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2008年7月

私学の経済ポジショニング[16]OECD専門家セミナーと白梅学園清修②

私学の経済ポジショニング[15]OECD専門家セミナーと白梅学園清修 のつづき。ジャネット・ルーニー氏は形成的アセスメントについて6つの要素に分けて説明した。

1)相互作用を促進する教室文化の確立とアセスメントツールの使用。

2)学習ゴールの確立とそれらゴールに向けた個々の生徒の学力進歩の追跡。

3)多様な生徒のニーズを満たす様々な指導方法の活用。

4)生徒の理解をアセス(把握・予想)することへの様々なアプローチの使用。

5)生徒の学力達成状況へのフィードバックと確認されたニーズに応じて授業を合わせること。

6)学習プロセスへの生徒の積極的な関与

☆その後、柴田副校長が、白梅学園清修の教育実践の報告をしたが、ルーニー氏の説明した形成的アセスメントの6つの要素がすべて実践されていたのに、多くの参加者が驚いた。

☆グローバルな学びの理論が、白梅学園清修の具体的な実践から逆照射されたのだから、そうなるのも当然だろう。どこまで続けられるかわからないが、しばらくの間、抽象理論と白梅学園清修の実践を重ね合わせてみたい。

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私学の経済ポジショニング[15]OECD専門家セミナーと白梅学園清修

☆昨日(2008年8月29日)、千代田区丸の内にある東北大学東京分室で、「専門家セミナー」が開催(主催 国立教育政策研究所 初等中等教育研究部・共催 東北大学大学院教育学研究科)された。テーマは「キーコンピテンシーと形成的アセスメント」で、OECD/CERI(教育研究革新センター)の評価研究プロジェクトリーダーだった、ジャネット・ルーニー氏が基調講演を行った。

Photo ☆そして、日本の先導的実践事例として、小学校は富山市の堀川小学校の教育実践が報告され、中学の部では、白梅学園清修の教育実践が報告された。

☆生徒一人ひとりの理解度を測り、タイムリーに頻繁に対話をすることで生徒の思考の広がりと深さの促進をサポートし、そして生徒一人ひとりの独自性を発見することで生きるよりどころであるキーコンピテンシーを共に作り上げる形成的なアセスメント行為の必要性について、話し合われた。

☆もちろん従来のテストや試験による総括的なアセスメントとのバランスが重要なのであるが、この形成的アセスメントの考え方が、従来のテストの作り方に変更をせまるシナジー効果をあげるだろうとルーニー氏は指摘していた。テストでも思考の深さを測ることはできる。PISAがその例だろう。

☆また、形成的アセスメントを実行するには、教師間の議論、生徒のポートフォリオやログノートを細かく見ていかなければならず、教師の時間をどう確保するか問題になるが、それはICTの導入によって解決するとも指摘。そしてそのパーフェクトな白梅学園清修の実践事例が柴田副校長によって報告された。

☆本セミナーでは、形成的アセスメントの概念が中心に議論されたが、2校の実践例は、ある意味、その見える化であった。仕掛け人の東北大学の有本教授のセミナープログラムのデザインはなかなかのものだったと思う。ただし、参加者は政策にかかわるメンバー、研究メンバーだけではなく、現場実践メンバーが多かったので、抽象と具体をうまく結び付けられたかどうかは、参加者の見識にゆだねられた。

☆セミナー第二部は、懇親会。そこでお会いした秋田県の公立中高一貫校の校長先生が、またおもしろかった。公立の立ち位置にいながら、理念と実践と迫力は≪私学の系譜≫。ハイデッガーと数学のレトリックで、知識の背景にある存在の根拠を問い返す見識と気迫に圧倒された。従来の学びがいかに要素還元主義なのか、これからは知の関係総体主義の時代であることを、微分積分の数学の概念から導かれていたのにも驚いた。秋田県学力ナンバー1の秘密が少し見えたような気がした。この点については有本教授も高い興味と関心を寄せていたほど。いずれにしても、すごい人がいるものである。

*参考文献 →J.ルーニー編著『形成的アセスメントと学力-人格形成のための対話型学習をめざして』明石書店、2008)

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私学の経済ポジショニング[14] 私学の経営戦略①

☆私学も企業同様、自らの力で経営している。ただ、企業は利潤を生むし、商品の販売量を増やしていくため、売上や利益率の向上を常にチェックしている。一方、言うまでもないが、学校法人が売り上げを上げるとか、利益率をあげるとかというようなことはあまり聞いたことがない。

☆したがって、同じ経営と言っても、見た目はずいぶん違う。見た目だけではなく、本当に差異がある。しかし、差異があるということは、共通点もある。この両者の整理を誰かがしてくれると助かるのだが・・・。というのも、日本経済が世界の経済に影響を与えている以上、世界の人々の幸せの最適化を考えるのは当然で、そのためには日本の企業が活躍しなければならないし、その企業に人材を送るのは教育機関。その機関の中で重要な位置を占めているのは私立中高一貫校という私学である。

☆だがしかし、こういうシンプルなつながりを意識して、企業側は私学を見ないし、私学側も企業を見ない。企業側の立ち位置で、保護者が私学を見れば、公立学校よりは私学の理屈がわかるかもしれないが、企業と私学の差異は見えにくい。じゃあ、私学側に立てばどうだろうということになるが、私学側の立ち位置に立てる保護者がいるのだろうか?保護者自身が私学出身の場合は、立てる可能性があるが、それは公立と私立の卒業生数の数の論理でいけば、あまりに少数派である。

☆公立側の立ち位置から見ても、実は私学の経営はよくわからない。むしろ混乱するかもしれない。ルサンチマンや嫉妬が生まれるかもしれない。どうやら、私学側は、私学経営の正当性・信頼性・妥当性を、自ら証明しなければならない時がきたようだ。

☆自ら証明するのは今までも変わらないし、これからもそうであるから、今というタイミングを重視する理由がわからないといわれるかもしれない。それは20世紀末から21世紀の今にかけて、企業観や事業観が転換する時期であることは周知の事実だと思うが、この転換のロールモデルの一つが私学の経営のあり方である可能性があるからである。

☆私立学校は、20世紀末の私学危機を、企業の経営手法をモデルに乗り越えようとしてきた可能性がある。外部コンサルタントの研修プログラムなどは、企業研修そのままを横流ししたものばかりである。私学と企業の経営には共通点もあるから、役立つ部分も多かった。

☆しかし、研修を受けて、何かが違うと疑問を抱く教員も多い。ここに大きなヒントがある。何かが違うという点こそ、私学と企業の経営の差異だからである。コンサルタントの持ち込む研修プログラムは、ほとんどがアメリカのビジネス研修。アメリカの企業は100年以上続くなんてだれも思っていない。ところが日本の会社で100年以上続いている企業は多いのだ。

☆私学と似ている企業経営の手法は、日本の老舗企業なのかもしれない。少なくとも利益を上げて、すぐに他の企業に売ってしまうアメリカの企業観をベースにする研修プログラムは私学人にとっては違和感が大きいはずである。

☆米国型企業経営観がよいのか、日本型企業経営観がよいのか、私学型経営観がよいのか、最終的には市場の原理で決まるのかもしれないが、この市場でさえ、利益主導市場なのか、倫理的市場なのか差異がある。もし、倫理的市場を選択したいのなら、私学型経営観を見直す必要がある。現状の利益主導市場から倫理的市場へのシフトはいかにして可能なのか。それはマスのレベルを変えることである。知識重視のマスから教養重視のマスへということである。今、私学型経営観を見直す意義はここにある。

☆しばらく三品和広氏の「経営戦略を問いなおす」(ちくま新書2006年)を足がかりに考えていきたい。

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09年中学入試に向けて[15]京都の洛南も小学校

09年中学入試に向けて[13]大学の新設附属・係属校の意味するコトで、「まだ中等教育段階の新設が多いのですが、早稲田実業や新設の慶応の小中一貫校のように、今後小学校から附属を開設するところが増えるのは火を見るより明らかです。」と指摘しました。

7月25日の産経新聞でも「京都の進学校、洛南高が付属小開設 24年春にも」(7月25日11時17分配信 産経新聞)という次のような記事が掲載されました。

京都府内有数の進学校・洛南高校と同中学を運営する学校法人真言宗京都学園(京都市伏見区)が、同市南区と同府向日市にまたがる工場跡地の一部を買収、平成24年4月にも付属小の開設を目指していることが25日、分かった。同学園は「少子化のなか、小・中・高一貫教育を行うことで、学園のクオリティを保つことができる」としている。

☆かくして新設小中高一貫教育は増えるわけですが、経営の論理だけではなく教育の倫理の側面から積極的に必要だという信念で開設されることを期待します。

 

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学習支援学@考[04]

学習支援学@考[03] のつづき。「5)あらゆる産業、分野で学びのリーダーを育成しよう。学びのリーダーは常にインターフェースで学びの機会をつかむ。」について、まずはどんなタイプの人材や組織があるのだろう。それを考えてみよう。

Photo ☆いつものように座標系で分類してみる。縦軸を「アウトプット系―インプット系」、横軸を「創造系―規律系」と設定する。すると当然ながらA領域からD領域まで4つの領域ができる。

☆アウトプット系とは、表現したり成果や結果をだしたりする言動。インプット系とは、調べたり、考えたり、作ったりする言動。どちらか一方というのは、本来はあり得ないからあくまで傾向で考えていく。創造系とは、新しいものを生み出したり、既存のものを変えていったりする言動。規律系とは、決められたルールや道徳を遵守する言動。これも傾向として考える。

Photo_2 ☆さて、A領域だけというのはなかなかありえないように思われるが、この傾向の人材や組織は、損得勘定が優先する。ルールを守るか守らないかは、損得の基準で考える。世の中の情報や他者の気持などをインプットして斟酌することもあまりない。自分の中にすでにある感情や思考の基準に従って、判断していく。新しいものを生み出すおおきなきっかけにもなるが、創造的行為が破壊行為になることもある。創造性のマイナスリスクを背負っているが、それよりも自分が得をすると感じることのほうが大事なのである。

Photo_3 ☆しかし、情けは人のためならずで、やはり目先の損得だけではなく、少し長い目で見れば、本当は何が損得かは変化する。損得勘定から合理的な計算をするようになる、つまりB領域も考慮するようになると戦術型の人材になるし、組織になる。

Photo_4 ☆戦術型なのだから、さまざまな情報をゲットしようとするはずだが、情報過剰の中では、自分の信じる情報だけで判断するのが、効率が良い。したがって、傾向としてはインプット系は軽視される。もし少しそこに耳を傾けようとすると、つまりリサーチをしようなどという言動が加わると、戦略型の人材や組織となる。

☆このように、各領域をどのような組み合わせで統合していくかで、人材や組織のタイプが分類できる。少しの間、この座標系について思いを巡らしてみることにする。

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世界を変える学校[41]武蔵野女子学院はどこに向かうのか

☆武蔵野女子学院校長小林五郎先生が、就任したのは今年の春です。小林校長は、内部からではなく外部から任に就いています。昨年までは、田中教照学院長が、校長を兼務していたのですから、外から見ているだけでは、この人事異動は、小さな変更ですが、組織の中では大きな改革の動きとしてとらえられているでしょう。

☆というのも、田中校長時代は、7年間続いたのに、その間に次の校長が育たなかった、あるいは内部から校長を選択することができなかったという憶測が成立するからです。いったいなぜ。

☆生徒募集の側面から見えれば、田中校長時代に右肩上がりになっていることは確かです。校長が戦略判断をしたのでしょうが、企画や実行はボトムアップのはずです。この段階で十分に次代の校長になる人財が育っているはずなのです。しかし、なぜ。

☆おそらくそのような人財はたくさんいることでしょう。しかし、田中学院長は、流れを大きく変えたかったのでしょう。戦略型リーダーはたくさんいても、改革者型リーダーはいないのかもしれません。ですからいったん流れを大きく変えてから、その路線を戦略型リーダーにゆだねようというという戦略が田中学院長の胸中にあるのかもしれませんね。

☆小林五郎校長は、相当の改革者です。前任校のときもそうですが、世界のリソースを結びつけるのも、文科省のリソースを結びつけるのも得意ですね。大胆かつ細心の気配りができるリーダーです。戦略型リーダーと改革者型リーダーの大きな違いは、組織の持続可能性を重視するか、組織の枠組みそれ自体を大きく変えるかという点が最大の差異でしょう。

☆それゆえ、改革者型リーダーは足を引っ張られやすく、孤独です。またその偉業も葬られがちです。偉業の実りは戦略型リーダーが自分のものとするというのが歴史の流れです。しかし、学祖高楠順次郎の精神の師である親鸞の大きな思想は、両方を包み込みます。そのどちらも自分のために行動しているのではなく、武蔵野女子学院という組織作りのために自分の判断をしているからです。

☆田中学院長はそのことをよくわかっていて、今どのタイプのリーダーが最適なのかを計算されたのでしょう。小林五郎校長もまたそのことを十分了解して、自分の価値ではなく、その世界への縁を優先しているのだと思います。

☆今の武蔵野女子学院の生徒像は、明るくて素直な女性ですね。科学の分野でも、企業社会においても、まずは謙虚であることが、チームワークや新しい発見をするときに重要です。しかし、国理解教育室室長の阿部先生は、「さらにどんな環境でも世界でも生き抜く女性であってほしい、そのための国際理解教育です」と語られます。

☆やはり武蔵野女子学院は次のステップに飛躍するときを迎えているようです。ここ数年の広報活動は、おそらく理念を全面的に出すことはきなかったと思います。価値相対主義で絶対的価値などいらないという塾の情報部隊が、中学受験の番を張っていましたから、やりにくかったでしょう。しかし、塾業界も大きな変化をしています。価値を大事にしない教育産業、つまりそのような事業観では、受難の時代の子どもたちをサポートできないという認識になってきたわけです。

Photo ☆武蔵野女子学院にとって、これは大きな機会です。なぜかパンフレットの中の沿革では、1994年の創立70周年の記載がありませんが、それを機に出版された本「高楠順次郎の教育理念」にはこうあります。

「周知のごとく学校教育が今、きびしく問われている。教育の名のもとに、有用性のみを追求する人間の単純再製産が行われ、教育のもとにいのちの分断化がなされている今日の状況を考えるとき、高楠がめざした教育理想はまさに、この人間回復にあったのではないかと思われる。    

 真に理想と実践を共有することは難しい。高楠の理想は未だ五合目というべきだろうか。しかし、高楠が示した仏教に基づく理想と平等愛に根ざした健全な意識こそ、この問題の解決と、真に人間が共に育まれる仏教教育機関の創造、育成が願われている。

 あらためて、学祖高楠順次郎の教育理想について、深い思いを運ぶことこそ、学院創立70周年を迎える、我ら学院人の責務ではないか。そのいとなみが、武蔵野女子学院の未来を開き、創立百周年へ向かっての確かな歩みとなるはずである。」

☆田中学院長が期待する小林五郎校長のリーダーシップは、学祖高楠順次郎の教育理想について、深く思いを運び、人間回復の拠点としての武蔵野女子学院づくりに一気呵成に挑むことなのだと思います。

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学習支援学@考[03]

学習支援学@考[02]のつづき。「≪官学の系譜≫に対して違うシステムを≪私学の系譜≫としてみよう。両者の系譜の違いは何だろうか?」についてだが、大学進学実績や偏差値という指標にこだわらないようにしたいという表現は、おそらく両系譜で使われている。

☆しかし、その表現の文脈が違うのである。≪官学の系譜≫である大学進学実績にこだわるな偏差値偏重反対という文脈は、東大を頂点とする知の鎖国化の中で、教育や職業の自由と平等があるのだから、どんな進路を選択しても差別化してはいけないという主張。

☆残念ながらこの鎖国ないの役割分担はピラミッド型の序列がついているというのが現実。この現実直視を回避するかのごとく大学進学実績や偏差値偏重反対と言っている。たしかに、今となっては、これらはこの鎖国化状態を強化する武器になっている。しかし、いずれにしても優勝劣敗システム自体は変わらず、この抑圧の中で排除された人間を救えないのが現状だろう。

☆枠の中で精神の病に侵されるか、鎖国から離脱するか・・・。どちらも死の病と犯罪への可能性がある。実際今日頻繁に起こっている。心理カウンセラーの辛いところは、この知の鎖国の中で枠組みの見直しができないままカウンセリングを行うのだから、クライアントにとっては対処療法に過ぎないし、そのような行為は、枠組み強化につながってしまう。

☆これに対し、≪私学の系譜≫で、大学進学実績や偏差値にこだわるなと言ったとき、東大を頂点とする知のシステムもone of themに過ぎないという広い視野に立った文脈で言ってるのである。だから東大知のシステムから自ら離脱することはストレスではない。生きにくいことは生きにくい。世界のどこに東大知とは異なるシステムがあるのかというと、科学の時代にそれはなかなかない。ただ、選択の自由があるシステムは海外にはたくさんある。

☆大きな物語や根本的な価値づくりは喪失しているということは、選択の自由の機能不全が起こっているという文脈をつなぐ必要がある。規制緩和の問題は、ルールの改革はもちろんだが、選択判断ができるようにするという考え方を前面に出すよということなのだ。しかし、そこは民主主義日本においては当たり前ということにして、小手先のルールの改変に終始する。これは基準をチェックしないよということでもある。だから、教師や会社をマネジメントするお役所の基準がぶれ、不祥事が噴出する。

☆これが≪官学の系譜≫のリスクだ。そのリスク回避のために官的発想は何をするか、「管理の不足」だったのだから、そこを充足すればよいとルールで縫合するだけだ。

☆大きな物語や根本的価値づくりが喪失しているのは≪官学の系譜≫のお話で、≪私学の系譜≫はむしろ大きな物語や根本的価値の見直しを毎日のようにやっている。だからといって、何も事件が起きないのかというと、そんなことはない。ただ、その問題は、私的発想では、「価値の喪失」という考え方に立つ。「価値」とはコミュニケーションの基準である。ディスコミュニケーションは「価値の喪失」から生まれる。だから「根本的価値」にこだわる。大学進学進学実績や偏差値が仮に低かったとしよう。それは「価値の喪失」とは何らかかわりのないことである。

☆学力低下は、「管理の不足」なのか「価値の喪失」なのか。≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫のどちらの立地に住まうかによって、見え方が違うのである。

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学習支援学@考[02]

学習支援学@考[01]のつづき。「1)私立学校を見直そう。通信制高校や他の全日制学校ではない教育機関に対する認識を高めよう。」とはどういうことか。≪官学の系譜≫とは違う系譜があることを認識しようということである。

☆≪官学の系譜≫とは基本的には優勝劣敗の枠組み。官学というのは、公平性や平等性が基本であるように思われているが、それは税金の使いみちの話であって、学習指導要領や生徒とのコミュニケーションにおいては、公平性や平等性を実現できない。

☆そのことに気づかなければならないが、公立学校のシステムだけを見ていたのでは、そのシステムのチェックができない。OECD/PISAがなければ、フィンランドの公立学校の良質システムについて、フィンランド市民や教師も気づかなかっただろう。

☆同様に日本の教育システムの欠点について日本人も気づかなかっただろう。しかし、公立の教育のシステムとは違うシステム、あるいはその欠点を補完するシステムが存在しているのであれば、両システムの差異を認識することは重要である。

☆さて、乱暴な分け方であるが、≪官学の系譜≫に対して違うシステムを≪私学の系譜≫としてみよう。両者の系譜の違いは何だろうか?

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09年中学入試に向けて[14]中村中 内生的成長期に入る

08 ☆今年も8月23日(土)・24(日)の2日間、東京国際フォーラムにおいて「2008 東京都私立学校展(進学相談会)」が開催されます。東京の私立小学校、私立中学校、私立高校が一堂に会して「ゆるやかな理念共同体」としての≪私学の系譜≫の存在意義をアピールする大きなイベントです。同時にその私学どうしの協力をベースに各私学が独自の建学の精神に基づいて作り上げている教育の質について受験生と保護者と対話する機会でもあります。

☆98年・99年、首都圏の中学受験率は13%を下回りました。それまで順風満帆に受験率は上がっていたのですが、ついに少子高齢化、経済の空白、産業構造の転換、グローバリゼーションなどが相まって、日本経済の低迷は私学にもダメージを与えました。

☆そのとき私学は、「ゆるやかな共同体」をつくり、私学の倫理的な市場を確保・維持・拡大するために、多彩な合同説明会を開催しました。その中で最もコンセプトが明快で、大規模なイベントが、この私学展です。

☆その努力は実り、2001年から東京の私立中学受験率は20%を超え始めました。いよいよ私学のマーケットの質を飛躍させるときがきました。グローバリゼーションの中で、教育の諸問題を解決するフロントランナーは、残念ながら私立学校以外にないのです。

☆しかしながら、この合同説明会を実施するには、想像を絶する労力とコストがかかります。いうまでもなくこの担い手は学校の教員以外に誰も実働する人材はいないのです。9月以降は、大規模な私学展以外に、毎月、毎週のように合同説明会と学校独自の学校説明会が開催されます。

☆私学マーケットを維持するには、PRは必要ですが、企業と違い販促する目的ではないので、それは教員にとって負担にならないかというとそれは嘘になります。この負担を、生徒のためにもっと使えたらと思うのが教師の魂だし、在校生や保護者の望みでもありましょう。

☆どうやら、各合同説明会の量から質へのシフトの本格的流れが来年には主流になるでしょう。現状でも、合同説明会の明快なビジョン、合同説明会の回数の調整、合同説明会の資料の質の向上などが私学間で議論されています。

Photo ☆そんな中で中村中は、また先駆的な決断をしたようです。外発的な成長から内生的成長戦略を打ち立てたようです。その戦略とは具体的にどのようなものなのでしょうか。秋以降の中村中の梅沢教頭率いる広報部隊の動きに注目していきたいと思います。

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09年中学入試に向けて[13]大学の新設附属・係属校の意味するコト

☆読売ウイークリー(2008.7.27号)で、特集記事「早稲田の逆襲 慶応を抜き返せ!!」が掲載されていました。まあまあ思いは伝わってきましたが、相変わらず東京大学を頂点とする知の鎖国内でのお話でしたね。

☆どうせお金をかけるなら、ロンドンやベルリン、ストラスブールなどあちこちに寮を賃貸し、そこから海外の大学に研修研究でもさせればよいのではないでしょうか。ヨーロッパ大陸なら、教会や修道院が廃墟になっているところがあるから、安く借りられるのでは?

☆海外の大学の単位を取ろうとか、海外の大学の卒業を目的とするから話が難しくなるんですね。あくまでリゾート気分でひたすら洋書を読み、ひたすらヨーロッパ諸国を歩き回り、もちろん外国語を駆使しながら、それで論文提出をして、自分の大学の単位取得が可能なシステムを作ればよいのではないでしょうか。

☆ポスドク問題解決のために、海外の分校の研究者として雇い、日本の大学と同じように学生が研究できるようにしておく。最終的なチェックは、インターネットでサイバー上でやればよい。学びの環境が変わるだけで、ずいぶん大学の雰囲気は変わるはずです。

☆学生の費用は?それは現地の情報を収集し、帰国後出版。販売促進のためにセミナーをやればよい。それに、教授の本に事例ケースとして掲載すれば、授業に使うテキストとして売れるのではないでしょうか。それにたまには現地ガイドをやれば?日本の企業のアルバイトなら大丈夫では?

☆さて、そんな大胆な―でも小沢征爾さんが海外に渡ったときに比べれば、過保護な―システムも学生がやる気がなければ、継続しないですね。たんにやる気があるだけでもだめですね。世界の問題や芸術的使命に燃えていなくてはなりません。

☆これは、見識、教養が必要で、幼児期からリベラルアーツな雰囲気の中で育つ必要があります。受験勉強で、見識や教養なんて関係ないでやってきて、大学になってからやろうと思ってもなかなか。最近は幼児期から受験勉強以上の「脳」力である地アタマを鍛えるには、やはり早い方がよいということになっていますね。もちろん、早期英才教育とは全く違います。

☆7歳まではじっくり仲間づくりをしながら多くの体験をする。8歳9歳では、その体験を経験値にジャンプできるように横断知を鍛えます。熟練と尊重の育成期です。10歳からは多くの経験値を統合する時期です。それには論理と批判を学ぶ必要がありますね。こうして多重知能が中学段階で養われれば、高校からは自分の社会への使命である倫理観をベースにグローバルなキャリアデザインをするでしょう。

☆このような意欲がベースにあって、大学に行けば、海外というフィールドで学びたいというモチベーションが内燃し続けます。

☆早稲田大学は、佐賀に、大阪に、そして東京に係属校や附属校を開校する予定です。今年150周年を迎えた慶応大学も、記念事業の一環として、横浜市青葉区に小中一貫校を新設する予定です。中央大学も、東京と神奈川に附属・係属校を開設予定。青山学院大学も、相模原キャンパスに附属中高一貫校開設を見据えていると言われています。これらは2009年から2013年ぐらいまでに完了するでしょう。

☆まだ中等教育段階の新設が多いのですが、早稲田実業や新設の慶応の小中一貫校のように、今後小学校から附属を開設するところが増えるのは火を見るより明らかです。

☆そして、2013年入試から聖心女学院は中学の募集を停止しますが、多くのカトリックの学校はこのような動きが可能です。つまり、完全中高一貫校入試だけではなく、完全小中高一貫校入試が増えてくるということですね。

☆品川区のように、公立でも小中一貫校までは増えてくるでしょう。そうなると、学習指導要領は変わらざるを得ないですね。今のような断片学習では、子どもたちの発達成長段階とのマッチングがうまくいかないからです。

☆OECDのCERIでは、総括的アセスメント(今までのスコアによる成績表を思い浮かべればよいでしょう)を包括する形成的アセスメントの研究が進んでいます。現状の学習指導要領が変わらなければ、形成的アセスメントがうまく適合しないので、またまた日本の教育改革は知の鎖国状態に陥ります。

*総括的アセスメントと形成的アセスメントは対比される場合が多いのですが、前者は後者に包摂されるというのが、CERIの考え方ですね。ここが新しいところかもしれません。

☆結局、国や政府には任せておけないので、私立学校が動くしかないわけですね。もちろん経営の論理で動いてもいますが、利益収奪市場の原理ではなく、倫理的市場の原理で動いていると考えたいものです・・・。

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The 授業リンク@考[04]教育の壁をいかにして超えるか ③

Photo ☆第2回「Ths授業リンク」の会(2008年7月3日)で行われた池末先生の授業について、国際教育研究家の岡部憲治さん(写真:白梅学園清修の特別授業で)の丁寧な分析がたいへん参考になります。OECD/PISAの世界標準のモノサシをあてているので、池末先生の今回の授業方法によって、生徒がどういう思考を、どこまでするのか、一つの仮説を立てられます。

☆授業方法のメインであった「カードゲーム」自体は、岡部さんの言うように、PISAの読解リテラシーでいう3つのプロセス「情報の確認」・「テキストの解釈」・「熟考・評価」のうち、「情報の確認」・「テキストの解釈」が中心だったと思います。

☆そして、生徒たちはどこまで考えるのかというと、岡部さんはあえて、述べていませんが、レベル3までです。カードゲームは回答がきちんとでるようになっているからです。しかし、池末先生は授業の中でこの「カードゲーム」をやって終わりにはしないでしょう。

☆岡部さんは、こう述べています。

地球規模の自然現象を身近なものにおきかえて再現・説明するようなテレビ番組や本はけっこうある。が、社会の状態を捉えて身近なものに置きかえ体感させようというのは意外と少ない。そういう意味ではとても効果的な手法だ。

☆「カードゲーム」におけるルールが違うとコミュニケーションができないという体感が、異文化理解や国際社会での合意形成のモデルを再現・説明する置き換えモデルあるいはレトリックだったんだという気づきを生徒たちに議論させたとしたらどうでしょう。

Photo_2 ☆思考のプロセスは、「熟考・評価」にまで広がるし、レベルは5にも6にも深まりますね。ここまで来ると、池末先生ご自身も、私も同じように意識している東浩紀さんの「動物化するポストモダン」や平野啓一郎さんの「決壊」が共有する人間の問題と「カードゲーム」が結びつきます。

☆ハワード・ガードナー教授の「5つの精神」という物語・価値観を喪失してしまった人間の問題性ですね。ルールの背景にあるものです。「カードゲーム」ではルールの違いに気づくだけではなく、ルールの合意形成を一瞬ですがするシーンがあります。スーッと過ぎてしまうので、気づきにくいのですが、その合意形成はいかにして可能なのか?

☆このとき、合意形成の暴力的な方法に紛争・戦争が出てくることがあります。今回の「カードゲーム」には、3つのプロセスとレベル6まで考える可能性を含んだ仕掛けがあるわけです。時間が短かったので、2つのプロセスとレベル3までしか十分には体験できなかったわけですが、プロセスの広がりと、レベルの深まりの端子はきちんとセットされていたと思います。

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世界を変える学校[40]白梅学園清修の夏

☆今年も夏がやってきました。学校は夏休みに入ります。海に山に海外にグランドに行って、真っ黒になる季節ですね。白い歯の輝きが最高の季節です。

☆しかし、その一方でそれぞれの私立学校では、講習や補習も花盛りになります。教師も生徒も身体だけでなく脳みそも汗かく季節なわけです。

☆白梅学園清修の数学科教諭戸塚丈夫先生から夏のメールが届きました。その一部をご紹介しましょう。

・・・さて、清修では来週から夏休みに入ります。来週1週間については、フォロー学習期間として中1、中3(中2は渡英中のため)は任意参加も指名参加も含めて,午前中は各自で課題に取り組む期間となります。その中で、中3は前半(7月)及び後半(8月)の合計10日間のフォロー学習期間に夏期講習を組んで実施します。英数国で講座を組みました。その中で私の講座の一つに「東大・医系数学」があります。これは,平時に行っている放課後の「東大・医系数学」と連動している内容ですが、夏期講習としてテキストを作成しました。テキストは、講義パートと添削パートの2種類を作り、ごく自然に数学的思考力を連動して習得し、問題に対応していけるものになったと思います。問題も意欲アップに繋げることも考え、有名大学の入試問題を中心にセレクトしてあります。・・・

☆戸塚先生らしい数学の講座ですね。未知との遭遇時に、どうやって解決するか自ら思考をフル回転させ、何がわからないから先に進めないかという体験から始まるわけです。モチベーションとは、できたという気持ちの連続だという考え方もあります。もちろんだからテキストの構成は講義と添削のパートにわかれているのでしょう。

☆しかし、自分の知っているあるいは体験してきことをフルに生かして、未知の問題を解決しようというタフなチャレンジ精神こそが、内面から燃える消えることのないモチベーションなんですね。もっとも私立中高一貫校だからできる羨ましいカリキュラムづくりです。高校からでは、効率のよい大学受験勉強しかできないでしょうからね。

☆ところで、中2はイギリスにいるっていうわけで、知と経験の二重らせん構造のカリキュラム・デザインが教育活動の中でやっと見えるようになったのですね。1回生・2回生・3回生が勢ぞろいしたところで、生徒や保護者自身も、白梅学園清修のダイナミックな教育の躍動を実感できるようになったと思います。

☆白梅学園清修の夏。イギリス体験も講習も、身体と脳をフル回転させればさせるほど、きっと忘れられない思い出づくりになるでしょう。そしてその清修物語の蓄積が生徒たちの生きるエネルギーになるわけです。

☆それにしても柴田副校長の活躍ぶりはすごいですね。アジア遠征OECD遠征。小さな白梅の大きな動き。楽しみです。

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学習支援学@考[01]

☆今の子どもたちの環境は、劣悪であるなどという議論はまったく無責任だ。そういう環境にしたとしたらその責任は私たちも含め、先人達の責任であろう。今の子どもたちは自分の利益と興味しか感じなくなったという議論も同様だ。

☆劣悪になったかどうかという判断よりも、環境や基本的な感じ方・考え方が変わったのである。にもかかわらず、学びの方法論が学校教育で変わらない。そこが問題なのである。子どもたちがズレているのではなく、学校教育がズレているのである。子どもたちの欲していることを察知して、そこをきっかけに学びを展開していく。そういうことができるから私立学校は選ばれ、不登校やいじめに悩む子どもたちはフリースクールや通信制高校を選択する。

☆しかし、90%の子どもたちは、「わかりやすい」学び戦略によって、そのズレに気付かないようにされている。学力低下という危機感扇動型抑圧に耐えることこそ「優勝劣敗」レースでサバイバルできることだという共同幻想の中につかっている。

☆私たちは共謀共同強育を行ってきた。自らを変えなくては・・・。このままだと、自分たちも含めてゆでガエルだ。そうならないために、

1)私立学校を見直そう。通信制高校や他の全日制学校ではない教育機関に対する認識を高めよう。

2)受験市場以外にも教育全般に貢献しようとしている心ある教育関連企業の動向に注目しよう。

3)教育関連雑誌や新聞で、受験教育以外の学びの情報を大量に流そう。もちろんウェブサイトやブログでも。

4)レベル1からレベル6に積み上げていく学習ソフトではなく、レベル6から始まって、レベル1から再び出発し直すサーキット型学習ソフトを創ろう。

5)あらゆる産業、分野で学びのリーダーを育成しよう。学びのリーダーは常にインターフェースで学びの機会をつかむ。

6)学びのリーダーは連続文脈と非連続文脈を組み立てられ、広げられられる学習理論の熟練研修を受講する。数学的概念がポイントになる。

7)学びのリーダーは、子どもたちのロールモデルになろう。現実の中に価値を見出し、組み立て、矛盾に対するネガティブファンタジーを撃破していくロールモデルを。

8)自分という世界が変われば社会という世界も自然という世界も変わる。社会という世界が変われば自分という世界も自然という世界も変わる。自然という世界が変われば自分という世界も社会という世界も変わる。変わることと決壊することの倫理的差異を探究しよう。

☆などと呼びかけ風に箇条書きにしたが、例によって、この順番には従わずに、思いつくまま書いていこうと思う。

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私学の経済ポジショニング[14]私学のクオリティマーケット作りのために

☆最近、教育ジャーナリストや教育関係者と話をしていて、改めて確認することは、私立学校というのは、日本の教育学の研究対象になることは極めてまれだなという点である。

☆それゆえ、私立学校と公立学校の差異が、補助金の違い、生徒募集の方法論の違い、カリキュラムの違い、大学進学実績の違い、OBの活躍の違い、教育理念の独自性有無の違いなどなど、事実の差異としか語られない。つまりあまりにジャーナリスティックなのだ。いや物が売れればよいという「考えない営業」の理屈だ。「難しいことはいいよ、売れりゃいいんだ」というだみ声が聞こえてくる・・・。

☆それゆえ、私立学校のことについて表現するとき、「わかりやすく」語らなければなどという、誰が決めたかわからない呪文を唱える営業マンが多い。もちろん「考える営業マン」も入る。起業マンと呼んだ方がよいだろうが。

☆ともあれ、私立学校の生徒について、あるいは生徒と教師の関係について、心理学の角度から研究されているものは多いが、私立学校全体について、社会学的あるいは哲学的あるいは政治経済的に探究する研究者はあまりに稀である。

☆「わかりやすく」という呪文が、このような探究の壁になっている。「わかりやすく」とは日常言語でということだから、一つひとつの言葉が持つ分厚い構造(連続型文脈及び非連続型文脈)については無視される。だから、顧客満足と生徒・保護者満足は同じことを意味し、その差異がわからなくなる。

☆言葉の豊かさとは、知識の数ではない。まど・みちおさんや谷川俊太郎さん、工藤直子さんのひらがな詩を読んで、言葉の豊かさを感じない人はいないだろう。決して言葉の知識の量ではない。見方を変える言葉、新しい発見をする言葉、感動を生み出す言葉、概念を生み出す言葉であることが豊かだということだろう。

☆私立学校そのものについて、いろいろな分野や領域の言葉で語られるようにならないと実は私立学校の市場は、クオリティマーケットにならない。私立学校の市場と受験市場の差異がわからなくなっているのが現状だ。本来は、私立学校の市場>受験市場だろう。それが逆転しているとしたらどうだろう。

☆塾・予備校、マスコミの「わかりやすく」戦略は、私立学校の言論・思想・表現の自由を制限しているのである。アニメの世界から哲学の世界まで、広く深く私立学校について語られるようにならない限り、私立学校の教育が世界を変えることは難しい。クオリティ・マーケット作りこそ私立学校の未来の使命の一つである。

☆そしてここに到って公立学校との決定的違いが見えてくる。公立学校において、そもそもマーケットは存在しない。マーケットが存在していないところに平和は育たない。平和という言葉を「わかりやすく」教えることは行われている。だが、どこの世界に平和が「わかりやすい」などということがあるのだろうか。

☆「わかりやすく」戦略は、人々が自分の利益と興味のあるもの以外は平気で無視することができるように囲いの中で管理するのが目的である。東浩紀氏の言う「動物化された」(日本の場合は家畜化されたという方が当たっているのか?・・・)人間とは、言いえて妙であるなぁ。

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私学の経済ポジショニング[13] 東京私立男子中学校フェア研修会に参加して[02]

私学の経済ポジショニング[12] 東京私立男子中学校フェア研修会に参加して[01]のつづき。前回述べたように、テーマは「私立男子中高一貫校は、何を変えるのか?」にした。うまく話せたかどうかはわからないが、結論としては東浩紀氏の警鐘を鳴らしている「動物化したポストモダン」な人間を生み出している≪官学の系譜≫に対し、≪私学の系譜≫に立ち戻り、官僚近代化路線を、明治のときにすでに私学人が理想としていたもう一つの近代化路線社会に軌道修正をするような教育の実践こそ、男子校の使命ではないかと語ったつもりである。

☆会終了後、日本学園中学校の谷口先生から「私学人の理想あるいは生徒が拠って立つ背景や基準は、具体的には何か思い描いていますか」と問いかけられた。「それは各学校によってそれぞれ建学の精神があって、一つではないので、あえてそこは触れなかったんです」と答えたが、日本学園こそ横山大観、永井荷風、岩波茂雄といった官僚近代化路線とは違う、大きな知性を創造したOBがいる。

☆むしろそれについてお聞きするべきだったと、相変わらず浅薄で狭隘な自分に落ち込まざるを得ない。スピーチをするといつも枕が長くなって、用意していたレジュメの項目について話しきれない。今回も§1まで。本ブログで補足してみたいが、いつものごとく中途半端になるかもしれない。ご容赦を。まずはレジュメの項目を掲載。

§0)時代認識断片

○私学の危機(98年・99年首都圏受験率13%下回る)→08年20%超える
○技術者に求められるものの変化 byものづくり白書(08)経済産業省
○自動車保有率79,236,095台(06年)から79,080,762台(07年)by国土交通省
○女性の社会進出遅速・男性の圧力依然強い by「19年度男女共同参画白書」内閣府
○職場のいじめに関する相談前年対比で約6000件(27%)増(07)by厚生労働省
○08年大学入試の国公立大学前期日程工学部志願状況昨対比3.8%増(河合塾調べ)
○「課題先進国」日本~キャッチアップからフロントランナーへ 小宮山宏(中央公論新社08)
○「動物化するポストモダン~オタクから見た日本社会」 東浩紀(講談社現代新書01)
○「不可能性の時代」大澤真幸(岩波新書08)
○塾・予備校、教育事業企業の再編&統合の動き

§1)男子校の生徒の問題性

[問題提起]男子校の生徒の実態とは真逆の現代社会
「来るべき社会では、各人がばらばらの考えをもち、自分のまわりの局所的な利害にしか関心を向けていなくても、情報の集積がネットワークを介して全体の秩序を生み出していく。そこには抑圧も強制もない。人々は、高度な情報環境の支援を受けてたがいに緊密に協力している。あるいはさせられているが、そのことには気がついていない。それは確かにユートピアのように響く。しかし、筆者は、その状態こそが、巧みな「管理された環境」だと考える。そこで賞揚されている創発的な秩序の原理は、民主主義の蓄積よりも、むしろ統計学やゲーム理論にもとづいている。」(東浩紀「中央公論」2003年10月号)

○女子校の生徒の問題性との差異
○新しいリーダーの領域 クリエイティブ・クラス(3T)

§2) 問題性の解決のために

○ 男子校は≪私学の系譜≫に立ち戻る→改革型リーダーを輩出(女子校とは違う)
○ クオリティ・コミュニケーション(QC)に基づく授業
○ QCに基づく授業→入試問題の変化→中学受験マーケットの質の担保

§3) 社会の変化のための「教育と経営の関係」そして人間像

○教育の倫理と論理→新しい精神の原型
○経営の倫理と論理→新しい市場の原型
○5つのM ハワード・ガードナーの「5つのマインド」による
  ≪熟練・統合・創造・尊重・倫理≫
→男子校の生徒は、世界の子どもたちのロールモデル。

○広報の倫理と論理→新しい表現の原型

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私学の経済ポジショニング[12] 東京私立男子中学校フェア研修会に参加して[01]

☆2008年6月7日、新宿で23校の男子校が集結して「東京私立男子中学校フェア2008in新宿」を開催したが、その振り返りと来年の活動についてミーティングが先日あった。その中で私もスピーチするチャンスをいただいた。

☆このコミュニティを支えてきた人物は、攻玉社の教頭を経て本郷中の校長として活躍された高橋先生。2005年5月12日、大井町きゅりあん(品川区民会館)で、東京の私立中高一貫校15校が協働開催した私立中学合同説明会「夢限大」で、高橋校長は講演をされていた。そのときの様子を私もこう書いている。(参照→21世紀に広げよう、私立中高一貫教育「夢限大」

高橋校長先生は、社会性と社会力の差異に注目した。社会性は、社会に順応することである。社会に順応するというのは、実は個人主義的な側面でもあるだろう。一方社会力とは、社会を変える力だという。社会性は、その社会システムの信頼性や正当性に対する批判をすることなく順応することも可能だが、今のように社会システムが明らかに正当性や妥当性を有していない事態に対し、どのように社会を変えていくかその力をつけることこそが私学教育の肝だと主張されたと私は理解した。・・・ しかし、それはある意味孤高であろう。社会を変えるタフな人材作りを本気に考える現場の先生はどのくらいいるのだろうか。もしかしたらそういう危機意識を(高橋校長は)吐露されたのかもしれない。いずれにしてもこればかりは、強いリーダーシップが必要である。高橋校長先生のおっしゃる私学の心の教育は、他者の気持や状況を思いやるイメージネーションを豊かにすると同時に、社会を変える発想と論理を備えたタフで機敏な頭脳を鍛えるということでもあろう。

☆それゆえ、今回のスピーチのタイトルは、高橋校長に敬意を表して「私立男子中高一貫校は、何を変えるのか?」とさせていただいた。しかし、だいぶ背伸びしたテーマで、かえって高橋校長にはご迷惑だったかもしれない。

☆しかし、私にとっては、たいへん大きな収穫があった。かつて、高橋校長が社会を変える人材を輩出したいとビジョンを語ったことに対して、私は「しかし、それはある意味孤高であろう。社会を変えるタフな人材作りを本気に考える現場の先生はどのくらいいるのだろうか。もしかしたらそういう危機意識を(高橋校長は)吐露されたのかもしれない。」と書いたが、これはある意味あたっていたという確信を持てたことがそれである。

☆「ある意味」というのは、高橋校長は私立学校全体の問題として危機意識を持っていたし、私立学校の教師がすべて社会を変えるビジョンを持っているわけでもないという考え方もしていたということを意味する。

☆つまり、集結していた男子校の先生方の共通のビジョンは、社会を変えるという強烈な意志をもって、未来を創ることができるのは男子校の使命であるということなのだ。男子校にしか創れない未来、女子校にしか作れない未来、共学校にしか作れない未来があるという認識をしっかりもっているコミュニティが、「東京私立男子中学校フェア2008in新宿」を開催していたのだと確信した。

☆そして、男子校と女子校がそれぞれ創る未来は相互補完関係にあり、共学校もそうであるはずだが、そのことに気づいている共学校があまりに少ないということにも気づいた。おそらくこれが高橋校長の警鐘なのではなかったか。

☆しかしながら、当時の「夢限大」は、男子校も女子校も共学校も協力し合っていたので、そこを直接言うことは、受験生の保護者に動揺を与えてかねなかったので、レトリックに徹して語られたのだと思う。

☆したがって、今回のような男子校のみのコミュニティにおいてこそ、そのビジョンが明快に語られるのだと感じいった。しかし、この男子校にしか創れない未来、女子校にしか創れない未来、共学校にしか創れない未来は何なのか、私立学校自身が明快にしなければ、学校選択者はリスクを抱えることになる。こんなはずではなかったということになりかねないからである。この男子校のコミュニティは、そこをも明快に表現する先駆け的なポジショニングを占めているわけで、そこがとりわけ興味深い。

☆ただし、開成、麻布などがこのような男子校のビジョンづくりをしているコミュニティに協力参加していないというのはなんとも寂しい。≪私学の系譜≫をアピールする上でも、広く男子校のコラボレーションは重要である。東大を頂点とする知の鉄鎖をぶち切る知の自由が社会を変える。それは≪私学の系譜≫の大きな柱の一つであるはずではないか。

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私学の経済ポジショニング[11]私学経営研修会に参加して<05>

☆「私学の経済ポジショニング[10]私学経営研修会に参加して<04>」のつづき。§3 ≪8つのI×5つのM×3つのT≫では、以下の項目について少し触れた。ハワード・ガードナー教授とリチャード・フロリダ教授の理論がなぜポイントなのかについて確認してみたい。

●8つのI ハワード・ガードナーの「マルチ・インテリジェンス(MI)」による
言語能力・論理的数学的能力・空間能力・身体運動能力・美学的能力・人間関係形成能力・自己省察能力・自然との共生能力

●5つのM ハワード・ガードナーの「5つのマインド」による

  熟練・統合・創造・尊重・倫理

●3つのT リチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラス」による

  才能(Talent)・技術(Technology)・寛容(Tolerance)

☆まず、ハワード・ガードナー教授であるが、教授のMI理論はアメリカでも日本でも公立の学校や塾で活用されている。しかし、その活用の仕方は、特に日本においては、もしかしたら、魂のない方法論だけが独り歩きしている可能性がある。

☆しかし、教授は、実はMIも5つのマインド(以下5M)も方法論を明確には表明していない。あくまでビジョンあるいはコンセプトなのである。しかも教授の中で、MIと5Mはつながっているのである。ところがMIの方法論だけが独り歩きしているというのが現状なのである。しかもMIと5Mは分断されたまま・・・。

☆しかし、これは公立学校の制度的限界である。学びの理論にビジョンやコンセプトやまして理念は結び付けられないのだ。しかも、これはどんなに高邁な教師がいても絶対に結び付けられないように禁則処理されているのである。これが似非PISA型全国学力テストで露呈した。このことはまた後で語ることにするが、ともあれ私立学校は、これらの制限がかけられていない。そこがすごい。この制度設計をだれがしたのか。戦後の教育基本法をデザインした先人がたである。

☆ここに≪私学の系譜≫の重要性がでてくるし、MIと5Mをビジョンとして結び付けられる見識を私学は持っていることになる。≪私学の系譜≫の見識はハワード・ガードナー教授の属するハーバード大学に通じると考えてもよいのである。

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世界を変える学校[39]東京女子学園のクリエイティビティ②

世界を変える学校[38]東京女子学園のクリエイティビティのつづきです。第2回「The授業リンク」の会に、国際教育研究家の岡部憲治さんも参加していたので、今回の東京女子学園のDSの授業導入について自然と対話になりました。岡部さんはもともとDSなどゲームやインターネットの学びへの導入が、創造的な人材を育成できるし、少子化日本にとって勝機をつくることになると考えています。

*詳しくは)→ニンテンドーDSで「進研ゼミ」 。。。 どんどん進む、日本発の学習スタイル

☆もちろん、私たちにとって、日本が国際舞台で勝ち組になるかどうかなんかは、全くどうでもよいことで、大事なコトは、日本の創造的な技術を、世界のすべての子どもたちにシェアできるチャンスだということです。そのチャンスが、日本の国にとってどのような政治的あるいは文化的な成果をもたらすかは、それぞれが考えることで、大事なコトは貧富の差や様々な格差を解消するツールが進化することはよいことだという、まったくアダム・スミス的な、あるいはカント的な発想なのです。

☆この点については、東京女子学園の辰巳教頭も同じ問題意識でした。実は辰巳教頭も「The授業リンク」の会のメンバーで、今回お会いすることができました。「英語科の授業でDSを導入したことが、世界平和につながるというのは、教員にとっては、少し大げさな言い方かもしれないけれど、そうなることはウェルカム。うちの英語の先生方も、東京女子学園の英語の授業の中に世界平和の心があるのは事実よねと言ってますからね」と。

☆それにしても、DSの学習ソフトは山ほどありますね。山川の日本史や世界史の教科書で学べるソフト、TOEICや英検の学習ソフト、漢検のソフト、インド数学のソフト・・・。要するに学習指導要領の思考のレベルに相当するものは、今後すべて出回るのです。

☆学習指導要領は思考のレベルは3までというのがほとんど。つまり、情報を確認するレベル1、情報を整理するレベル2、情報を分類・照合するレベル3までということですね。

☆OECD/PISAは、さらに論理的思考というレベル4、批判的思考レベル5まで要求しています。中学入試の問題は、さらにさらに創造的思考というレベル6まで要求しています。

* 参照①)→学習指導要領を世界標準に

* 参照②)→PISA3側面とレベル

☆レベル3までは、学習ソフトとしてはツリー構造の知識でデザインできるので、作りやすいのです。しかし、レベル4以上は、正解がないオープンエンドな無限のネットワーク構造のデザインになるので、プログラムがあまりに多次元になりまだまだ技術がおいつきません。ここはやはり対話や議論の授業でしかできないでしょう。

☆となると、東京女子学園の次なる戦略が見えてきますね。レベル3までの文科省御用達の知識は、DSで生徒個々人が学び、授業ではどの教科でも批判的思考や創造的思考というレベル5や6までの考え・発信し合う授業に成長していくということですね。

☆21世紀型授業の総合学習の撤退を、文科省が判断したのは、もともとレベル3までしか想定していない学習指導要領では、無理だったということに過ぎません。総合学習は、レベル5・6のトレーニングの場なのですが、それをレベル3に合わせてやるという「プロクルステスのベッド」方式だったのですから、破綻するのは当然だったのです。文科省は驚いたでしょうね、なんとしっかり表現と思想の自由を規制したということに気づいてしまったのですから。PISA型の全国学力テストを実施していながら、「レベル」の話題はタブーなのはそういうわけなのです。

☆ここまでくると、≪私学の系譜≫の直系實吉理事長・校長のねらいが見え隠れしてきましたね。教科専門知識はDSで効率よく合理的に行い、教科すべての基礎学問であるレベル5・6の思考力は授業で徹底する。基礎というと文科省では、基礎基本で「易しいこと」とイコールで、ねじれていますが、實吉先生にとっては、教養であり人類普遍の原理です。そしてこの知が横断知、あるいは学際知です。

*≪私学の系譜≫直系とは、「江原素六―内村鑑三―南原繁ー氷上信廣」という戦後教育基本法の精神のハビトゥスを形成してきた麻布学園の文化遺伝子を継承しているということ。

☆麻布の氷上校長は、「新しい教養を!」とソクラテス型講座を開設していますが、氷上校長と同窓の實吉理事長・校長が、東京女子学園流儀のリベラルアーツを確固たるものとしようというのは、≪私学の系譜≫論から言えば、論理必然です

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The 授業リンク@考[03]教育の壁をいかにして超えるか ②

☆あらゆる分野でコミュニケーションが重要だと叫ばれています。ポスドクの問題も、専門知識はあるけれど、コミュニケーション能力がないよねと言われますよね。エンジニアの問題もクライアントのニーズを汲み取るコミュニケーションが必要だよねと言われています。教師学主催のセミナーでも「教育とコミュニケーション」が行われますね。授業の現場でも、面談でも、コミュニケーションが大事だと言われています。営業マンも顧客満足のためのコミュニケーションを学べと言われています。

☆そして一生懸命にコミュニケーションの方法論やメソッドの研修が行われています。その量は、驚くほど多いのです。しかしながら、コミュニケーションとは何かという研修はほとんど行われません。そりゃ思想になるからとか、難しい抽象的な話になるからとか、お金にならないからとか・・・。

☆こういうことを平気で言えるマネージャーや教授や教師がいる組織では、必ずパワハラ、イジメ、差別・・・などが起きています。コミュニケーションを大事にしているのに、スタッフや生徒のモチベーションは下がり、イジメが伝播し、雰囲気が悪くなります。

☆このような組織で行われているコミュニケーションのレベルといえば、コミュニケーションを双方向にとれるようになれば、それでよい雰囲気がうまれるというレベルですね。配慮や気遣いや思いやりがあればコミュニケーションはうまくいくというレベルですね。ニュートラルでフラットであればコミュニケーションはうまくいくというレベルですね。EQを大事にすればコミュニケーションはうまくいくというレベルですね。

☆しかし、このレベルの組織の問題点は、マネージャーや教師がmentorになっているつもりでいても、tormentorになっている場合が多いということです。このことに気づくには、思想もいるし、難しい抽象的な話も必要なのです。しかも、そのことについて組織メンバー全員で話し合う環境が必要です。

☆J.S.ブルーナーは科学の最前線の考え方は、幼児でもわかるようにカリキュラムを作らねばならないと言っています。これがコミュニケーションの妙技でしょう。思想や難しい抽象的な話を聞いているだけでわかろうとする、でも結局わからないから忌み嫌う。最悪のコミュニケーションですね。

☆コミュニケーションとは互いに問いかけることです。アウトプットとは、解答を言うことではないんですね。自問自答の両方の共有がコミュニケーションです。質問する側―回答する側という関係は、表面的には双方向だけれど、そんな偏向的コミュニケーションが、よい雰囲気を生むはずがありません。教える側―教わる側という関係よりは一歩前進というレベルなだけです。

☆そんなことを考えるトリガーになったのが、池末和幸先生の 「カードゲームを用いた国際理解」というワークショップでした。

*池末先生の講演は、共立女子中学で開催された第2回「Ths授業リンク」の会(2008年7月3日)で行われました。

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The 授業リンク@考[02]教育の壁をいかにして超えるか

☆昨夜(2008年7月3日)共立女子中学で、第2回「Ths授業リンク」の会が開催されました。講師は、同校の池末和幸先生。テーマは< 「カードゲームを用いた国際理解」― 「参加体験型」で授業を活性化 ― >でした。前回予告したとおり、池末先生はなかなかスリリングなプログラムを実行しました。現在の日本の教育の壁を参加者の目の前に映し出し、実感させたのです。

教育の壁について、もともと教員の問題意識は高いようです。たとえば、「教員免許:更新講習で教員の要望 生徒の心「教えて」--山形大学調査 /山形(6月5日13時2分配信 毎日新聞)」によると、

Photo 来年度始まる教員免許更新制度の導入を前に、山形大学教員養成機構運営委員会(渡辺誠一座長)が、更新に必要な講習内容の希望を教員に調査したところ、カウンセリングやいじめ・不登校への対処など「生徒の心理・生徒指導」に関する講習を望む教員が最も多かった。渡辺教授は「現場の教師が直面する問題が浮き彫りになった」と指摘している。・・・全体の4割・427人と最も多くの教員からの要望が「生徒の心理、生徒指導」。・・・免許更新制度導入の文部科学省の狙いは、専門的な教科の知識を最新のものに更新させ、教員に自信を持たせることだった。しかし文科省の想定を裏切る形で、専門知識の向上を図る「教科専門」に関する講習への要望は、156人と全体の1割弱にとどまった。

☆今回の池末先生の「カードゲームを用いた国際理解」のプログラムも、国際理解教育の知識を教える社会科としての専門的なスキルを提案するものではなく、生徒たち1人ひとりの気づきを想起するソクラテス型プログラムでした。そういう意味では問題意識は山形大学の調査と一見重なります。

☆しかし、池末先生のプログラムの重要性は、「生徒の心理・生徒指導」のプロセスや方法論にのみあるのではありません。アイスブレイキングと称して少しご自分の体験を話されましたが、そこにこそ重要な端緒があったのです。

☆プロセスや方法論がどんなに優れていても、出発点が違えば、その成果も違います。純粋理性から出発するのか、純粋欲望から出発するのかでカントとサドの違いが生まれてくるのです。論理的な思考も、出発点となる価値観が違えば、結果は自ずと違うわけです。その出発点とは何か?

☆それが東浩紀さんの「動物化するポストモダン」や平野啓一郎さんの「決壊」が共有する人間の問題です。ハワード・ガードナー教授の「5つの精神」という物語・価値観を喪失する人間の出現ですね。

☆池末先生のプロフィールを見ると、先生ご自身がカトリック学校出身で、青年海外協力隊に参加されています。共立女子の前任校は鹿児島純心です。筋金入りというか、人間をどうとらえるのかというのは、当り前のことになっていると思います。

☆第1回めの「The授業リンク」の講師は松田先生でしたが、両者の先生のプログラムの共通点は、自分の授業の公開でありながら、決して自己満足的な自分ヒストリーを語るのではなく、普遍性があるということです。

☆多くの教師は、プロセスや方法論について、いろいろな手法を取り入れていますから、一見普遍的なのですが、生徒に対する問題意識が、東さんや平野さん、ガードナー教授と共有されていない限り、普遍性はありません。

☆普遍性は抽象的だし難しいから、そんなの関係ない、もっとわかりやすい汎用性の高い方法論を学びたいという一見勤勉な教師の姿勢が教育の壁なのかもしれません。もっとも、にもかかわらず、このような学びを教師が起こすことは、日本の教育において格段の進歩でもあるのです・・・。

☆「The授業リンク」の会長川合正先生から、この会のメンバーも執筆している(川合先生ご自身の論文も掲載されています)著書「自分とも友達ともポジティブ・コミュニケーション~かかわりをトレーニングするワーク&ワークシート」(ほんの森出版2008年)をいただきました。

☆この本を帰り道電車の中で読みながら、川合先生は絶妙のタイミングをセットされたなぁと感じました。「The授業リンク」が越えなければならない教育の壁が投影されていたからです。川合先生の論考の出発点も、常に今の子どもたちの情況に対する危機感の共有から始まっています。だからこそポジティブ・コミュニケーションの探究なのです。

☆しかし、もしこの危機感の共有がなく、効率の良い葛藤のないコミュニケーションのトレーニングのための効果的方法論として活用するだけなら、ポジティブ・コミュニケーションは、実はネガティブ・コミュニケーションになってしまうよという警鐘の本だったのです。

☆池末先生の講演終了後、松田先生(明大明治)や次回の講師梅沢先生(中村中)とも少し対話ができましたが、改めて東浩紀さんや平野啓一郎さんの問題意識をシェアしていることを感じました。生徒のおかれた環境や心的問題、そして社会の問題を生徒とともに考え、いかにしてチェンジしていけるのか。それを社会や数学、理科の授業を通してダイナミックに実践しようと。私はエールを贈ることしかできないのですが・・・。

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世界を変える学校[38]東京女子学園のクリエイティビティ

☆ 「中学の英語授業にニンテンドーDS活用(ITmedia News 2008年06月30日 10時24分 更新)」によると、

東京女子学園は教室以外で任天堂のゲーム機を使うことを全面禁止しているが、教室では「ニンテンドーDS」が、英語を教える最新ツールになった。中学校教員の大久保素子さんは5月から、毎週の授業でDSと教材ソフトを使い、単語、筆記、聴き取りを教えている。「スーパーマリオ」などのゲームが長年禁止されていただけに、任天堂のゲーム機が歓迎されるとは生徒は思っていなかったという。「生徒たちは自宅でゲームで遊ぶためにこれを使っていたので、学校で使っていいと言われて最初は驚いた」と大久保さん。

☆おもしろくなければ授業でないという英語の東京女子学園らしい取り組み。今や、eラーニング以外の、電子機器を利用した「学習」を行なっている人の中では、「ニンテンドーDS」を使っている人が20.1%で最も多く、学習分野としては、なんといっても「語学」だと言われている。こんなおもしろいツールを学校で活用しない手はない。

☆しかし、一般的には活用するには3つの壁がある。

1)ゲーム機器を教育に持ち込めるか。

2)ゲーム機器の有害情報との結び付きを阻止できるか。

3)ゲーム機器は暗記を促進するが、思考力を促進できるか。

☆つまり1)教育の権威の壁、2)教育の倫理の壁、3)学びの理論の壁ということ。ゲーム機器を教育に持ち込むことは、市場の原理を授業の中に持ち込むことになる。だから教育の権威にこだわる学校の場合は、「DS」の活用は難しい。しかし、東京女子学園は、国際舞台で役立つ英語教育や海外研修プログラムを長年構築してきた。グローバリゼーションがいかに権威という抑圧を嫌うかについては、どこよりもよく理解している。哲学者カントも、永久平和は、軍事力や政治力よりもむしろ市場経済の力によることが大だと言っている。

☆もちろん、市場の原理は、そこに参加しているメンバーの教養が問われる。もし儲かればそれでよいというだけでは、市場の原理は、マズローの理屈で言えば、生理的欲求を満たすだけで事は済む。しかし、それだけでは、市場の原理は結果的には衰退する。市場の原理は倫理が背景にあってはじめて成り立つのである。市場そのものは資本主義以前から存在するのであり、市場と資本主義を混同してはいけない。

☆それから、従来の学習ソフトは、どうしても暗記や知識の整理が中心。e-ラーンニングは双方向的なコミュニケーションができるから、徐々に定着してきているが、ゲームの場合、まだまだハードの能力の方が追い付いていない。ところが、「DS」は、画面が2つあり、インプットとアウトプットのサイクルを楽しめる。これはコミュニケーションの出発点であり、自問自答のサイクルでもある。

☆この機能を十分に生かした学習ソフトの開発が、今進化しつつある。ところがだ。学校の授業そのものが、一方通行的講義スタイルのものばかりだったら、どうだろう。双方向のツールそのものが必要ないということになる。ここに従来の学びと新しい学びの葛藤がある。この新しい学びの潮流は、実はIT革命と89年のベルリンの壁崩壊、つまり冷戦終焉とともに始まった。従来の学びにこだわる保守主義は、世界の平和と格差問題解決の壁になっていることに気づかない絶望的日本の教育の現状でもある。

☆辰巳教頭によると、21社が取材しに訪れたという。すごいことだ。ただし、マスメディアであるならば、東京女子学園の今回の挑戦が、いじめなどを増幅する抑圧や権威を崩すスーパーフラットなアート的発想であることを見抜かねばならない。また、同時に新しければそれでよいのではなく、リベラルアーツとしての私学の伝統がベースにあることも評価せねばならない。そして、なんといっても新しい学びの開発=学びのイノベーションに挑み、それが平和や貧困問題解決につながることに気づかねばならない。

☆革新と倫理と創造。これが今回の東京女子学園の挑戦が拓いたコトなのである。

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