09年中学入試に向けて[77]かえつ有明 3年めの文化祭[03]
☆「09年中学入試に向けて[76]かえつ有明 3年めの文化祭[02] 」のつづきです。前回までは、かえつ有明の教育システムや不易流行=教育理念に関することについて述べてきました。
☆今回からは、いよいよかえつ有明のコミュニケーションについて考えてみようと思います。「かえつECO宣言」の本当の意味は、自然と精神と社会と教育の循環=サーキュレーションですね。自然に対し人間の精神が暴走しても、自然や人間の精神を社会が抑圧しても、自然が荒れ狂って精神や社会を破壊しても、人間中心主義的な教育でも困ります。こういうどちらかが一方的に他を圧している、情報の差異がある状態を社会学などでは、非対称性と呼んでいます。
☆これに対して「かえつECO宣言」は、エコロージーという循環=サーキュレーションの組み立て重視を宣言しているわけです。
☆ところで、この自然と精神と社会と教育のサーキュレーションを可能にするのは、なんでしょうか。それがコミュニケーションです。しかし、世の中は、システムとコミュニケーションは非対称性というパラドクスを含んでいます。
☆学校の場合を例にとると、学校の経営陣はともすると、システムよりで、一人ひとりの生徒を気にかけません。だから授業は一斉授業(講義型)になるし、イベントも軍隊主義になるし、評価も成果主義、得点主義になるわけです。
☆一方現場の先生方は、一人ひとりの生徒との対話を大切にしますから、コミュニケーションベースになります。しかし、コミュニケーションは一度に多くの人間たちと理解をしようとするとカオスになり収集がつかなくなりがちです。
☆ですから、習熟度や少人数制、チームワーク制、チューター制など複雑なロールプレイのチャンスを作ります。システムとしては、これはコストがかかりますから、複雑なコミュニケーションを効率よく合理化しようとします。
☆金八先生やごくせん、GTOのような学園ドラマでは、このシステムとコミュニケーションが毎回コンフリクトを引き起こしているわかりやすい設定になっています。パロディーやアイロニーとして表現されるぐらい、共感できる学園生活なのでしょう。
☆ところが、かえつ有明の場合、システムとコミュニケーションが100%循環しているとはいえなにのかもしれませんが、かなり循環が生まれています。「かえつECO宣言」は、教育システムと学びのコミュニケーションが非対称性の構造を作っているのではなく、循環する構造に向かっていることを象徴しているのではないでしょうか。
☆それは中1のサイエンスと竹取物語の映画編集に見え隠れしていました。そのことについて、次回からは考えてみましょう。ともあれ、システムとコミュニケーションの循環性こそ自然と精神と社会と教育のエコロジーを達成します。「かえつECO宣言」のねらいは果てしない物語ですね。
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