赤毛のアンと私学の系譜と茂木健一郎さん⑥ 教育理念が大切なわけ
赤毛のアンと私学の系譜と茂木健一郎さん⑤ ≪私学の系譜≫とは何か?のつづき。
☆茂木健一郎さんは、白洲次郎の「プリンシプルのない日本」について言及している。茂木さん自身は意識していないだろうが、白洲次郎は「私学人」という言葉に置き換えてよいのだ。
☆日本人にプリンシプル、つまり「原理・原則」という思考の拠り所、判断の基準がないという白洲次郎の考え方に茂木さんは同意している。この「原理・原則」は私学にとっては教育理念なのだ。だから、日本人にはと言ったとき、公立学校の環境下にある日本人という括弧つきであることに気づきたい。
一方では宗教というひとつのパラダイムがあって、もう一方では科学的な世界観というパラダイムがある。両極にあるこの二つの立場は、依って立つ原理は異なれど、「何か」を信じ、主張するものが明確にあるという意味では同じなのです。
ところがわが国日本では、そのいずれのパラダイムもない。明確な宗教的な信仰もなければ、あるいはドーキンスのような強烈な科学的世界観もない。その「プリンシプル」のなさは、個人の生き方だけではなく、社会の成り立ちを見ていても感じます。
たとえばキリスト教が日本には本格的に根付かなかったように、民主主義も、あるいは根本的な思想としては入ってこなかったのではないでしょうか。それは僕の専門である科学の分野においても、同様のことが言えると思います。
人生、社会の指針となるべき原理、「プリンシプル」。それが今の日本には欠落している。核となるところが空白状態なのです。自分の人生や、自分が属する社会の根本に係わる問題を真剣に考え議論することなく、単にその場の好き嫌いだけで物事を行き当たりばったりに決定する。そのような現代日本の社会とは、果たして二十一世紀にあっても持続可能なものなのか。これは、一度きちんと問われるべき問題です。
☆もちろん、茂木さんは、西洋主義にならねばということは言ってはいない。日本にも西洋とは違う理念があるんだと。それは「もののあはれ」だし、それは今では「KAWAII」という世界に通用する価値観があるのだと。ここはたいへん興味深い話だが、茂木さんも深くは論じていないので、日本はオタク文化の価値観があるなどとは一足飛びにはいかないだろう。少し慎重にあとで考えなくてはと思っている。
☆ともあれ、「もののあはれ」や「KAWAII」だけではものごとを持続可能にしていくのは難しい。だから原理ではなく、型でせまるのがおそらく日本流儀だろう。型の中は空なのである。だから心も虚空間なのである。そこに理念は詰まっていない。
☆島国だったらそれでよいだろうが、明治維新は開国の時代。世界とコミュニケーションしなければならなかった。そこで私立学校は普遍的な理念をベースに人材を育成しようとしたのである。一方官学は、日本の一般の民が直接外国人とコミュニケーションをとるなんて思いもつかなかった。それはエリートの仕事なのだと。
☆この考え方は、1970年代にドル・円が為替相場制にシフトするまで続いた。いや今でもその名残は大いにあるだろう。日本人が英語を使わないのはそういうわけだと思う。
☆この官学の精神に、≪私学の系譜≫はずっと警鐘を鳴らしてきたのである。しかし、そんな警告に耳を貸すような相手ではなかった。為替の経済が、なんと八百万の神の国、つまり価値相対の日本人の考え方にぴったり合ったしまったのだから。
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