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09年首都圏中学入試[112] オール聖学院の教育と新学習指導要領の違い

本日9日、高校の新学習指導要領が告示脱ゆとり教育が本格的に動き出す。新学習指導要領の柱の一つに言語活動の教育の充実というのがある。

☆良好なコミュニケーションの技術は、人間関係を形成し、思考力を豊かにし、バランスのとれた感情を豊かに生み出していくのに必要である。したがって、このコンセプトには間違いがないように思われる。

☆しかし、それが違うのである。日本国憲法20条と改正教育基本法15条によって、公立学校の中における言語活動が規制されているからである。正確には、憲法20条を教育基本法が規制すると言ったほうがよいかもしれない。

☆新憲法と戦後教育基本法の成立にかかわった、内村鑑三門下生の南原繁は、「思想と良心の、そして学問と信仰の自由は、個人の精神的独立を保障し、個性の自律を尊重するもの」であり、「日本国民が『聖なるもの』の新たな発見なくして」これは保障できないのだと語っていた(拙著「名門中学の作り方」学研新書 2008年参照)。

☆つまり、南原繁は、国家宗教によって個人の自律が排除されることを阻止することと信仰の自由は矛盾しないのが、憲法20条の本意だと考えていたと思う。「聖なるもの」の発見こそ個人の自律を促すのである。

☆この「聖なるもの」は、聖学院院長の小倉先生によれば、当時新カント派のヴィンデルバントによって広められた時代のキーワードで、超越した不可知のものではなく、生活を支える意志や愛につながっているという。しかし、あまりに「聖なるもの」を問い返すことなくただ知識として扱うならば、結局は価値相対主義が蔓延すると。

☆だから、南原繁は、あくまでも自律した個人の生活に役立つ基準として、「聖なるもの」の発見を重要だと思っていたのだろう。

☆だが、改正教育基本法は、「聖なるもの」を尊重せよと言っていながら、次の文言を付け加えた。「宗教に関する一般的な教養」として教育上尊重せよと。つまり、「聖なるもの」は知識として扱うが、生活に浸透させるようなことはできないという規制が、上位法であるはずの憲法にかかる仕掛けになっているのである。

☆個人と普遍が一致するような基準こそ「聖なるもの」であるが、このような批判的思考は、新学習指導要領では期待できないのである。

☆院長小倉先生は、言葉は、人間の世界に「聖なるもの」の次元があることを表現でき、だからこそ学問探求と教育が、現実の中で行われるのだと語る。しかし、新学習指導要領では、この「聖なるもの」の次元は、現実世界にはないオカルト的世界の話であり、そういう知識がかなたにあるよ程度で終わり、生きる力にはつながらないのである。

☆「聖なるもの」を感じとることができなければ、たとえば、自然を大切にしようということなどは心の底からは湧いてこない。もちろん、エコエコノミーは可能だ。「聖なるもの」不要論者にとって、すべてはお金に換算できる交換価値として価値相対的なシステムに移行できることのみが重要なのである。

☆同じ言葉の使い方にしても、「聖なるもの」を表現できる表現技術を養うのか、そうでないのかによって、どのような社会ができあがるかにまで影響する。≪私学の系譜≫と≪官学の系譜≫の言葉に対するとらえ方の違いを、小倉先生は明らかにしているのである。

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