私学の経済ポジショニング[14]私学のクオリティマーケット作りのために
☆最近、教育ジャーナリストや教育関係者と話をしていて、改めて確認することは、私立学校というのは、日本の教育学の研究対象になることは極めてまれだなという点である。
☆それゆえ、私立学校と公立学校の差異が、補助金の違い、生徒募集の方法論の違い、カリキュラムの違い、大学進学実績の違い、OBの活躍の違い、教育理念の独自性有無の違いなどなど、事実の差異としか語られない。つまりあまりにジャーナリスティックなのだ。いや物が売れればよいという「考えない営業」の理屈だ。「難しいことはいいよ、売れりゃいいんだ」というだみ声が聞こえてくる・・・。
☆それゆえ、私立学校のことについて表現するとき、「わかりやすく」語らなければなどという、誰が決めたかわからない呪文を唱える営業マンが多い。もちろん「考える営業マン」も入る。起業マンと呼んだ方がよいだろうが。
☆ともあれ、私立学校の生徒について、あるいは生徒と教師の関係について、心理学の角度から研究されているものは多いが、私立学校全体について、社会学的あるいは哲学的あるいは政治経済的に探究する研究者はあまりに稀である。
☆「わかりやすく」という呪文が、このような探究の壁になっている。「わかりやすく」とは日常言語でということだから、一つひとつの言葉が持つ分厚い構造(連続型文脈及び非連続型文脈)については無視される。だから、顧客満足と生徒・保護者満足は同じことを意味し、その差異がわからなくなる。
☆言葉の豊かさとは、知識の数ではない。まど・みちおさんや谷川俊太郎さん、工藤直子さんのひらがな詩を読んで、言葉の豊かさを感じない人はいないだろう。決して言葉の知識の量ではない。見方を変える言葉、新しい発見をする言葉、感動を生み出す言葉、概念を生み出す言葉であることが豊かだということだろう。
☆私立学校そのものについて、いろいろな分野や領域の言葉で語られるようにならないと実は私立学校の市場は、クオリティマーケットにならない。私立学校の市場と受験市場の差異がわからなくなっているのが現状だ。本来は、私立学校の市場>受験市場だろう。それが逆転しているとしたらどうだろう。
☆塾・予備校、マスコミの「わかりやすく」戦略は、私立学校の言論・思想・表現の自由を制限しているのである。アニメの世界から哲学の世界まで、広く深く私立学校について語られるようにならない限り、私立学校の教育が世界を変えることは難しい。クオリティ・マーケット作りこそ私立学校の未来の使命の一つである。
☆そしてここに到って公立学校との決定的違いが見えてくる。公立学校において、そもそもマーケットは存在しない。マーケットが存在していないところに平和は育たない。平和という言葉を「わかりやすく」教えることは行われている。だが、どこの世界に平和が「わかりやすい」などということがあるのだろうか。
☆「わかりやすく」戦略は、人々が自分の利益と興味のあるもの以外は平気で無視することができるように囲いの中で管理するのが目的である。東浩紀氏の言う「動物化された」(日本の場合は家畜化されたという方が当たっているのか?・・・)人間とは、言いえて妙であるなぁ。
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