テストの意味[01]
☆毎年全国学力テストが行われ、今年もその結果分析の詳細が8月に発表になる。各紙・誌メディアは、それをどのように扱うかそろそろ準備に入るだろう。橋下知事の公表するしない問題もまだ解決済みとはいえない。
☆しかし、この世界同時不況の折、そういうドメスティックな反応だけでなく、日本の教育が世界の中で、この不況を乗り切る知を養っているのかどうかについても興味津津というところではないだろうか。
☆従来の「知識欠如モデル」ではなく「知識創造モデル」への転換が求められている時代にあって、日本の教育はどうだろうか?
☆全国学力テストは、「知識基盤社会」にあって、「知識欠如モデル」ではないものを目指しているかのようではあるが、結果的には、「欠如」した知識を補うことが基礎基本であるという枠組みから脱していないのではないかという疑義が、あらゆる分野で生まれている。
☆年金、税金、理不尽な財政出動、食品の偽装関連事故、新型インフルの風評被害増幅政策、政治献金の癒着問題、郵政政策への不審問題、教員免許の不正問題・・・。
☆民は知識が不足しているから、官が補わねばならないという官尊民卑の発想が、逆に情報隠ぺいを生み出し、不正を生みだしている。それにいつまでも気づかない民ではあるまい。クリティカル・シンキングの鋭い思考力を振るう市民がたくさん出てきている。専門知や政策知に対する公共知の活躍。
☆かつては公共知といえば、マスメディアがジャーナリズムとして大きな役割を果たしていたが、今日では一般市民もブログやサイトで活躍するようになった。
☆さて、テストなるものに話を戻そう。このテストというものに関しても、マスメディアや市民の目は、今までとは違ってきた。アメリカではすでにテスト測定学があり、テストが果たして正当性をもっているのか、信頼性があるのか、妥当性が働いているのかなどをデータに基づいてチェックしていくシステムが確立している。
☆日本では、そのような学はまだまだ浸透していない。だから、不正なテストで評価されていることも大いにあるのだが、そんなことは誰も疑ってこなかった。しかし、世の中、こうも基準がいい加減では、テストの正当性・信頼性・妥当性を証明せざるを得ないのではないか。
☆基準がオープンにされていないから、結局は採点者のローカルな基準が絶対になる。そんな道徳的なテストとその評価に、そろそろ翻弄されるのはやめたい。作成するときのテストにしても、その評価にしても基準=Criteriaが話題になっているのが世界の常識である。道徳的操作によるテストから科学的な基準精査によるテストへという流れが国際標準。日本はそのような流れを相変わらず無視し続けるのか、それとも取り入れていくのか、まだまだ未知なる領域である。
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