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「変貌する教育学」の公立と私立の違い②

「変貌する教育学」の公立と私立の違い①のつづき。

☆「変貌する教育学」(世織書房2009年8月)の中で秋田喜代美論文は必見。

☆日本の教師の世界に冠たる「授業研究」を無化する教育政策を憂いている論文だ。もっとも、政権が変わったから今後どうなるかはちょっとは期待したいが、しかし、今度は教育政策が変わっても、変わらない事情がある。

☆それが前回述べた「教育学」のローカルルールの支配である。教育政策によって、「授業研究」もまた世界につながることなく醸成してしまったのである。

☆ともあれ、秋田教授の危機意識に耳を傾けよう。

学校評価、教職員評価などの成果評価主義の導入、教員免許更新制度の導入や実務家養成をめざす教職大学院の設置などの教育デザインが提案され、教師個人の成果主義と競争原理による教員評価の傾向が強められている。また教職員の賃金低下、いじめや学力問題等様々な教育問題において教師がつねにスケープゴートとなって語られることにより、教師の社会的地位の低下が生じている。英米型の自由市場型成果主義による教育改革を取り入れた教育政策は、生徒の能力と共に、教師の個人の能力をも標準化した基準で捉えようとしている。校内における授業や教材研究という、学校における自律的な専門職開発の制度によって、教員の資質を継続的に高め保持してきた日本の教師の学習システムはさらに衰退してゆくだろう。

☆オバマ政権によって、鳩山政権によって、果たして英米型の自由市場型成果主義が継続するかどうかはまだわからないが、風向きが多少変わったので、秋田教授の気丈なクレイムは肩透かしをくらうかもしれない。

☆しかし、そもそも市場経済のせいで教員のやってきた授業研究が空洞化されるという因果関係はちょっと無理があるかもしれないという問いかけはでてこないのだろうか。

☆教師の社会的地位の低下なんてのも、そもそもそういう地位を保守する時代の社会そのものが問われてきたのではないだろうか。

☆今までの教員の努力を認めてくれない社会は悪いといっているように聞こえないわけでもない。たしかに認めてもらいたい。その気持ちは教員だけではなく、あらゆる社会や組織の所属メンバーと同じものだろう。

☆しかし、それには条件がある。フェアで、オープンで、常にcriteriaを見えるかし、チェックする問いかけの存在である。

☆そもそも学校教育における包括的評価は成果主義ではないのか。形成的評価の未だ途上はどういうことだろう。これによって、教師は子どもに対し圧倒的地位を今でも保持していると考えられないこともない。

☆私立学校においては、生徒による評価を導入し、教師と生徒が切磋琢磨しているところがたくさんある。もちろん顧客迎合主義だとか子ども中心主義だとかいう批判は絶えない。しかし、迎合主義はともかく、子ども中心主義が教師中心主義よりましだという感覚がない高名な教育社会学者がいたが、そっちのほうが村落共同体的社会構造を擁護しているのではないかと思うのは衆愚の考えだろうか。

☆ある私立学校の校長は、教育政策がどう変わろうと、社会的地位がどうであろうと、先達者や創設者の精神をつねに批判的精神で現代化し、マコトの道を歩むほかなしと教育実践をしている。

☆授業研究も外の風をいれ、国際的なネットワークをつなぎながら研究している。教育政策が悪いから、市場経済社会が悪いから、自分たちの社会的地位が低くなると悩む前に、目の前の子どもが未来を拓く英知とタフな精神をどのように共に形成できるか地球規模の視点で考え行動している。

☆もちろん、これは公立学校の教師一個人のせいではない。教育政策の問題である。しかし、その教育政策のベースを作っているのは誰なのだ。官僚。たしかにそうだが、そことの知の絆をつくっているのはどこの誰なのだろうか。

☆もし教育政策に問題あるならば、最高の知を結集できる教育の専門家集団が、学校教育法などの改正案をつくり、働きかける方法だってあるのではないだろうか。教育政策は、立法に拠らずできないのである。だからこそ2006年の教育基本法の改正は、私立学校の精神には心痛かったのだが。

Photo ☆秋田論文には、様々な図解があるが、公立学校の教師の授業研究をとりまく学びの環境を簡略化すると図のようになる。教育政策によって、たしかに授業研究が空洞化されかねない環境である。しかし、私立学校の環境を対比してみよう。日本の教育関連法にのっとって学校法人は成立しているから、公立学校と重なる環境もあり、教育政策によっては葛藤を生み出す火種もあるが、基本間口は広く奥行きは深い。

☆公立学校でこのような広がり深さは作れないのか。立法の問題も大きいが、私立学校の教師のような起業家精神の育成が不足しているところが本当の理由なのではないか。

☆つまり官尊民卑、学尊民卑から脱却できていないということだ。官僚依存脱却の鳩山政権。そういう意味では、公立学校での教師の居心地はますます悪くなるかもしれない。これはこれで大問題である。その前で小さな心をふるわしているのは子どもだからだ。

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