2つのエクセレントスクール[01] 芝はシステム論的
☆成熟期を迎えているエクセレントスクールでも、内生的発展をし続けている学校と停滞期に突入している学校がある。
☆その違いはどこにあるのか?それはこのところリベラルアーツのベクトルが線か面かでみてきている。
☆内生的発展をし続けているエクセレントスクールは、リベラルアーツが面である。それに比べ停滞(高いレベルを維持している意味も含むが)期エクセレントスクールは、リベラルアーツが教養主義的あるいは道徳論的だ。建学者の理念を前面に出すが、それがどのようにリベラルアーツに具体的に浸透しているのか明快ではない。
☆それがゆえに、理念・理念・理念・・・・なのだ。ところが理念を前面に出さずとも、教育空間ベースのリベラルアーツには理念がやどるし、空間の変容に合わせて、理念を振り返る鳥瞰的視点をもっている。あるいは複眼的。それゆえ道徳論的ではなく、システム論的なのだ。
☆システムより人間だとシステムを人間機械論的に批判するとしたら、それがすでに道徳論的。理念脱構築主義エクセレントスクールは、理念なきシステムを構築しようなどとは考えていない。むしろ理念を持続可能にするためのシステムであり、教育空間も大きな影響を受ける時代空間の変容に合わせて理念の脱構築が可能なシステムをつくるリベラルアーツプログラムをデザインしているのである。
☆以上のようなことを図に描いてみた。これに合わせて、たとえば芝中を考えてみよう。浄土宗の学校だが、道徳論的エクセレントスクールではない。システム論的エクセレントスクールなのだ。
☆校舎という教育空間、地政学的教育空間がまずシステム論的に構築されている。地政学的教育空間は、行政経済の首都機能が学校周辺の地域に埋め込まれていて、通学するだけで、視野の広い知性を身につけることができる。ただし、意識しなければ意味はない。
☆芝はどのようにそこを意識するのか?それはフィールドワークである。適宜教室を出て外で教育活動を行うのが芝の大きな特徴だ。それから、校舎としての教育空間は、各フロアーが知的ギャラリーになっている。地下の生徒のものづくり作品からはじまって、最上階は科学論文の空間になっている。
☆また、1階には教育理念である遵法自治を口にださずとも、その精神に触れることができるカウンセリングシステムがある。
☆実に不思議なのだが、鎌倉新仏教と時を同じくして、ヨーロッパでは聖フランシスコと聖ドミニコが出現している。神聖ローマ皇帝のフリードリヒも。極めて似た世界思想で、ここにルネサンスのルーツがあるといわれている。欧州のルネサンスヤ宗教改革が生まれたときの日本と言えば、やはり織豊時代とクロスするのではないだろうか。
☆それはやがて啓蒙期につながるが、すでにそのルーツが鎌倉時代に世界同時的にあった。その精神というかミームが芝のカウンセリングシステムにはある。このミームは近代を生みだしながら、近代の矛盾も生みだし、それをどのようにクリアするかに常に挑んでいる知性である。
☆このミームがある限り、芝は内生的発達を続けるのである。だからこのミームなき芝のシステムの模倣は、なかなかうまくいかないだろう。
☆じゃあ宗教が背景になければ理念というものはあり得ないのか?いや、それはある。たとえば、渋沢栄一のような起業家精神がそれではないか。「論語と算盤」という発想は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神」に重なると言われているぐらいだ。
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