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2008年8月

世界開きの学び[02]

世界開きの学び[01]のつづき。存在の響きを感じる瞬間。世界開きの音が聞こえる時である。もう一度、照屋勇賢氏の作品「Dawn」をご覧いただきたい、次のページをクリックして。

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☆キュレーターの渡辺真也氏は、アーティストの作品に埋め込まれた問いかけを開き、その瞬間に、有機的美しさと人工的な有用性/暴力性の近代のアイロニーを見いだしている。そしてアーティストがそのぜい弱な均衡性を表出し、見る側に、日常の背後にあるこの不安を感じるメタファーを構成し直す、アクティブな世界開きを促していることを示唆している。

Teruya ☆アートとは常に世界開きだし、その表れい出る世界は、常に根源的な存在とそのぜい弱さだと改めて感じた。わたしは、照屋勇賢氏の2つのDawnから、写真のような座標系のイメージを思い浮かべた。

☆日常において、私たちは、常にオオゴマダラの蝶のメタファーを忘却している。技術/道具と技術/道具の狭隘な世界で果てしない格差ゲームで疲れている。しかし、道具と自然はつながっているのである。と同時に、そこにも根源的な不安がある。道具なき自然。そこで人間は生きていけるのだろうか。

☆道具や技術が、忘れているものは、人間が自然とつながっていることよりも、むしろ人間存在を脅かす自然の存在への畏敬であるのかもしれない。そういえば、異常気象と言われているゲリラ豪雨とその雷鳴に、毎夜そんなことを感じている人がいるのではないだろうか。夜明けはいつくるのかと。

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私学の経済ポジショニング[25]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑩

私学の経済ポジショニング[24]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑨のつづき。形成的アセスメントを構成する3つ目の要素は、「多様なニーズを満たす様々な指導方法の活用」である。サブテーマは次の5つ。

1)教室での課業においていくつかのオプションを生徒に提供する。

2)概念を説明するのに異なるアプローチをしようとする。

3)豊富な種類の活動を持った活発な授業。

4)スケジュールが変化に富んでいる。

5)順調に伸びている生徒の学力を発達させることも、手助けを必要としている生徒に追加の補助を提供することも。

☆1)については、学習指導要領を拡大している領域はすべてオプションだと考えてよい。すべての教科で、文科省が与えるミニマムの境界をはるかに超えた内容が学習されている。

☆2)については、どの教室も電子ボードが使えるので、マルティメディアの学習ツールを使用することにより、概念を説明するのに異なるアプローチが手軽にできる環境になっている。しかし、数学に顕著なように、一つの問題の解き方を、代数的アプローチで考えてみたり、幾何学的アプローチで考えてみたり、多角的な考え方ができるように工夫されている。東大の問題を中学数学で解くチャレンジは、解くことが目的ではなく、数学とは何か、その本質に迫る授業が展開されているのだ。

☆3)については、議論、調査、発表、もちろん体験など、座学だけではないアクティブな授業である。

☆4)については、65分授業あり、短めの授業あり、セルフ学習の時間あり、エリアコラボレーションという地域密着型アクティビティありで、一日の中でも変化に富んでいる。一年通じて、校外学習も多様で、生徒は自律し楽しみながら活動しなければ、目が回るほどだろう。

☆5)については、これはそれぞれの生徒の学習ゴールを調整することと同じであるから、すでに前回紹介した。セルフラーニングタイムで、指名制・発展学習・飛び級的発展学習という3階層で柔軟に対応している学習環境を設定している。

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私学の経済ポジショニング[24]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑨

私学の経済ポジショニング[22]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑧のつづき。ジャネット・ルーニー氏の語る6つの形成的アセスメントの要素のうち、2つ目の要素に進もう。その要素は「学習ゴールの確立とそれらゴールに向けた個々の生徒の学力進歩の追跡」であり、そのサブ要素は、次の2つ。

①生徒の学力進歩を追跡すること。

②学習ゴールを調整すること。

☆①についてだが、入試→学力状況を診断するテスト→アチーブメントテスト+各種検定試験→・・・・と続いていて、すべてデータベース化されている。このテスト以外にも、確認テストや添削や論文指導、スピーチ指導などが織り込まれている。すでに紹介した毎日のSTUDENT BOOKもある。

☆単純にテストの得点スコアの推移を見るだけではなく、どの問題のどこの思考プロセスで躓いたのか、どうすればクリアできるのか、白梅学園清修の教師は日々探究把握している。

☆②については、あらゆる学習環境の中で行われているが、最も特徴的なのはセルフラーニングタイムだろう。これについては清修のホームページに的確に紹介されているので、それを引用する。

●月~金までの放課後の1コマは、指名制による「その日のうちの理解」と、「発展学習」に着手できる自学自習空間を設けます。自己学習といっても、完全に放任するわけではありません。全教科担当が常駐し、生徒の学習をタイムリーに手助けします。

●「飛び級」的な発展学習にも挑戦します。
授業の際に「発展学習」としての教材を紹介し、放課後に解答・解説を行います。また、中1の段階から「大学入試アプローチ学習」として、理科・数学にも重点を置いた知的刺激教材に組み込んでいます。

●自己管理を徹底します。
中学の3年間は「スチューデントブック」を用いて、生徒が自身のスケジュールを組めるよう、生徒一人ひとりのスケジュールを見て、丁寧にアドバイスします。そうすることで、次の3年間はしっかりと自分自身で組み立てることができるようになります。

☆指名制・発展学習・飛び級的発展学習という3つの段階に分けられるには、生徒の学力進歩を的確に把握していなければならないし、清修の場合は、この把握を生徒とも共有している。生徒自身が振り返る力を持つようになるからこそ、セルフラーニングタイムは意味があるのである。そしてここでもログブックとしてのSTUDENT BOOKは大切な役割を果たしている。

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私学の経済ポジショニング[23]東京都私立学校展開催される

Sigaku ☆8月23日(土)・24(日)の2日間、東京国際フォーラムにおいて、東京都私立学校展(進学相談会)が開催された。東京都のすべての私立小学校、中学校、高校が一堂に会した。98年・99年の私学危機以降、各学校が開催する独自の説明会だけではなく、私立学校が協力し合って私学の存在意義を世に問う重要なイベントとして開催されるようになった。

☆私学の存在意義とは、大げさなと言われるかもしれない。しかし、良し悪しは別にして、先日プロ初優勝した石川遼選手にしても、北京オリンピックで史上初の平泳ぎ2大会連続2冠を達成した北島康介選手にしても私立学校出身だし、東京大学の進学実績を圧倒しているのも私立学校である。いかに私立学校の総合的な教育の質が高いかわかるだろう。

☆しかし、2006年に教育基本法が改正されてからというもの、それに基づいて着々と≪官学の系譜≫の巻き返しが水面下で進んでいる。私立学校展を開催しながら、私立学校の経営陣は、そのリスク回避のために奔走し、理論を組み立てている。

☆今や私立学校の教育の質は、世界標準を超えている。ただし、まだまだ見える化されていないし、それを表現する形式知=新たなコードが確立されていない。新たなコード=選択指標を確立し、表現する言論の自由の保守こそ私立学校の使命であり、一方でジャーナリズムの責務でもある。今後のマスコミの表現革命に期待したい。

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09年中学入試に向けて[20]武蔵の行方

武蔵高等学校・中学校の学校案内を拝読し、教育の質の高さを改めて確認しましたが、いつも感じる違和感は何だろうと思いめぐらしてみました。でもわかりません。ただ、「自由」という校風にも、違和感がやはりあるのです。

☆自由とは個性や独自性の保障でも条件でもないのですが、武蔵の場合はそんな感じがするんですね。個性や独自性は自由の条件であるかもしれませんが、その逆は真ではないような気がするんですね。

☆しかし武蔵はあまりに自調自考の条件として自由があるような気がするのです。EUやアメリカとは違う自由、フランス革命の自由とはまた違う自由・・・。

☆勝手気ままな表面的な自由とは、もちろん違います。もしかしたら学問の自由という制限付きの自由なのかもしれません。社会改革とかには無縁な感じがします。

☆だから、従来のような学問的価値より経済的価値を前面に出している東京大学での研究の意味を見いだせなくなっている在校生がいるのではないでしょうか。今や東京大学は学問だけやっていればよいという雰囲気ではないですからね。学問と経済は両輪という感じでしょう。

Photo ☆しかもこの傾向は地球規模で広まっています。だから大学へのモチベーションは、かつてとは違う何かが生まれているのではないでしょうか。しかし、学校当局自身は、建学の精神や教育理念におけるアカデミズムの考え方は変わらないのですね。どこか学尊民卑な、ちょっと≪私学の系譜≫としては亜流というか、何か違う感じがしてならないのです。

☆海外の提携校も、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、中国、韓国で、アメリカには、今のところ提携校を見つけていません。

☆武蔵の学長は、あの有馬朗人氏。東大総長や中教審の座長、参議院議員などを歴任した超有名な物理学者ですね。武蔵のOBでもあります。また東京大学の法学部の思想的ベースを作り上げた碧海純一氏もOBです。カール・ポパーの合理的でヘーゲルやプラトン大嫌いな分析哲学の系譜、つまり加藤弘之以来の≪官学の系譜≫を新しい革袋で継承した哲学者です。バートランド・ラッセル的な哲学の匂いもしますね。あの宮崎喜一元首相もOBです。

☆創設者が≪私学の系譜≫の第一世代ではなかったというのが、麻布や開成、女子学院と違う雰囲気の「自由」を形成しているのかもしれません。いずれにしても、武蔵の経営の論理と倫理からすれば、武蔵のアカデミズムのパラダイムの転換は必要な気がします。生徒自身にとっては、それは自分の問題で、学校自身は伝統を保守していれば、あとは自分が独自のベクトルを見つけるので、余計なことはしなくていいですよということなのかもしれませんが・・・。

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09年中学入試に向けて[19]都市大等々力

☆来春、東横学園は東京都市大学等々力中学校・高等学校として生まれ変わります。この変化というか、ある意味学園革命は、突然始まったわけではありません。変化の特異点は、2004年に、矢島了子校長就任から始まります。東横学園の歴史の中で、初めて女性の校長であったというのが、劇的でした。

☆五島育英会の中の組織改革でもあったのでしょうか。共生とフラット化を目指せる対応力を示唆する出来事だったと感じたのを思い出します。ともあれ、そこから学力革命とキャリアデザインの革命が生まれ、一つひとつ実行されていきました。

☆論理エンジン、グローバルエンジン、キャリアデザインなど、すべてがプログラム化され、道具化され、教育の理念という潜在的なものが形式化され、見える化されていったのです。

☆そして、矢島校長就任5年目ともなると、学園のPRに校長が前面に出てくることはなく、現場の教師や生徒の顔が表に出てきています。これはコンセプトが実現し、その成果が生まれていることを示唆しています。

☆そして、さらに来春は、武蔵工大、東横学園女子短大、武蔵工大付属中学校・高等学校、東横学園幼稚園、東横学園小学校、東横学園中学校・高等学校、武蔵工大第二高等学校すべてが「都市大」グループとして連携するわけです。

☆学びの環境、学びのツールはかなり立派な物がそろったと思います。あとはこれらの物の背景にある見識、教養、国際的視野などが、現場の教師の中に染み渡れば、とても興味深い私立総合教育機関が完成するでしょう。

☆そのような意気込みが、一部の教師だけではなく学内に広く伝播しているという証明は、「都市大」グループが≪私学の系譜≫に属していることを明らかにしなければなりませんが、それは五島育英会のミッションでしょうね。

☆まずは、来春の入試問題の質の変化に期待したいと思います。入試問題の質が論理エンジンやグローバルイングリッシュにつながるように創意工夫された問題として出題されれば、矢島校長の気概とビジョンが、現場の教師に浸透していることが証明されるでしょう。特に算数と社会がポイントですね。入試問題にまで革命が浸透しているかどうか楽しみです。

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私学の経済ポジショニング[22]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑧

私学の経済ポジショニング[21]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑦のつづき。ジャネット・ルーニー氏が語った形成的アセスメントの6つの要素のうちの「1)相互作用を促進する教室文化の確立とアセスメントツールの使用」の3つ目のサブテーマ「③単に活動を計画するというより、むしろ生徒の『学習』の計画を立てること」について。

☆たとえば、今日は数学の三平方の定理を勉強しようという学習活動のスケジュールを立てるだけでは、子どもたちの思考のプロセスはわからない。プロセスがわからなければ、どこでどんな感じ方をしているかわからない。感じ方がわからなければ、どこでどんなストレスを抱えているかわからない。

☆そこで、白梅学園清修は生徒手帳をアセスメントツールとしても活用している。六穴の生徒手帳「STUDENT BOOK」は、カバーは自由で、個性的だが、中身は白梅学園清修の教育が不易流行として存在している。不易の部分は、クオリティ・ライフをいかに作っていくかという生徒と教師のコミュニケーションの場であるというところ。流行の部分とは、六穴だから、ページを差し替えることが可能というところ。

☆「STUDENT BOOK」を毎日使うことによって、関数的な概念が鍛えられる。BOOKそのものは、方程式だが、中身は変数である。係数は、自分なりのデザインを選択したカバーである。この手帳のページのデザインや、それぞれのカバーデザインについては、かつて以下のページで紹介したので、参照してくだされば幸いである。

参照①)白梅学園清修の人気の秘密

参照②)白梅学園清修の見えないカリキュラム

☆さて、形成的アセスメントの話に戻ろう。このSTUDENT BOOKに、生徒は家庭学習を何時間するとか、家の手伝いとして何を行うのかとか、何時間寝るのか、体調はどうかというのを書き込む。生徒自身の振り返りとして実に有効だが、同時に、毎日教師もこのページを共有し、メッセージを投げかける。自由記述のところには、生徒の思いが書き込まれ、教師は共感する。

☆人間関係について悩む生徒もいるだろう。そのとき教師は共感し、メンターとしうてメッセージを投げかける。このコミュニケーションが「学習」の計画を立てることなのである。つまりあなたはこういうレベルだねと決め付けるのではなく、どうしたらよいのかいっしょに教師が考える。そしてメッセージを投げる。このメッセージこそが形成的アセスメントである。

☆そのメッセージをどう受けとめ、どう考え、どう感じ、何をすべきなのか。生徒自身が考えるきっかけになる。もしきっかけにならなければ、それは教師のメッセージに問題があるのかもしれない。生徒と教師の信頼関係に何か課題があるのかもしれない。mentor(よき助言者)のつもりがtormentor(苦しめる人)になっているのかもしれない。

☆ある生徒にとってはmentorとしてのメッセージだが、他の生徒にとってはtormentorとしてのメッセージになっているかもしれない。

☆この試行錯誤がなければ、本当は「単に活動を計画するというより、むしろ生徒の『学習』の計画を立てること」などできないのだ。そんなことを実行している学校がたくさんあるだろうか。この問いにポジティブな回答が用意されていないのが日本の教育の実態だろう。白梅学園清修の試みが全国から注目されているのは、ここなのだ。

☆そして、忘れてはならないのは、tormentorになるリスクヘッジをどうするかである。どんなに配慮しても教師はtormentorになってしまう場合がある。ならないように研修はするが、なってしまう時もある。ならないようにするには、勉強だけ教えていればよいのだが、それではタフでタレント豊かな人間作りはできない。問題は許容と寛容なのだ。この信頼関係のマネジメントを、生徒・保護者・教師の間に貫徹できるリーダーシップの存在が肝要である。

☆今のところ柴田副校長がそれを担っているが、おそらくエンパワーメントを研修の中で実行しているであろう。これがハビトゥス(文化資本の再生)であり≪私学の系譜≫づくりである。そこらへんは、いずれまたご紹介したい。

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世界開きの学び[01]

☆停滞、閉塞、退屈、諦観、鬱屈、暗雲・・・というネガティブな雰囲気が急に晴れる瞬間がある。気づき、アハ体験、閃き、セレンディピティ、トリガー、解明、超気持ちいい・・・という瞬間に直面することができるのは本当に心地よい。もっとも、さくらのはなびらのようにその瞬間はあっという間であり、試行錯誤、暗黒の幕の時代、悩みの連続、悶々、逡巡、瞑想、熟成・・・している時間の方が長い。

☆このように、日常生活というのは、停滞しているように見えるものであるが、それは新しい変化を生む準備だぐらいに構えておくことが肝要かもしれない。ただし、ただ待っていてもその瞬間は訪れまい。いつ訪れるかそれは計算できない(計算できるとそもそもつまらないだろう)が、その瞬間を創出する働きかけは常に気遣っておきたいものである。この言ってみれば、創造的な学びのことを、「世界開きの学び」とでも呼んでおこうか。海開き、山開き、川開きなどという言葉は、ワクワクドキドキの響きがある。自然と心身との触れ合いが、存在の響きを呼び覚ます。

☆しかもその存在の響きは、悲喜こもごもの事態や心情を称えるから不安と絶望と躍動感と聖なる雰囲気と・・・不協和音を奏でる。どうしようもないほど悲しくもあるし、畏怖せざるを得ない神聖な気持ちになるときもあるし、無限の喜びに浸るときもある。

☆なぜ人は、熟練しなければならないのか、鍛錬しなければならないのか、トレーニングしなければならないのか、未熟ではなく成熟していなければならないのか・・・。その答えは、この存在の響きの不協和音の性質にある。

☆不協和音が美しい音楽を奏でられるには、熟練した精神がポイントなのである。この精神がない場合、不協和音は壊滅的である。存在の響きは、混乱の響きを奏でるであろう。だから、公立学校社会は存在の響きの音を聴こえなくする抑圧をかけざるを得ない。はじめから存在の響きを奏でるツールを取り上げるのだ。自ら存在の響きを奏でさせたなら、社会は混乱するのではないかと恐怖するのである。一人前の社会人とは存在の響きを奏でないマナーや礼儀を体得していることということになってしまう。これでは15歳問題が生まれるのは回避できない。

☆本来、マナーや型、儀式、礼儀・・・は、新しい次元を開くパフォーマンスであるはずである。つまり存在の響きが奏でられる瞬間を開くのである。世界開きの学びの瞬間を、多くの人と語り合い、この瞬間で満ち満ちた世界を日本社会に創ることができたなら、それは少しは意味のあることではないだろうか。教科書の日常を捨てて、世界開きの学びを体験しようではないか。存在の響きは熟練という学びの中から生まれるのだから。

☆そんなわけで、まずは、照屋勇賢氏の作品をごらんいただきたい。著作権の問題もあり、写真をここに貼り付けることができないので、次のサイトをいったん開いて見てほしい。

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☆Dawnという照屋氏の2つの作品。このトポロジー的両作品は、夜明けという世界開きにぴったりの学びの空間そのものである。キュレーター渡辺真也氏の表現もよい。コンセプチャルアートとコンテクスチャルアートの交差が世界開きの瞬間を生み出している。

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09年中学入試に向けて[18]中高に与える附属小学校の影響

☆読売ウイークリー(2008年8月31日号)で、新連載が始まりました。それは、教育ジャーナリスト鈴木隆祐氏による「短期集中連載 最高の授業」で、私立小学校バージョンです。鈴木氏は、「名門中学 最高の授業」(学研新書2008)を書きあげていて、私立中高一貫校の最高の授業の取材とその表現において評価が高いジャーナリストですね。

☆すでに「名門高校人脈」を書き上げていますから、今度はいよいよ名門中学の附属小学校の取材に乗り出したようです。鈴木氏はフランスの社会学者ピエール・ブルデューの文化資本の再生産の分析概念「ハビトゥス」を取材の枠組み(価値基準)としています。

☆社会学的には「ハビトゥス」は、組織を硬直化したり、新しい変化を阻害したりする文化資本の再生産を分析する概念ツールですが、鈴木氏は、「ハビトゥス」を価値中立的に活用しています。

☆硬直化する頑迷な文化資本再生産装置としての「ハビトゥス」という意味でも使うときもあるだろうし、常に内生的成長を続けるイノベーション開発としての文化資本再生産装置としての「ハビトゥス」という意味でも使っています。

☆ある意味、近代の文化資本の再生産装置としての「ハビトゥス」のアイロニーを語れる道具的活用をしているので、鈴木氏の活用の方法はより戦略的だともいえますね。

☆さて、第一回目は、洗足学園小学校と西武学園文理小学校が取り上げられていました。小学校卒業の進路は必ずしも付属の中高ではないというところを「ハビトゥス」的考え方から見ればどう解釈するのかは、なかなか難しいですが、いずれにしても両校とも、中学受験学力以上の教養知を小学校からトレーニングしています。

☆洗足の場合は、読書体験と音楽体験の充実。西武の場合だと、グローバリゼーションにつながる英語教育と幾何学を通して論理的な言語力を身につけさせる授業の開発というところに焦点が当てられていました。

☆そして見逃してはならないのは、富裕層やニューリッチ層が、両校の新しい学びの環境を支持しているということですね。格差問題を作りだすと非難する前に、未来の学びとは何かをリフレクションできる層のニーズを、文科省は謙虚に調査する必要があります。彼らに背を向けて、全国学力テストによる調査をしても、それは泥沼にはまってしまった自分が、そこから抜け出すときに、自分の髪の毛を引っ張って抜けだそうとする無益な行為に似ています。

☆ルサンチマンの裏返しの権力構造をフラット化することが、文科省自身のミッションのような気がします。最近「全国学力・学習状況調査の分析・活用の推進に関する専門家検討会議」が、公表した2007年度調査の追加分析結果は、膨大な量があるからまだホームページに掲載していないということです。もしお急ぎの場合、大学の教員ならお渡しできますが、一般市民の方は掲載されるまで待ってくださいということらしい。納税者国民よりも権威を選択するとは。。。まだまだ官尊民卑、学尊民卑ですね。担当官は、上から言われていますから、ご勘弁をということのようですが・・・^^;。

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09年中学入試に向けて[17]必見!武相の教育

☆今日08年8月15日は63回目の終戦記念日。この時期になると武相中を思い浮かべます。なぜかというとですね、武相中と武相荘が重なるからです。最初は文字が重なったのですが、今では、精神的なつながりも感じます。

☆武相荘(ぶあいそう)とは、あまりにも有名ですが、白洲次郎の隠遁のすみかですね。動物化するポストモダンに対し、あの世で機嫌悪そうにしている白洲次郎の表情が思い浮かびます。筋金入りのジェントルマンで、敗戦国日本でありながら、戦勝国とフェアに、でも頑固にも議論をし続けた日本の魂であると同時に普遍的な魂の持主です。普遍的な原理は、あまりにも人気がないのですが、この原理を持てなかったり、尊重できないということは、異文化を乗り越えて合意形成ができないということを意味します。

☆そしてその白洲次郎の普遍的な精神は、イギリスの伝統的なパブリックスクールの精神が流れ込んでいるケンブリッジで育成されました。リベラルアーツの賜です。武相荘はその記念すべき拠点です。がしかし、そこを訪れてその精神を感じることはできても、育成はされません。

☆そこで武相中と結びつくのです。そのプログラムを開発し実践している男子中高一貫校の拠点の一つが武相中だからです。

☆中学3年間一クラス25人の教育システムです。一学年120人以上いるにもかかわらずです。たまたま人数が少ないからという消極的理由からではなく、経営の倫理としてこのシステム構築を決断しているのです。こんな男子校はなかなかないですよ。

☆先月の末にHonda「発見・体験学習」のプログラムを行っていますが、テーマが「自己研鑽」です。言いえて妙でしょう。このプログラムは、チーム・ベースの探究プログラムです。少人数教育でありながら、チームを大事にする。つまり、解説は飛ばしますが、個人と社会のパラドクスを昇華するのが武相中の教育の原理なんですね。そしてこれこそ本当の意味でのエリート(この言葉は日本では東大などの難しい大学に入って、官僚や一流企業の戦士になることを意味するので、残念です)養成、つまりリベラルアーツの拠点なんです。

☆夏休みが終わり9月が始まったら、すぐに説明会や理科実験教室、夜の説明会などが目白押しに予定されています。そこには教育ユートピア空間があります。学びと幸せの両立を探しに参加してみませんか。

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私学の経済ポジショニング[21]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑦

私学の経済ポジショニング[20]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑥のつづき。ジャネット・ルーニー氏が語った形成的アセスメントの6つの要素のうちの「1)相互作用を促進する教室文化の確立とアセスメントツールの使用」の話に戻ろう。2つ目のサブテーマ「②生徒の個性や文化の違いを認めること」について。

☆これは、言うは易く行うは難しという側面だ。日本の教育は、生徒の個性を大いに認めていると言われるかもしれない。しかし、現実は違うと謙虚に受けとめたほうがよい。個性を認めていたなら、40人学級の運営は、もしかしたらできないのではないだろうか。

☆その点においても白梅学園清修は、少人数クラス編成である。しかし何より、どうやって個性や背景にある文化資本を知ることができるのだろうか。

☆だいたい個性とは何だろうか。個性の違いは、共通の基準に照らし合わせて知ることができる。ルーニー氏のいうクライテリアというものがあるかどうかが肝要ということ。白梅学園清修の場合、それはまだ成文化されていない。もしかしたらイギリスの法概念と同様、不文法でよいのかもしれない。慣習や判例の集積とその共通解釈を、教職員、生徒、保護者が作っていく。その対話や議論の過程を大事にしているのかもしれないし、それが伝統となり白梅学園清修の文化資本となる。

☆だから、毎朝正門から玄関まで、教師が立ち、生徒を迎える。それは形式的な挨拶をすることが目的ではない。その日の生徒との呼吸のリズムと心理的距離感を体感しているのであろう。リズムや距離感は生徒一人ひとり日々違う。まったく同じなのも問題があるかもしれないし、逆に日々違うことが躍動感を示していたりする。マニュアル化できない重要なシーンである。

☆教職員は自分の感覚を他の教職員と対話することで、ズレを認識し軌道修正して、生徒にたち臨む。生徒一人ひとりが腑に落ちる声掛けをする。ルーチン化した声掛けは個性を埋没させる。言葉は常に生き物であるというのが白梅学園清修の心意気だ。クライテリアを日々確認するシステム。これが個性や文化資本の違いを映し出す清修の奥義なのではあるまいか。

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09年中学入試に向けて[16]聖園女学院の教育の質深まる

☆6月のオープンスクール、7月のミニ説明会で、聖園女学院は、さらに教育の質の深まっていることを示しました。毎年同学院では、在校生、卒業生、保護者の声を公開しています。毎年大学進学実績の成果を上げているわけですが、それは教育の質による成果の一つにすぎません。

☆最も重要な教育の成果は、生徒一人ひとりの存在の響きが内面で奏でられ、聖園女学院全体の響きとして共振している日々の姿そのものです。その日々の在校生の存在の響きを聴くことができるのは、学院の先生方が、日々の生徒の声をポートフォリオとしてきちんと集積し整理しているからです。

☆そのような教師が生徒の細かい様子をデータとして集積する姿勢こそ、得点や偏差値を超えた形成的評価をしている構えなのです。形成的評価は、常に生徒を見守り、頻繁に生徒と対話する中でしか生まれません。古くて新しい、世界中で見直されている評価方法です。形成的評価とは、生徒の力を見切るのではなく、生徒自身も気づいていない自己の才能を共に見出し、伸ばしていく評価なのですね。

☆当たり前のようだけれど、多くの学校ではまだまだ従来型の評価方法が一般的です。聖園女学院の教育の質が良質なのは、他校と違い形成的評価が日常化しているところです。そして、今回の説明会資料で、とうとう進路指導と教科の連動プログラムを、具体的に示す資料を作り上げました。

昨年も進路指導部長の平野先生の見事なプレゼンテーションについて触れましたが、今回は先生ご自身がもっと具体的に見える化しています。生徒が自分の生きがいや将来をいかに生きるかをどのように考えるようになるのか、自分で気づいたその将来をどのように実現化するのか、そのプログラムについて具体的に証明する資料を編集されていました。

☆「ガイダンスのやり方→生徒の反応としてのノートの記述→それに基づいた授業のオリジナルプリント→生徒の授業の実際のノートのサンプル→授業後のテストとテストの評価の具体例→生徒の問題意識をレポートに編集→さらに生徒の進路を深める探究→生徒による進学のための学習戦略→生徒の生涯学習プラン→・・・」というように教科と人生の学びのポートフォリオの一例が公開されました。

☆日々の生徒の成果を、これほど丁寧に表現できる学校というのは、意外とないのですね。結局毎学期のテストのスコアとしての結果の集積があるだけです。偏差値や得点などの推移と合格した大学の対応のデータで終わるというのがほとんどでしょう。

☆しかし、グローバルな教育の動きとしては、このような評価以外の研究も進んでいます。OECD/CERI(教育研究革新センター)では、このような従来型の評価をサマティブアセスメント(総括的評価)とし、これだけではクリエイティブかつ倫理的な精神をもった未来の人間を輩出することができない。そのためには、フォーマティブアセスメント(形成的評価)の方法とその判断基準を探究することが必要だという認識に立っています。この形成的評価は決して新しい評価ではないにもかかわらず、十分に実践されてきたわけではなくいのです。21世紀型社会に対応する教育システムに必要だという再評価がされていると捉えるとよいのでしょう。

☆聖園女学院が目指している社会はキリスト教主義的社会ですから、創立以来はじめから20世紀型社会には批判的精神で臨んでいました。理想に向かって生徒を育成してきたので、はじめから形成的評価を当然のごとく実践してきたのでしょう。社会が聖園女学院の教育の質にようやく追いついてきたと捉えることができるのではないでしょうか。

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私学の経済ポジショニング[20]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑥

私学の経済ポジショニング[19]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑤のつづき。そうそう、これも忘れないうちに書き留めておかなくてはならないのであるが、ジャネット・ルーニー氏は総括的アセスメント不要論ではないのである。むしろ、総括的アセスメントと形成的アセスメントのバランスを大事にする。

☆このバランスがうまくいけば、両アセスメントのシナジー効果が生まれる。つまり、総括的アセスメントを活用する従来型のテストのデザインが変わるというのである。そのようなテストでも十分、思考の広がりや深まりを測るデザインが可能になるというのだ。

☆たしかにOECD/PISAのテストの作り方はそうだし、全国学力テストのB問題も、巧くはいっていないが、それを狙っている。公立中高一貫校の適性検査もそうかもしれない。麻布や開成、海城の中学入試問題は、すでに形成的アセスメントができるデザインが埋め込まれている。

☆白梅学園清修でも、数学科の戸塚先生は、同じようなテストのデザインにチャンレンジしている。算数であっても、数学的思考力のプロセスを見ることができる問題づくりの創意工夫をしている。生徒の思考のプロセスに注目すれば、一人ひとりの思考力育成のメニューが的確にできる。

☆学びの領域ではなく、学びのプロセスに注目することによって、中学の段階で解決できる大学入試問題もある。中3の夏の講習では、大学入試問題にチャレンジしている生徒がいる。しかし、高校数学の知識があるわけではない。数学的思考力でぶつかっているのである。

☆このシーンは実にシンプルで深い話なのである。いずれジョージ・バークリーの関数概念思考を紹介したいと思っているが、バークリーと同様の思考の革命が、形成的アセスメントを埋め込んだテストには反映している。こんなことを言っていると、柴田副校長に叱責されそうだが、結論から先に言うと、総括的アセスメントは物質主義的考え方で、形成的アセスメントは超物質的考え方なのである。思想の永遠の論争である普遍論争に突入する。

☆総括的アセスメントか形成的アセスメントという問題は、人類の古くて新しい問題なのである。

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私学の経済ポジショニング[19]OECD専門家セミナーと白梅学園清修⑤

私学の経済ポジショニング[18]OECD専門家セミナーと白梅学園清修④のつづき。2008年8月29日、千代田区丸の内にある東北大学東京分室で、「専門家セミナー」が開催(主催 国立教育政策研究所 初等中等教育研究部・共催 東北大学大学院教育学研究科)され、OECD/CERI(教育研究革新センター)の評価研究プロジェクトリーダーだった、ジャネット・ルーニー氏と共に白梅学園清修の柴田副校長がスピーチをされたわけだが、なぜ東北大学の有本教授が柴田副校長を招いたのか。

*テーマは「キーコンピテンシーと形成的アセスメント」。

☆その点について、先進事例としてしかあまり考えが及んでいなかったが、本エッセイを書きながら、ふと気づいたことがある。なかなか先に進まず本題からそれるかもしれないが、極めて重要なことなので、忘れないうちに、書きとめておきたい。

☆形成的アセスメントというと、どうしても生徒の学びのプロセスに目がいきがちなのだが、白梅学園清修に入学する時点でもそれがあるのだ。入学試験それ自体は、総括的アセスメント(サマティブ・アセスメント)。つまり何点取れたかで合否という評価が決まる。

☆しかし、入学してすぐにチームベースのオリエンテーションやプログラムが始まる。しかもそのプログラムは入学者が決まってすぐに調整されるのだ。もし入学試験の結果だけでプログラムを作るとなると、こういうきめ細かい作業は不可能だ。入学試験以外に何がなされているのか?何もなされていないのだ。

☆ただし、多くの生徒は白梅学園清修の教師、特に柴田副校長とは、学校説明会終了後の個人面談(相談会)で対話をしている。あっ、そうか。ここから生徒の特長を把握しているのである。

☆これらはまったく合否には関係がない。ただ、入学後すぐにどのように一人ひとり育てていくか担任を中心にプランを立てるためのデータになる。形成的アセスメントの特徴は、とにかくその生徒のデータを細かく大量に収集し、分析するところから始まる。

☆なるほど、有本教授の直観は的中したわけだ。大学進学実績や偏差値にこだわらない入試。つまり、教育の質で勝負する入試とは、言いかえると総括的アセスメントよりも形成的アセスメントを重視する入試ということなのだ。もちろん、合否は現状では総括的アセスメントで決まっている。何せ受験という既成のシステムがあるから、そこを無視するとマーケットから締め出されてしまう。

☆現状では、合否は総括的アセスメントで、そして入学するや否や生徒一人ひとりの育成プランを立てる際には形成的アセスメントでというシステムを構築していたのだ。

☆これはすごいことなのだ。なぜかというと、総括的アセスメントによる合否の判断基準は、得点数の大きさなのだが、形成的アセスメントによる生徒一人ひとりの知性(感性も知力も倫理性も含めて)の構造(特徴)を測るには、白梅学園清修独自のかつより公共性の高い(信頼性・正当性・妥当性のある)判断基準が確立されていなければならないからだ。

☆あっ、これが今回の専門家セミナーのもう1つのテーマ「キーコンピテンシー」の話だったのだ。あるいはセミナー中に話題になっていたクライテリア(criteria)だったのだ。

☆一人ひとりの生徒の知性の構造は違うのだが、その違いを明確にするためには、いくつかの要素をチェックする判断のポイント・基準があるはずだ。柴田副校長の場合だったら、

①集中力

②柔軟性

③協調度

④傾聴度

⑤トレーニング度

⑥忍耐力

⑦謙虚度

⑧熟考度

⑨リーダーシップ

⑩尊重姿勢

⑪開放性

⑫倫理性

⑬表現力

⑭創造力

⑮寛容性

ぐらいを瞬時に見抜く目を持っている。要素として分解してはいるかもしれないが、判断するときは包括的なのだ。

☆入試問題の得点が高いからと言って、以上の資質がすべて十分という生徒はいない。逆に得点が低くても、これらの資質の中でたいへん高い質を持っている生徒もいる。徹底的に生徒と話し合い、生徒の態度を見守るチャンスをつくることで、生徒の全体的な人間力が見えてくる。6年間で人間力の基礎を育成できるシステムが形成的アセスメント。総括的アセスメントで、どんなに高得点がとれる子でも、人間力が弱い子どもは、世の中にいっぱいいる。もしかしたら大学卒業後も、高得点力低人間力という社会人は増えているかもしれない。

☆このような社会問題の横たわる今日にあって、白梅学園清修がそれを解決するフロントランナーであるかもしれないということなのである。

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私学の経済ポジショニング[18]OECD専門家セミナーと白梅学園清修④

私学の経済ポジショニング[17]OECD専門家セミナーと白梅学園清修③のつづき。ジャネット・ルーニー氏は、「形成的アセスメントとは、学習ニーズを確認し、授業を適切に合わせていくための、生徒の学力進捗状況と理解の頻繁かつ対話型(インタラクティブ)のアセスメントである」と定義している。この定義を6つの要素に分け、さらにそれぞれの要素をいくつかのサブテーマに分けて具体的に説明するという構成で話された。

☆そして有本教授は、柴田副校長に白梅学園清修の教育実践報告をしてもらうことによって、形成的アセスメントの現実化のヒントを参加者と分かち合おうと仕掛けた。

☆そういうわけで、参加者の一人としてその理論と実践の重ね合わせを考えてみようとしているのだが、やはりちょっと筆者の力量では難しいところが山ほどある。ここは専門家に任せた方がよいのだろうが、だれかがやるまでは、続けてみよう。確約はできないが・・・。

☆さて、「1)相互作用を促進する教室文化の確立とアセスメントツールの使用」という第一の要素のサブテーマ「①生徒が教室で安心して自信を持てると感じるように手助けすること。」について考えているところだった。つづけよう。

☆柴田副校長は、報告の中で、各教室に設置してある電子ボードを使った授業についてスライドを見せながら説明していた。生徒が教室で安心できるというのは、実は世界標準の水準を超えた授業が保障されているということなのである。

☆この電子ボードは、事前に教材を準備して取り込んでおかねばならない。一般には、授業をやりながら黒板や白板に書き込んでいくのだが、清修の場合、その時間はカットされる。電子ボードに必要事項はすぐに投影されるからだ。カットされた時間で、生徒たちは議論ができるし、発表もできる。黒板に教師が書き込んだ情報をノートに写すインプット型授業ではなく、生徒も議論し、発表するアウトプット型。あるいは聞く授業ではなく、考える授業ということになる。相互作用を促進する教室文化の仕掛けが、電子ボードによって実現されているのである。

☆現象的にはなんてすばらしいシーンなのだと思うことだろう。そしてどこの学校でも真似したいと思うかもしれないが、それができないのだ。柴田副校長は、何気なく教師採用のそのほとんどが新卒であることを強調される。教職員全員の集合写真を投影されたが、なるほど若い。この若さが重要である。

☆電子ボードは、すべての教室に設置されている。すべての授業で使わねばならない。つまり、ICTの活用に抵抗を感じる教師は採用されないということを意味している。何せ生徒の方はICTを活用するのは当たり前で、情報倫理の議論を自らする世代である。ICTを使わずして倫理を語ることはできない時代なのである。

☆しかし、ICTは環境支配型のツールでもある。柴田副校長はそれを逆手にとったのである。新卒の教師はやはりキャリアが浅い。熟練した教師の技術というものを一から学んでいたのでは、新設中学の白梅学園清修の授業の水準が維持できない。これを解決するためには、脱技術しかないが、そのためのツールとしてICTは優れている。

☆天才数学教師の戸塚先生がすでに蓄積してある教材データベースがある。教務部長高添先生が創ってきた英語の教材データベースがある。これを若手教師は活用することができる。

☆しかし、授業の前日は、そのデータベースをそのまま活用するのではなく、アレンジをする作業に膨大な時間を費やすことになる。柴田副校長の目論見は大いにあたったのである。

☆データベースとして知の共有を日々できるし、新たな知を生み出すことができるからだ。しかもこの新しい知を生み出す理由がなかなか良い。なぜアレンジするかというと、それは生徒の理解の状況に応じて変化させる必要があるからだ。

☆なぜ生徒の理解の状況を把握できるのか、それは頻繁に生徒と対話する機会があるからであり、電子ボードによるアウトプット型ツールによって、授業の中でその都度新たな生徒の理解の変化を実感できるからである。

☆発表するときの生徒の表情や声質、論理、言語・・・。生徒の変化に気づくチャンスは無限である。そしてそれを聞いている仲間である生徒たちの様子。シナジー効果を生んでいるのかいないのか、瞬時に理解できる。電子ボードは、投影されつつ、そこに書き込むことができる。教材のビファー・アフターが取り込まれ、振り返りに活用できる。

☆なおかつ、アナログの添削問題を生徒は解くから、教材(デジタル)とある意味テスト(アナログ)が連動する。豊かな形成的アセスメントが電子ボードを活用するプロセスの中で育まれているのである。新卒の教師にとって、清修の1年は、通常の学校勤務の5年分の質を生み出す時間に相当するだろう。したがって、3年も勤めれば、ベテランの域に到達する。

☆戸塚先生、畔上先生にお会いするたびに、1年めのお二人と比べて、なんて頼りがいのあるタフな教師になっているのかその変貌ぶりに驚愕する。お二人の先生のこの飛躍は、デジタルな教材つくり以上にアナログな対話の手法に秘密がある。それはまた別の箇所で触れようと思う。

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私学の経済ポジショニング[17]OECD専門家セミナーと白梅学園清修③

私学の経済ポジショニング[16]OECD専門家セミナーと白梅学園清修②のつづき。形成的アセスメントという言葉は40年も前から使われているから、なんで今さらと思う方もいるかもしれない。しかし、これは人間なんて言葉も古くからあるから、なんで今さらと思うのと同じ発想だ。なるほど人間の存在の故郷は失われているのだな。こうした事態を動物化するポストモダンと称した東浩紀氏はなかなかの慧眼の持ち主だ。

☆さて、それはともかく、ジャネット・ルーニー氏の形成的アセスメントの6つの要素と白梅学園清修の教育実践を重ね合わせる話に戻ろう。まずは「1)相互作用を促進する教室文化の確立とアセスメントツールの使用」という第一の要素。ルーニー氏は、この要素をさらに3つのサブテーマに分けている。

①生徒が教室で安心して自信を持てると感じるように手助けすること。

②生徒の個性や文化の違いを認めること。

③単に活動を計画するというより、むしろ生徒の「学習」の計画を立てること。

*参考文献 →J.ルーニー編著『形成的アセスメントと学力-人格形成のための対話型学習をめざして』明石書店、2008)

☆①は、生徒が安心できる教育空間、コミュニケーションがあることということである。人間というのは、呼吸をし、食べ物を摂取し排泄し、情報を五感で受信し、脳神経で統合、イメージし発信するというオープン・エンド(開放系)な生態系的な存在である。この生態系を豊かにかつ持続可能にしないと、身体の病から心の病にまでいたる。

☆それにはまず教育空間が、生徒一人ひとり違う心身の成長状態に対応できるデザインに仕上がっていなければならない。考えるスペース、議論するスペース、遊びのスペース、孤独に自分を見つめるスペース、コラボし合うスペース、食育スペース、制作するスペース、身体のコンディションを整えるスペース、心のコンディションを調整するスペース、時間の変容スペースなどの空間の制度設計がきちんとされていることが、すなわち安心と自信を「手助けすること」になる。相互作用とは、人間同士の相互作用を意味すると同時に、人間心身と環境の生態系が統合されるオープン・エンドな関係作用も意味する。

☆フランク・ロイド・ライトの建築コンセプトは、今でも学ぶに値するというのはそういう意味である。特にライトは日本的な発想も取り入れている。重要なのは庭園発想である。公立学校の建築には、この庭園発想がない。明治政府は、庭園発想のルーツである大名庭園をズタズタにしたから当然。コストも膨大にかかるし・・・。

☆ともかく、白梅学園清修の学校建築には、これらすべてのスペースが巧まれているのである。特に何気ない庭園の存在。教室はすでに正門から庭園に入ったときから始まる。そこは、教師と生徒のコミュニケーションのアルファでありオメガである。一日の生徒一人ひとりの状況がそこで把握される。庭園発想とは、おもてなしである。おもてなしとは、亭主の見識がポイント。亭主の趣味を押し付けるのではなく、客人の心にそったやりとりができるサービスが本位である。顧客満足は、この庭園あるいはそれを圧縮した茶の湯のおもてなしの心のほんの一部にすぎない。

☆庭園や茶の湯は道であり、倫理であり、宗教的センスである。だから公立学校が庭園発想を発動できない理由がここにある。憲法で、教育基本法で規制されているのだから。私立学校の庭園発想は、道であるが、公立学校がもしそれを実行するとなると形式的なマナーで終わらざるを得ない。日本の教育改革のジレンマはここにある。本格的な道を追究するには、学校外のリソースを使う以外にないのである。

☆こうして見ていくと、教育空間もまた形成的アセスメントツールである。白梅学園清修学園の校舎建築の発想自体、すでに形成的なのである。ライトの建築発想は、タオ(道)にあるし、ハイデッガーの建築論にも通じる。建築は屋根や壁をつくることが主なのではなく、住まう虚空間、つまり道の空間をつくることなのだとライトの建築学校タリヤセン・ウェストには刻印されている。この内容は、実は岡倉天心の「茶の本」にも記述されている。なかなか深い話なのだ。ライトはこの思想をフェノロサ経由で学んでいるはずだから、岡倉天心つながりはうなづける・・・。ともあれ、白梅学園清修の校舎には、こういう教養が埋め込まれている。校舎自体リベラルアーツであると言うこともできるだろう。

☆ところが公立学校の建築空間には、そこまでのアイデアは埋め込まれない。だいたい岡倉天心は官学から追いやられているし・・・。要するに、埋め込んだらダメなのである。結局公立学校の建築空間はサマティブ・アセスメント(いわゆる5段階評価を思い出せばよい)ツールなのである。

☆日本の教育すべてに形成的アセスメントを適用しようとすると、憲法と教育基本法を改正しなければならない。校舎も建てかえなければならない。しかし、それにはあまりに時間とコストがかかりすぎる。日本の教育改革が、世界の動きについていけない根本的理由がここにある。解決するには民間の教育機関をきちんと育成する必要がある。サマティブアセスメントで十分な受験勉強を促進する塾・予備校では不十分である。道とリベラルアーツに対する構えのある民間教育機関が必要なのである。そのロールモデルは、白梅学園清修のような私立学校ということにならざるを得ない。

☆公立学校の法制度的な限界を論議しない限り、すべてを教師の責任に転嫁して終わる教育行政の悪癖は是正されまい。公立学校勤務の教師も、サイード的に言うならば、オリエンタリズムに自身を追い込まないことである。

☆あっちこっち飛んで、サブテーマの①について半分も語れなかったことお許しを。今回の形成的アセスメントというテーマは、やはり相当大きな問題が横たわっているようである。

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