世界開きの学び[01]
☆停滞、閉塞、退屈、諦観、鬱屈、暗雲・・・というネガティブな雰囲気が急に晴れる瞬間がある。気づき、アハ体験、閃き、セレンディピティ、トリガー、解明、超気持ちいい・・・という瞬間に直面することができるのは本当に心地よい。もっとも、さくらのはなびらのようにその瞬間はあっという間であり、試行錯誤、暗黒の幕の時代、悩みの連続、悶々、逡巡、瞑想、熟成・・・している時間の方が長い。
☆このように、日常生活というのは、停滞しているように見えるものであるが、それは新しい変化を生む準備だぐらいに構えておくことが肝要かもしれない。ただし、ただ待っていてもその瞬間は訪れまい。いつ訪れるかそれは計算できない(計算できるとそもそもつまらないだろう)が、その瞬間を創出する働きかけは常に気遣っておきたいものである。この言ってみれば、創造的な学びのことを、「世界開きの学び」とでも呼んでおこうか。海開き、山開き、川開きなどという言葉は、ワクワクドキドキの響きがある。自然と心身との触れ合いが、存在の響きを呼び覚ます。
☆しかもその存在の響きは、悲喜こもごもの事態や心情を称えるから不安と絶望と躍動感と聖なる雰囲気と・・・不協和音を奏でる。どうしようもないほど悲しくもあるし、畏怖せざるを得ない神聖な気持ちになるときもあるし、無限の喜びに浸るときもある。
☆なぜ人は、熟練しなければならないのか、鍛錬しなければならないのか、トレーニングしなければならないのか、未熟ではなく成熟していなければならないのか・・・。その答えは、この存在の響きの不協和音の性質にある。
☆不協和音が美しい音楽を奏でられるには、熟練した精神がポイントなのである。この精神がない場合、不協和音は壊滅的である。存在の響きは、混乱の響きを奏でるであろう。だから、公立学校社会は存在の響きの音を聴こえなくする抑圧をかけざるを得ない。はじめから存在の響きを奏でるツールを取り上げるのだ。自ら存在の響きを奏でさせたなら、社会は混乱するのではないかと恐怖するのである。一人前の社会人とは存在の響きを奏でないマナーや礼儀を体得していることということになってしまう。これでは15歳問題が生まれるのは回避できない。
☆本来、マナーや型、儀式、礼儀・・・は、新しい次元を開くパフォーマンスであるはずである。つまり存在の響きが奏でられる瞬間を開くのである。世界開きの学びの瞬間を、多くの人と語り合い、この瞬間で満ち満ちた世界を日本社会に創ることができたなら、それは少しは意味のあることではないだろうか。教科書の日常を捨てて、世界開きの学びを体験しようではないか。存在の響きは熟練という学びの中から生まれるのだから。
☆そんなわけで、まずは、照屋勇賢氏の作品をごらんいただきたい。著作権の問題もあり、写真をここに貼り付けることができないので、次のサイトをいったん開いて見てほしい。
☆Dawnという照屋氏の2つの作品。このトポロジー的両作品は、夜明けという世界開きにぴったりの学びの空間そのものである。キュレーター渡辺真也氏の表現もよい。コンセプチャルアートとコンテクスチャルアートの交差が世界開きの瞬間を生み出している。
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