私学の経済ポジショニング[04]端緒を探る④都内の男子校の活動[01]
☆先日(2008年6月7日)、新宿で「東京私立男子中学校フェア2008in新宿」が開催された。23校合同説明会だが、単純に各学校が1つの場所に集結してブースを開いて説明するというイベントではない。23校の男子校に通う生徒及び保護者にアンケートをとり、そのデータに基づいて、男子校の存在意義を語りかけるというコミュニケーションが演出されていた。
☆要するにマーケティングの手法であり、男子校の存在のポジショニング戦略を遂行しているというわけである。このポジショニング戦略活動は、日本のいや世界の教育に影響を与えるトリガーである。
☆というのも、今年首都圏の私立中学受験の受験率は20%を超えた。東京ではすでに2001年ぐらいから20%を超えていたので、この東京の影響は絶大だったはずである。とにかく、20%を超えたということは、大変古典的な理屈だが、パレート最適の法則、つまり20%:80%の論理が成り立つ。私立学校の教育の発言力が強くなり、社会に影響を与えるということを意味する。
☆この私学教育の中でシングルスクールの存在意義は極めて重要である。したがって、私立学校の教育の発言力を男子校が一丸となって強めていく活動をするのは必然的な流れであり、私学全体の発言力が強くなっている情況とシナジー効果を生みだすはずである。
☆シングルスクール、特に男子校は世界に類のない新しい人間が生まれる歴史的条件を背負ったあるいは内包した男子生徒が集まってきている。公立学校における生徒たちのアイデンティティというかキャラクターは、官僚近代国家が作り上げてきたものである。大量生産・大量消費・大量移動を果たすための化石燃料奪取と労働集約政治経済システムを持続可能にする人材の育成がそれである。
☆しかしながら、そのような国家がアイデンティティや価値観を作り上げるという大きな物語は終わり、生徒一人ひとりの価値観やキャラクターはバラバラだし相対的になっているという理解が一般的である。相対的であれ価値観やキャラクターができていれば問題はないが、ここの部分が虚無化しているケースが生まれている。キャラというロールプレイ用語が青少年の中に蔓延し、キャラクター無しのキャラを追い求める青少年が増えると社会はどうなるのであろう。まさに劇場社会であり、リアルとフィクションの区別がつかなくなる。
☆文科省の動きはそれゆえ、道徳規制を強化し、有害情報などの規制に走る。心理学の学者は超自我の育成を果たし、無意識の抑圧の提唱を強める。これによって起こることは、高ストレス社会による差別・格差の生産である。そしてこれに耐えられない場合、様々な犯罪という形に抑圧のエネルギーは転移する。
☆このような情況を教育によって解決する方法論を有しているのは、世界中でも東京の私立男子校のみなのである。欧米はこのような情況が根本のところで起こっていないのであるから、この点においてはモデルケースがない。日本の教育学者は、この情況をネガティブな側面でしかとらえられないから、当然解決する方法は、先に言ったように抑圧でしか突破しようとしない学者ばかりだ。
☆この日本の教育情況に近い国は、おそらく中国である。共産主義というアイデンティティが崩れたとき、アイデンティティやキャラクターは虚無化する。そのとき倫理だとか価値観に基づかないロールプレイを13億人がいっせいに演じはじめる。これは想像を絶するカオスが生まれる。
☆それゆえ水面下でそのリスクヘッジを考えている中国の要人がいるらしい。日本はキリスト教国ではないのに成功した唯一の先進国である。それは彼らにとってたいへん不思議なのだ。そういうわけで、それを果たした渋沢栄一翁の研究が注目されているようだ。翁は経済道徳合一説を唱えているし、「論語と算盤」という著書を書いている。
☆それなら孔子の国である中国は安泰であると思いたいところであるが、現代の中国において論語はどれだけ読まれているのかというと、実に乏しいそうだ。
☆東京の男子校に注がれる≪私学の系譜≫は、実はこの「論語」に相当する教育理念がある。女子校にもあるが、それは直接効力を発揮しなければならないほどの情況になっていないので、この話は学内ではピンとこない。共学校は、この情況が男子生徒によってもたらされているが、女子生徒の成長ぶりに圧倒されているために、目だたない。共学校の問題は、まさにここにある。うまく仕掛けをつくっている共学校は少ない。よって、男子生徒は公立学校と変わらない学校生活を送ってしまいかねないのだ。女子生徒にとっては問題はないのだが・・・。
☆この現代的な情況において、男子生徒に教育理念が注がれない公立学校では、男子生徒の教育が無化してしまう。私立の男子校においては、この情況を回避できる可能性がある。そればかりか、この新しい情況の男子生徒を新たな人間像として育成できるチャンスがあるのである。
☆価値相対化とキャラとキャラクターの乖離の情況において、ただ教育理念を掲げても、それは公立学校で超自我を形成しようという動きとなんら変わらない。生徒たちも受け入れないだろう。だからこの教育理念を受け入れられる教育システムが男子校には存在するのである。
☆価値相対化とキャラクターの乖離の情況は、歴史的には日本においてまずは生まれ、次は中国だろう。そしてキリスト教離れの欧州に及ぶだろう。それゆえ、それによるカオスというリスク回避のための教育システムが最重要な課題になることは必至である。
☆東京の私立男子校の存在意義は、かくして今歴史的存在意義として注目を浴びることになる。女子校は別の意味で、すでに歴史的存在意義を有しているが、それを明確に表現しているわけではない。これはこれでやらねばならない大事なことではある。
☆そして共学校は、この男子校の存在意義と女子校の存在意義の両方を孕んでいるわけで、そのシステムは最も難しい。にもかかわらず生徒募集のために安易に共学校になった場合、私学の存在意義を自ら捨てることにもなりかねない。そうではないことを検証する責任が、私立共学校の場合はあるのだが・・・。
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