私学の経済ポジショニング[29]私学選択は格差社会を拡大するか?
☆日経新聞(2008年9月29日)の連載コラム「まなび再考」において、お茶の水女子大学教授耳塚寛明氏は、高学歴高所得者層の私立中学選択によって、「社会的地位は次世代へと相続される度合を強め、社会の分断化が進む」と語る。要は社会格差を拡大するということだ。
☆一方で、この富裕層の行為を、対価を払い「合理的かつ正当な手段で学力・学歴獲得競争に勝負を挑む」行為とみなしている。もちろん好評価をしているわけではない。さらにこうも表現しているからだ。「彼らが主張するだろう主観的正当性」と。
☆耳塚氏の言いたいことは、この富裕層の主観的正当性に対抗し、その選択権を奪って公立学校が実質的な機会均等社会に転換させることは可能なのか?という問いかけである。
☆そして絶望的な気持ちをちらつかせながらも、わが子の未来を考え、その幸せを想像する力に期待しようと結局親が何とかしなさいという結論に到っている。公立学校が実質的な機会均等社会を作れないのは親の問題?
☆市場原理vs社会正義という図式で逡巡している耳塚氏なのである。たしかに、氏が閲覧したベネッセ教育研究開発センターが調査した「中学校選択に関する調査」を見れば、目まいがすることは間違いない。
☆私立中学を受験させない家庭が一月にかける教育費の平均は、13,924円。一方私立中学を受験させる家庭は、60,457円を投資するというのだ。また中学受験をさせる家庭の51.9%が、年収800万以上という報告がされている。耳塚氏ならずとも「おお、社会の分断化は進む・・・」と悲壮感がただようだろう。
☆しかし、教育をGDPを強化するマッチポンプとする側面からしか見ていないから、そう悲観することになるのだ。教育はGDPを再生産する装置としてのみ機能するわけではない。自然と社会と精神を横断する知を養う文化資本再生産装置でもある。
☆ただ、公立学校が挑めるのは、自然と社会についてそれぞれ学ぶことができるだけで、それを結びつけることはできない。ましてさらに精神もということは教育システム上できないのである。これができるのが私立学校なのである。私は、前者を≪官学の系譜≫、後者を≪私学の系譜≫と呼ぶ。
☆≪官学の系譜≫の中で、自然と社会を横断的に結びつける知を開発しているのが、公立中高一貫校である。また、進学重点校なる公立学校は、GDP再生産装置としての機能とその再生産を促進するリーダーを養成する学校である。≪官学の系譜≫は、原則聖なるものは重視しない。進化論的に無意味なのであり、もともと優勝劣敗ダーヴィニズムの発想で動いている。
☆つまり実施的な機会均等社会など構想にないというのが本当のところである。社会的正義の側面から、つまり社会学的発想で学校教育を見るならば、そいう結論になるはずだ。≪私学の系譜≫こそ≪官学の系譜≫の社会と自然と精神の結合分断に抗ってきたのである。
☆人間が「世界内国家内社会内学校内家庭内存在」であるのだから、≪私学の系譜≫もGDP再生産装置を文化再生産システムの中に包含しているのは当然だ。そのGDP再生産装置の部分だけヤリ玉にあげてスケープゴートにするのはちょっとおかしいのでは。
☆もちろん私立学校だからといってみな≪私学の系譜≫とは限らない。大学合格実績重視でGDP再生産装置としての私学もあるだろう。私が、偏差値だけではなくクオリティスコアという学校選択のモノサシを提案しているのは、そこを見極めるためでもある。
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