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私学の経済ポジショニング[05]端緒を探る⑥都内の男子校の活動[03]

☆秋葉原の凄惨な事件が起こった中で、二度とこのようなことが起こらないようにしなければならないと誰もが祈ったことだろう。それにしても、テレビや新聞で報道される要素は、ステレオタイプのものばかりだ。

1)中学までは優秀・スポーツ万能だった2)高校では目立たない大人しい性格だった3)卒業論文には、ゲームやマンガが好きだったことが表現されている。4)キレると尋常じゃなかった。5)プライドが高かった。6)理解者がいなかった。7)孤独だった。8)携帯の掲示板を使っていた。9)挫折感をもっていた。

☆たしかに、かつて同じような事件が起こった時も、同じような要素が取り扱われているから、共通点なのだろうが、少なからず一般市民もこれらの要素を持ち得ていないかというと、否定しきれる人は少ないのではないだろうか。

☆これらは人間がみな持っている要素なのである。ただその要素をどのように昇華させるかという自己成長の格闘を行っているのが一般市民なのである。しかし、このような自己成長の格闘は、自分一人ではできない。互いに助け合う関係がそこになければならない。

☆優秀といったとき、学業の話がクローズアップされるが、それは偏っていておかしいと哄笑し合える関係が必要だ。その相手は家族でも友人でも先生でもカウンセラーでも先輩でも後輩でもよいのだ。くそまじめ一辺倒な勤勉しかなければ辛い。

☆男子校は楽しくて明るい。これが大事なことは、それが偏向的な閉塞感を吹き飛ばしてくれるからだ。「きっちり型」の生き方のこわさは、安心・安全がもろいということを認識できないことだ。安心・安全をまず求めることが優先される。あらゆるものはフラジャイルなのである。まして人間関係や自分の存在などというものはそうだろう。

☆一方「のびのび」型の生き方の危うさは、やはり安心・安全がもろいということを認識せずに、自ら気づかないうちに壊してしまうことだ。それがどんなに大切なものだったのか、後の祭りなのだ。大切なものは居心地が良かろうが悪かろうが関係なのである。互いに大切なものをケアしようという関係性をどうともに作っていくかである。ここでポイントは、大切なもの無き・亡き関係性は関係性かという問いかけである。

☆これを問いかけ合うことができない関係は疑似関係ではないだろうか?関係性の意味を議論することは重要なのだ。ただでさえもろいのに、関係性を問う関係性がなかったら、それはすぐにも壊れてしまうだろう。そのような情況は、孤独とは言わないのだ。絶望という。孤独は関係性の中で現われる。私はすべての関係をとりはらっていったら私ではない。私はかかわる人とものと社会と・・・関係総体そのもの。

☆優勝劣敗システムの中の商品化と物神化の極限は、この関係総体を切り刻んでいく。私は私ではなくなる。極めて恐ろしいことだ。私は私でありたいと願うのに、私ではなくなっていく。私らしさを求めて行動するとそれは私ではなくなる。このダブル・バインド、ジレンマのコミュニケーションを阻止するにはクオリティ・コミュニケーションの関係性を互いにつくることが重要である。

☆私立男子校を選択したからと言って、すべての生徒がクオリティ・コミュニケーションを身につけられるかどうかはわからない。しかし、このことを教科学習以外のプログラム環境でも実行しているのは確かだ。

☆「東京私立男子中学校フェア ガイドブック」の「建学の精神または教育の理念とその実践方法」及び「特色ある行事」のページでそれは表現されている。もちろん、ガイドブックを読む時、それぞれのプログラムの有効性をチェックする必要はある。おそらく何をやるという表現に、いかに実行するのかそのプロセスも見える表現をしている場合は、そのプログラムは実際に有効である確率は高いだろう。プロセスが盛り込まれるとは、伝統だからやっているのではなく、常に1人ひとりの生徒の情況に応じてプログラムを改善している意識・自覚があるということの証でもある。

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