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希望とコミュニケーション[01]

☆「希望学 1」が東大社研から出版された。「希望の国のエクソダス」「13歳のハローワーク」の著者である村上龍さんが帯で推薦をこう書いている。

かって希望は、焼け跡にまかれた種子のようなものだった。多くの人がその果実を味わうことができた。今は違う。希望の芽を育むためには、個人と社会、それぞれの戦略が必要だ。この本はそのための果敢な挑戦の書である。

☆ムムムム・・・。さすがはカンブリア宮殿のコーディネータである。今や希望が経済や市場の切り口でとらえられていることを鋭く見抜いている。

☆一方、津田塾大准教授の萱野稔人さんは、今日の朝日新聞(09年4月9日)で、今やコミュニケーション能力が過剰に求められる時代だ。これでは「社会のなかで同調圧力が強まり、社会そのものが委縮してしまうだけである」と。

☆なるほど一理ある。さすがはフランス現代思想の旗手だ。過剰なコミュニケーションが規律的、つまりミリタリ・メタファを思い起こすことなく、やわらかくしかし環境統治型の経済や市場をコントロールする権力が忍びこんでいるところを突いている。

☆村上さんと萱野さんは、一見違う対象を扱っているようにみえるが、実は両者は密接に関係がある。「希望学 1」に収められている水野勇一郎さんの論文では、希望は結局のところコミュニケーションにによって育成されるとされる。

☆なるほどなるほど、戦略的希望学は、過剰なコミュニケーションによって支えられるという結び付きが成り立つのだなぁ。

☆萱野さんは過剰なコミュニケーションについてこう語る。

確かに、いまの産業のあり方をみると、コミュニケーションが富を生みだす経済活動の中心にきていることがわかる。製造業は人件費の安い海外に工場をどんどん移転させ、国内に残っているのは、マネジメントや企画、研究開発、マーケティングといった本社機能的な仕事ばかり。そこでは、組織をまとめあげる、アイデアをだす、交渉する、プレゼンをする、ディスカッションをするといった、高いコミュニケーション能力が必要とされる活動がどうしても物を言う。社会のあり方が、工場中心からコミュニケーション中心へと大きく転換しているのである。

☆このコミュニケーションは、過剰なコミュニケーションであって、これに支えられる戦略的希望学は、「希望額」を追究するおそれがある。村上さんと萱野さんを結び付けることによってその危うさが見えてくるように思える。

☆もちろん、同書の中で、リチャード・スウェッドバーグさんは、そのことに気づき、本来的な希望学の系譜を論じている。しかしながら、希望学から希望額への転落のリスク回避について、具体的に論じられていない。

☆その方法は、過剰なコミュニケーションからクオリティ・コミュニケーションにシフトすることである。つまり≪官学の系譜≫を支える抑圧的コミュニケーションから≪私学の系譜≫のクオリティ・コミュニケーションへのシフトである。そのあたりを少し考えていきたい。

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