先生は、そういう動向を単純に入試傾向としてつかんでいるのではないのですね。学びの方法の変化の予兆としてとらえているのです。

☆つまり、多角的視点で教科横断的に思考する・発想する時代の到来に合わせた学びの方法論が必要だと感じているし、考えているのだと思います。

☆だから今年の東大の確率の問題についてご教示を受けたときに感動しましたね。中学生でも(1)は解けてしまうんですね。確率に「時間の推移」をマインド・マップ的にチャート化するとできてしまうのです。

☆しかし、同時にどこが難しいのかというと、言語化と数値化の相互シフトが難しいのですが、このシフトの時に外延量と内包量の差異について知っておく必要があるのですね。

☆戸塚先生は、「50%の濃度の食塩水100グラムに50%の濃度の食塩水50グラムを加えると濃度と水溶液の重さはどうなるのか」という質問をすればその差異はすぐに理解できるのですけれどねと微笑みます。たしかにそうですね。それにこれは先生がいつも語られる中学入試と中高の数学の大事な接続点でもあります。

☆ともあれ、戸塚先生は、私たちの話している言葉は、外延と内包がねじれているので、誤解も起こるし、解けたときの感動も大きいのですねと。時代はコミュニケーションと言われていますが、実のところコミュニケーションをどのようにとればよいのか、その方法論についてはきちんと研究されていません。その手の本を読んで、わかった気になるのですが、外延の論理だけで語られているので、実際のコミュニケーションでは役に立たないのですね。

☆数学と言語の両方の視点をどのように統合し、新たな知識や発想を生んでいけるか。そんな学びの時代に日本の教育も突入します。ただし、今回の文科省の学習指導要領の改訂はそこまでいきません。10年~20年後の改訂まで待つことになるでしょう。世界標準から遅れをとる可能性があります。白梅清修が生徒の成長を、世界標準のモノサシで見守るのは、生徒の未来のサバイバルのスキルを見定めているからでしょう。

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世界を変える学校[17] 白梅学園清修の変化②

世界を変える学校[15] 白梅学園清修の変化①のつづきです。今清修は早くも継承と変化のバランスはいかにして可能かについて議論・検討が始まっています。

☆電子ボードという優れものの機能をいかに120%活用するかと言っても言いすぎではないでしょう。中1、中2とシラバスやカリキュラムが積み重ねられてきて、ふと振り返ると、どの教科もデジタル教材データベース(DB)が蓄積されています。

☆DBになっているので、教科内の先生方ばかりか、教科外の先生方も参照そして活用できます。しかしながらこれが両刃の剣なのです。

☆既にできあがっているのだから、もはや造る必要がないのですね。そのまま電子ボードで活用すればよいのです。ところが生徒一人ひとりによって理解の次元が違います。ですから、同じものを使うわけにはいかないのです。

☆では、既存のDBをアレンジして活用していけばよいのかというと、それはそれで大いに難しいわけです。生徒の考え方や感じ方を理解するだけではなく、最初に作った先生の考え方や感じ方を理解する作業が出てくるからです。わからないことや意図について質問し議論すれば良いのですが、今度は時間がありません。

☆え~イ、自分で最初から創ってしまえ!っと普通はなるのですね。しかし、そうすると膨大な時間と労力がかかります。何よりせっかくの先生同士の対話を自ら断絶することになります。

☆今までなぜこのようなことが生じなかったのでしょう。それは簡単ですね。生徒の人数がまだ少なかったのですから、同じ先生が教えていればよかったので、いつも教材はほとんど自分でつくたものだったからです。

☆さて、清修はどういう道を歩むのでしょうか。普通どの学校でもそれぞれの先生が独自プリントと称し、自分の授業は自分の作った教材プリントを活用して授業は遂行されます。それはそれでよいのですが、優秀な教師であればあるほど貪欲に他の先生方のノウハウを学び自分のノウハウを磨いていくものです。

☆しかし、そのつど他の先生の授業を見学できるわけではないのですから、どうしても学外の研修会に参加するか、手弁当の勉強会を開催するかぐらいしか切磋琢磨のチャンスはないのです。

☆ところが清修はDBとして共有していますから、ほかの先生方の教材やアレンジの仕方を学ぶことは意外とたやすい環境にあります。

☆おそらく教材研究は時間と量ではなく、質というのが清修の先生方の取り組みになるでしょう。清修の生徒1人ひとりがアハ体験ができ、自ら学ぶ意欲を燃やし、考える喜びに没頭し、自らの進路を開いて結果を出していくことになる授業や教材の一般モデル化を追求するでしょう。

☆そしてもう一方で生徒一人ひとりの理解の違いに補助線を引く教材をアレンジしていくことになるのではないでしょうか。何人かの先生からお話をお聞きしましたが、ベクトルはそっちに向かっているような気がしました。清修の偉業は、他校にない授業と教材、もちろんテストの共有DBができあがることですね。それが出来上がると戸塚先生がいつも語られている教科連動型カリキュラムが完成に向かうわけですね。

☆このDBづくりは、ICTによるわけではないのですが、論文集やレポート集という形にまとめる開成学園の生田清人先生と同じ発想のような気がします。

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世界を変える学校[16] 開成の知①

☆開成学園の生田清人先生は、駒澤大学で社会科教育法を講義されています。多くの学生が生田先生の授業メソッドをプラグマティックかつ論理的に身につけ、教育現場に巣立っていきます。

Photo_2 ☆生田先生は、開成学園でも駒澤大学でも、生徒・学生に自ら思考した産物を論文集・レポート集にまとめます。その数はおそらく膨大でしょう。今回もその一冊、最新のレポート集「地理と歴史の授業研究(3) 多様な視点から『授業』を創る」をいただきました。

☆学生の授業企画案とそれに基づいた教材プリント集で、優秀な制作物を集めています。授業を構造化する視点、生徒が考えていく過程と変化の段階の想定が明確になっています。そしてその授業構造によって支えられるコンテンツが、教科を超えた多様な視点から成り立っています。

☆構造視点とコンテンツ視点のDNAのような結びつきが美しいし、内容も読んでいてワクワクしてきます。こういう授業を受けられたらモチベーションもアップするし、考えることも楽しいだろうなと思います。そこには学びと遊びが高度に結晶した知そのものが存在しています。

☆そしてこのような授業が開成学園でも実際に行われているわけです。生田先生は序でこう語っています。

・・・「多様な視点で『授業』を創る」ことをテーマにするのは、受講生(学生)の教師としての力量形成の支援ということだけでなく、わが国の学校教育がそれぞれの教科・科目の壁で仕切られ、「こどもたちの学び」を統合的・総合的に考えてこなかったことや、どんな学習課題を学習させるかという議論に終始して「こどもたちの読み解き」というレベルにまで深化させて考えてこなかったことに、根本的な問題があるということを具体的な形で伝えたいという思ったからです。

☆今回の本の目次に「ゆさぶりのある授業を『つくる』」という章がありますが、ゆさぶられるのは生徒のみならず教師自身でもあり、文科省自身でもあります。世界を変える授業。これが生田先生の知から生まれ出るし、その知は開成の知を構成する1つの大きな力でもあるでしょう。

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不安を生みだす抑圧系[03]

☆前回紹介した「夫は外で働き、妻は家庭を守るべき」という考え方について反対している女子、男子それぞれの割合に、2006年実施のOECD/PISAの学習背景調査の別のデータを並べてみました。

Photo ☆それは、各国の校長先生に、保護者の子どもに対する学力期待の圧力を感じるかという質問の回答のデータの1つです。スウェーデンでは、ほとんど感じないと回答している校長先生は0%です。逆に言えば、学力期待を圧力だと感じている校長が他の国より多いということですね。

☆これだけ女性のポジションが高い国で学力期待を圧力だと感じている校長が多いというのはどういうことでしょう。ドイツはスウェーデンに比較して、感じない校長が多いわけです。

☆これはどういうことでしょうか。このデータだけではもちろん何とも言えないわけですが、圧力や抑圧に対する繊細さあるいは鈍感さの差異ということでしょう。少ないとはいえ、日本も鈍感な校長もいるということでしょう。

☆ただ、それより大事なことは、日本や韓国の場合は、女性のポジションは低いのですが、これはそのことを自覚しながらもあきらめているということをこのデータは示唆しているのではないでしょうか。圧力を感じることができる校長のほうが多いわけですから、「圧力はある。でもその圧力を受け入れるよりしかたがない」ということでしょう。

☆この圧力を正のエネルギーに転化したいものです。これは、女子校、そして実は男子校の教育の重要な役割です。一方、公立の共学校の場合は、どうしてもこのような日本の社会を受け入れる教育にならざるを得ないかもしれません。というよりこういう女性のポジションを作ってきたというべきでしょうか。私立の共学校は、この点において公立と大きな差異があるはずですが、それをうまく表現できていない可能性があります。公立と私立の違いは、共学校で明確に表現できなければ、大学進学実績以外の指標で、公立と私立の差異の認知を浸透させることが難しいですね。

☆大学進学実績を振り回すこともまた、抑圧的な表現です。私立学校のミッションからいって、このような言動は控えるべきでしょう。教育のプロセスの結果、実績は出るわけですから、そのプロセスを明快に表現したほうがよいのです。学校選択者も抑圧的な選択をするのではなく、教育のプロセスを丁寧に聞く姿勢が、将来の子供たちの成長にとって有益です。

☆どうやら教育の選択にも、意志決定の方法としての見識が必要のようです。

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世界を変える学校[15] 白梅学園清修の変化①

白梅学園清修の新学期が始まって一ヵ月が過ぎました。今年から中学全学年がそろいました。新しい先生方も増えました。校長先生も変わりました。これだけ条件に変化があれば、教育理念に変化はありませんが、クオリティに変化はでてくるはずですね。

Dsc07557 ☆とくに中3は、カリキュラム上の飛躍の時期(序破急の「破」の時期だと思います)です。あらゆる教科の中身が実は高校の内容にシフトし始めます。

☆中3は成長段階で言えば、思春期を通り過ぎようとしているでしょうし、一期生としての誇りはますます大きくなっているはずです。それに加え、学びの方法や思考のレベルが変わるのです。たいへんな時期ですね。

☆学校の成長サイクルから言えば、草創期におけるジャンプの時期を迎えているということでしょう。ここでクオリティをアップすれば飛べるし、そうでなければ失速です。柴田副校長は大胆にして細心の注意を注がねばなりません。

☆入学式以来久々に訪れたのですが、良い意味で緊張感がありましたね。でももちろん副校長室に訪れた数名の生徒さんたちとユーモアは忘れない。笑顔のある明るい学校であることに変わりはありません。

☆しかしながら、次へのステップに飛ぶ前の圧力は感じました。この圧力はしかし外からのものではなく、生徒一人ひとり、教師一人ひとり、保護者一人ひとりが自ら生んでいるものです。

☆この圧力を抑圧に転化させるか飛躍のエネルギーに転化させるかが、今の白梅学園清修の課題だと感じました。私自身のワークの大きなテーマは、学びのプログラム、組織のマネジメント、人材育成、教育市場のマーケティングなのですが、すべての点において、いつも白梅学園清修の先生方にアドバイスを頂いています。

☆そしていつも感じ入るのは、とりあえず私もいろいろな机上の理論を読むのですが、清修の先生方はそんな理論を読まずして、まずは実践して成果を上げているということですね。

☆古典的な戦略ですが、現在もポジショニング戦略というのは有効であることはご承知だと思うのですが、最近その古典が翻訳されています。その中に、「私たちは今、人類史上初の情報社会に生きている。発信される情報もコミュニケーション手段も増える一方だ。しかし、それらはうまく機能していない。問題なのは、コミュニケーションに費やす時間でも量でもない。『どのように』コミュニケーションをとるか、なのである。」(この部分の訳は訳者の相当な力量で翻訳されていますね。コミュニケーション<そのもの>が問題だというのを明らかにする必要があるぐらい重要なんですね)とあります。

☆ともあれ。この部分を読んで、まさに清修は学内にこの情報社会そのものを内包している先進的学校なんだと改めて感じました。おそらくここまで情報社会をICTによって取り入れている学校はほかに例を見ないでしょう。しかし、この点について世の中にまだまだ認識は広まっていませんが、時代を見抜く経営者がいる学校はどんどん清修に見学に来ていますね。この間も、これから行こうと思っているとある有名男子校の先生が語っていました。

☆さて、なぜ他の学校は導入しないのでしょう。それはうまく機能させるのが難しいからです。コミュニケーションの質をどうやって作っていくのか難しいのです。というのも伝統的な学校は、すでにコミュニケーションの型が出来あがっていて質を変化させるコト自体難しいのです。

☆白梅学園清修はその点新しい中学です。そこをはじめから大きな問題として認識していますから、コミュニケーションの質を一刻一刻目配りしています。中3自身自分の内部からも後輩からの期待からも保護者の期待からも圧力を受けます。それらを飛躍のエネルギーとして転化させるには、ただ「がんばれ!」と励ましてもだめですね。それはむしろさらに抑圧することになります。

☆大事なことは生徒一人ひとりの小さな課題から大きな課題まで共有するところから始まります。共有するとは課題が明らかになることです。たいていはこの時点で飛躍への光がちらちらします。もちろんすぐに暗雲はたちこめます。だから共有し続けるコミュニケーション・システムが重要なのです。ICTが威力を発揮するのはこの点ですね。

☆しかし、一方でスチューデント・ブックという生徒と担任の交換日記のようなシステムがありますが、これが最も重要です。中3ではこのやりとりが今盛り上がっていると聞きました。生徒の方が、先生こんなにコメント書いてくれて身体大丈夫なのとケアしてくれる場面もあるほどだということです。少人数クラスの運営の大きなメリットではあります。こういうコミュニケーションのクオリティアップの変化が随所で起きているというのが今の清修です。

☆もちろんパラドックスでもあります。コミュニケーションのクオリティがアップするには、課題が散在している必要があります。課題にていねいに回答していく対話していく議論していくという過程が質を向上させるのですから。

☆それにしてもやはり先生方はお身体はくれぐれも大切にしていただきたいと思います。

*写真は柴田副校長室から窓越しに見える景観。新校舎に花が咲いています。この花をケアする教職員・生徒の存在が伝わってきますね。この場所こそ副校長と生徒の対話の居場所です。

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世界を変える学校[14] 八雲学園③

世界を変える学校[12] 八雲学園② のつづきです。八雲学園の文集「まつぼっくり」に投稿されている国語科の先生方のエッセイを読んでいるわけですが、そこには先生方の豊かな視点があふれています。

☆メダカをバケツ稲で飼育する話題がさらりとかかれていますが、なかなか生態系のモデルがうまくいかないと思っていると、稚魚が生誕するんですね。力強い生命力に感動するしているのですが、同時に科学のものの見方も表現しているのです。

☆モデルという考え方がそうですね。アインシュタインもプレゼンテーションの時には、ジレンマ実験をして、それを解決してみせたそうですが、そのささやかなモデルが宇宙の法則につながるのです。

☆アメリカのプレップスクールなどの授業も、最初の導入はトリガーになるようなモデル問題から始めると友人から聞いたことがあります。

☆さらに生態系のモデルだけではなく、そこにエビを入れてみるわけです。するとどうやって共生していくのか、あるいは生態系は壊れてしまうのか。国語の先生のはずですが、エッセイのモチーフは科学的です。

☆八雲学園の授業では、生徒がアハ体験ができるような仕掛け作りがされていることがここから推察できるのです。まずはアハ体験。そこから好奇心もモチベーションも燃え上がるでしょう。そしてそれが生徒一人ひとりの世界をチェンジすることにつながるのです。

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不安を生みだす抑圧系[02]

☆不安を生みだす抑圧系の浸透力は、男性性のステレオタイプの形成と相関しているかもしれません。もっともこの男性性のステレオタイプ形成史など途方もない作業で、それは学者にお任せするしかありません。

☆しかしながら、今の若者論を読むと、「男は黙ってサッポロビール」「大きいことはイイコトだ」なんて団塊・断層の世代に受けれられてきたコミュニケーションとはどこかその手法や価値観が違ってきていることは、みなさんが承知していることではないでしょうか。

Photo ☆今年公表された内閣府の「男女共同参画白書」を見ていると、私たちの国日本は、まだまだ男性性の圧力がすさまじいことがわかります。「夫は外で働き、妻は家庭を守るべき」という考え方について反対している女子、男子それぞれの割合を表にしてみました。なんとなんと日本も韓国も女性の75%が反対ではないという結果になっています。データは、平成14年度の内閣府「男女共同参画社会に関する国際比較調査」(平成14年度)によるので少し古いのですが、ここ数年で大きく変わったとは思えません。

☆女性を抑圧する男性性の日本システムはすさまじいものがあります。しかし、一方で若者はこの男性性のステレオタイプはダサイという言葉で、一笑に付している感もあります。アキバ系はその一つの顕われでしょう。

☆もちろん、それがにわかに広がることはないでしょうが、SMAPを中心とするジャニーズの人気は、確実にこのステレオタイプをチェンジしていくかのような勢いです。しかし、やはり・・・、ファッションとして男性性のステレオタイプをチェンジしているだけで、中身は変わっていないかもしれません。ネットやモバイルの裏サイトの事件は男性性の負のステレオタイプが闊歩している可能性がありますね。

☆それに、2006年のOECD・PISAの学習背景調査による、学校の評価において「絶対評価」を取り入れているかどうかの割合も表に並べましたが、取り入れているという校長の回答は80%で、他の国に比べて、決して低いものではありません。にもかかわらず男性性の圧力が強い。

☆これはどういうことでしょう。スウェーデンでは男性性のステレオタイプが衰退しているという背景で「絶対評価」を実施しているのに対し、日本では男性性のステレオタイプが健在であるにもかかわらず、「絶対評価」をしているのです。

☆繊細な保護者が私立中高一貫校の受験をなぜ選択するのかというと、もしかしたらこの男性性の圧力下の「絶対評価」ではなく、その圧力が希薄な「相対評価」によって、つまり仮想市場の競争によって進路を決めたいと感じているからかもしれません。

☆海外勤務の経験ある保護者は特にそうでしょう。私立中高一貫校の中で多くの帰国生が選択する学校が少しずつチェンジしていくのは男性性ステレオタイプではない異文化の影響を被るからでしょう。攻玉社が外から見ていて変化しているように見えるのはそのせいかもしれません。国際学級を運営し始めた時点では、帰国生を男性性ステレオタイプの枠にはめようとしたが、それはできなかったのではないでしょうか。その変化を受け入れているのではないかと思います。

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不安を生みだす抑圧系[01]

☆内閣府は「19年度男女共同参画白書」を公表しています。その中で、各仕事で、女性がどのくらいリーダー的役割を任せられているのか、その割合をグラフにしたものがあります。

07 ☆これを見ると、日本では、まだまだ女性は各仕事においてリーダーとして進出するのを阻まれていますね。このグラフをどのように解釈するかは、人によって違うでしょうが、いずれにしても日本社会の構成上、女性のリーダー進出に圧力・抑圧がかかっているのは確かではないでしょうか。

☆この抑圧が女性に不安を生み出します。この不安は正のエネルギーに転化する場合も、負のエネルギーに転化する場合もあります。

☆しかし大事なことは女性にだけ正のエネルギーに転化する役割を押し付けていては、社会の構成が変わらないのですね。このグラフを通して、女性だけではなくあらゆるところに偏在する抑圧系を感じなくてはなりませんね。

☆この抑圧系という今の日本社会の隠れたリスクを見える化することで、社会の構成をチェンジすることが可能かもしれません。マスコミや官庁の出すデータを1つひとつ探っていきましょう。

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08全国学力テスト“09” 小6国語学テの意味するコト⑤

☆今年実施された中3の全国学力テストの国語の問題も岡部憲治さんと分析しました。そして例によって習熟度レベルの割合分布を出して、小6と重ね合わせてみました。

086vs3 ☆すると中3の方がレベル5の問題が少し(一問出題されていました)出題されているだけで、基本はレベル3までの出題で終わっています。

☆これが文科省の考える義務教育の読解リテラシー、はっきりいうと思考の深さのレベルなのです。これでは、日本の子どもたちは、世界標準の学力を身につけた国々の子どもたちと対等に議論ができません。

☆今までは、一部のエリートが日本の国を代表して交渉すればよかったのでしょうが、もはやそういう時代でないことは明らかです。保護者は自助努力で私立学校や海外の環境を選択すればよいのですが、公立学校を選択せざるを得ない場合は、たまったものではありません。

☆多くの子どもたちが世界標準のリテラシーを身に付けるための教育行政を目指してもらうことを期待しますが、それがすぐにできるわけではありません。ではどうしたらよいのか。図書館、美術館、庭園などできるだけ中学までお金がかからない公共施設を利用することと、そこで行われているボランティアのサービスをうけることです。

☆そして、なんといっても大いに読書することが一番なのです。だがしかし・・・。

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08全国学力テスト“08” 小6国語学テの意味するコト④

☆今年の全国学力テスト小6の国語の問題の習熟度別レベルの出題割合分布を、今度は共立女子の今年の国語の中学入試問題(入試日A)と比較してみました。結果は、グラフを見ての通りです。

08 ☆やはり、レベル4、5、6の領域に差異があります。共立女子の入試問題は、今どき珍しいのですが、記述や論述の問題が出題されません。漢字の読み書きや抜き出し問題以外はすべて選択肢問題です。センター試験に近いイメージですね。選択肢の数もほとんどが5択です。ですから記述式や論述式よりはっきり生徒の思考の深さがわかります。

☆ただし、選択式問題で、批判的思考や創造的思考のレベルをみる問題を作るというのは、実はなかなか難しいんですね。ある意味思いきり解答を誘導せざるを得ない部分があるんですね。ですから一般の読解リテラシーの問題では、選択式形式で、このレベルの問題は出題されないのです。

☆まして全国学力テストの場合、選択式問題でそのような挑戦はしないでしょう。もし出題したら、たいていはうまくできていないので、あらゆるところから非難が集中してしまいます。記述や論述だとその非難を交わすことができますね。

☆ということは共立女子の選択式問題の創意工夫というのはたいしたものだと言わねばならいということになります。何せ私が知る限りこの形式は20年以上も続いているのですから。それだけ選択式問題の創意工夫のノウハウが蓄積されているということでしょう。

☆思考の深さという点では、まずは表面から内面に視点が移っていったり、物理的時間と空間が心的に時空として融合していく感覚、物象から関係性を開いていく思考など実によく工夫されています。共立女子を受ける受けないにかかわらず、ていねいに解くと、読解リテラシーとは何かというのが身に染みてわかるでしょう。

☆共立女子を目指して勉強している生徒は、このレベル4、5、6の問題が30%弱出題されていますから、ここを無視することはできません。合格するには68%ぐらいとらねばなりません。レベル3以下の問題をすべて解ければ問題はなさそうですが、そうはうまくはいきません。広く深く考える習慣を身につけておく必要があるのです。そしてそういう勉強の仕方をしておかなければ、共立女子に入学してからがたいへんですね。

☆ともあれ、国語の問題を通して、共立女子の教師の質の高さがわかるし、テキストとして選択されている詩や物語、説明的文章からは、子供たちの問題意識を喚起するテーマへの先生方の熟慮が了解できます。テキストを選択する見識こそ子供たちの好奇心を呼び覚ます教師の力量です。この点に関しては、全国学力テストはまだまだです。文科省の操作性が行き届かないという点ではまあ良いのですが、そのようなテストを解いている時間がもったいないような気がします。誰のためのテストなのか・・・ということを改めて考えてもらいたいものです。

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世界を変える学校[13] 白梅学園清修の新しい表現

☆今年になって白梅学園清修を視察しに訪れた学校はもう何件になるでしょうか。最近訪れたここ数年人気急上昇の女子校の教頭先生から興奮と覚悟のメールが届いたのも昨日でした。とにかくほかの同僚もつれてもう一度訪問する旨が書かれていました。

☆清修というのは学校同士が刺激を受け合って、ともに生徒にとって良質の教育環境を作っていく場になっているんですね。量の成長には限界がありますが、質の成長に限界はありません。どこまで追究してもしきれません。しかしそれだけに、追究を止めるや、すぐに量の成長に変質してしまうおそれがあります。

☆草創期の学校がその局面にぶつかると、失速します。成熟期の学校がぶつかると停滞し、もう一度質の追究に立ち戻らないと、衰退期にシフトします。

☆清修を訪れて感動して帰ってくる先生方は、学園の教育の内容だとかプログラムだけに感動してくるのではないと思います。おそらくその点に関しては、決して自分たちは負けないと自負していると思います。またそういう学校だからこそ清修を視察しようと思うのでしょう。

☆では何に感動するのでしょうか。それは教師の創造的コミュニケーションと生徒の倫理性と自己陶冶性と自由闊達な議論の雰囲気にあると思います。草創期におけるこのような表現と思考の自由、つまり批判的かつ創造的な世界標準を超える思考の持続可能性に驚愕し、一方では自分たちの学校ではたして実現可能なのかという不安やアンヴィバレントな気持になるのでしょう。

☆私自身も、教育ジャーナリストや編集者とこれからの「名門中学」の新しい切り口について議論させていただく機会をいただきますが、その際に当然のことながら幾つかの学校の事例やエピソードを引き合いに出します。そのうちの一つの学校として清修を挙げますね。

☆2年前に講談社の方と鈴木隆祐さん(教育ジャーナリスト)と語り合って、その結実の一部が「学歴社会の楽しみ方(セオリーvol.4)」に掲載されました。白梅学園清修が未知の学校であり、偏差値もそれほど高くないのに、クオリティ・スコアは高いという点でマスコミ界ではちょっと話題を呼んでいましたね。その後、ダイヤモンドやプレジデント・ファミリー、読売新聞などでも取材にはいっていると思います。

☆ケースメソッドの一環として、国際教育研究家の岡部憲治さんと教員研修に参加させていただいたり、数学家の戸塚先生、英語科の道元先生と岡部さんのコラボ授業を企画してみたりしましたが、やはり教育のクオリティは高いというフィールドワークの結果となりました。

☆講談社の同誌に掲載された清修のクオリティ・スコアは当時3.1でしたが、年々清修の理想は実現されてきたので、2007年には3.9に跳ね上がりました。これは首都圏の女子校の中ではベスト3に入ります。女子学院、共立女子、清修、鴎友、洗足、湘南白百合、晃華・・・となっているんですね。草創期におけるトルネード的な飛躍が生まれようとしているのです。

☆だからこそ新刊書「『授業』で選ぶ中高一貫校(鈴木隆祐編著 学研2008年4月)」で清修の記事は4ページにもわたって鈴木氏の健筆が振るわれているでのです。同書には、私のコラム「世界標準の学力を身につけられる中高一貫校」も掲載されていますが、そこで清修のリベラルアーツプログラムについて触れました。リベラルアーツという言葉は清修自身は使っていないのですが、教育プログラムのカテゴリーとしては、清修の実践はそこにあてはまるでしょう。

☆つまり日本の従来の中高一貫校にはない新しい女子中高一貫校の建設途上にあるわけです。新しい建設、つまりこの創造性はどこから生まれてくるのか。それは日々の生徒、保護者、教師の間で交わされるコミュニケーションによって以外にないのです。

☆大学実績も右肩上がり、人気も上昇しているという学校が視察にきて感動するのは、このコミュニケーションの質なんです。このような学校のコミュニケーションも非常に密で、豊です。しかし、伝統があり、大学進学実績も良い学校が持続可能にするには、日々コミュニケーションの質をメンテしていかなくてはならないのです。

☆教育の表現は、教育業界内でしか通じないテクニカルタームで満ちています。タコつぼ内創造コミュニケーションが行われていればまだしも、たいていは保守的で偏向的で隠れたリスクに蓋をして、新しいことに興味がなくなりがちなのです。成熟期の学校の不安は、この呪縛という抑圧をいかにして開放するか、そのための創造的コミュニケーションはいかにして可能なのか。清修を訪れ、そこに問題解決の糸口を見出すのでしょう。

☆この創造的コミュニケーションの源泉は、ほぼ毎日載せている柴田副校長のブログなんですね。教育言説(表現)の保守性、偏向性、隠蔽性、頑迷性を崩すその表現手法は、おそらくフランスのフェリックス・ガタリ風です。柴田先生ご自身はそうは思っていないでしょうが。表現は思想です。新しい表現は新しい思想です。新しい思想を実現するには新しい表現が必要です。新しい酒は新しい革袋にというのが欧米の改革者リーダーの共通の言動ですね。

☆奥の部屋でふんぞり返っているようなリーダーが支配している組織はすでに衰退期を迎えています。リーダーはストーリーテラーでなければなりません。柴田副校長はリーダーとして新しい清修物語を綴っているのです。そこには悲喜こもごもがあるでしょう。光と影があるでしょう。アンヴィバレンツ、矛盾、パラドックスもあるでしょう。賛美と批判もあるでしょう。だからこそ真実の物語です。

☆この白梅学園清修の真実の物語に、訪れた先生方や私の仲間たちは感銘を受けるのです。何やら柴田副校長のブログ「緑浄春深」の断筆宣言で学内中議論で沸いているようですが、それもまた清修の真実の物語の1ページとして収まることを期待しています。

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