内なる世界が荒れはてないために ミヒャエル・エンデ
☆毎月一冊、子どもたちと本を読む。本を媒介としてそれぞれの子どもの世界が広がる。鼻をふくらませ、目を輝かせ、うるうるさせ、話しかけてくる。
☆本に書かれている内容とは限らない。むしろ連想なのだが、それは空虚な幻想ではない。それぞれの子どもの等身大の世界の投影なのだ。
☆もし読んだ本を基準に、その子どもの表現を比べたら、とんでもないことになるだろう。そんなこと本に書いてないじゃないかと一言でも発してみよ。とたんに子どもの内なる世界は閉じられる。
☆だから、丁寧なコミュニケーションは大切ではある。しかし、その繊細さを持ちつつも、そういう単眼的な大人の発想に、押しつぶされずにぶつかってくる子どももいる。
☆どんな大人の暴言も意に介さず、ききとして好奇心に充ち溢れ、ますます開放的精神をぶっ放す子どもが、小さいながらいるものだ。
☆内なる世界が荒れはてないように、そこはファシリテーターや共鳴するような仕掛けをするアドバイザーになることも必要ではあるが、それとて本当は余計なお世話だと表現できる子どもがいる。
☆実は大人の世界も同じだ。内なる世界があふれている方々と話すとそこはキャンプファイアー状態。お祭り騒ぎ。あらゆることに興味や好奇心を持てる。アンテナが高いというか、なんだろう・・・、そうだ、なんでも繊細かつ大胆な自分の変換機関を通して翻訳してしまうのだ。我田引水かというとそうでもない。相手の話を集中して聞き、タイミング良く質問を投げかけてくる。それが邪魔になるどころか、逆に話し手の遠い記憶を引き出し、対話を促進し拡張する。
☆そうでない大人もいる。目が死んでいる。しかし、自分の興味や仕事の領域になると、スイッチが入って、目が輝きだす。その瞬間がやってくると、対話していてホッとする。もてなしの心とか気配りというのは、こういう仕掛けのことをいうのだろうが、これは結構つらい。だから合理的で事務的な話が多くなるものだ。
☆では内なる世界が充ち溢れている状態になるにはどうしたらよいのか。読書だ!と言いたいところだが、どうもそれだけではダメだ。読書家だと思っていたら、自分の興味と関心のある領域に閉じこもっている人だったりするときがある。
☆やはり教養だということになる。しかし、読書とどこが違うのかということになる。いやいや古典をきちんと読破することさ!となるかもしれないが、それだけでもない。
☆本というのが単に印刷されたインクのしみなのかどうか。教養とはそれ以上だと言うことになるだろうが、だとすれば読書だけではない。思想や思いや気持ちなのだ。あらゆる感覚にはいってくる刺激を自分なりにそれでいて普遍的に翻訳編集できる変換機関。これこそ教養であろう。
☆多くの本や体験を通して、対話する時空の中でその変換機関は内なる世界として機能を強化していく。もっとも自然と社会と精神が揺らぎながらも融和していく以上の機能は作れない。多くの人が、自分の精神の中で成長を遂げて終わる。ふと周りを見回すと、なんて自分はちっぽけな存在なのかと思うことはよくあることだ。もっとも、この瞬間、人はかなりでかい存在に成長するのだが・・・。
☆このような自分なりのそれでいて普遍的な変換機関・情報翻訳編集装置を身につけることができる学校はどこだろう。学校選択の旅にでている保護者で、このことに気づいている方は幸せだと思う。
☆ミヒャエル・エンデ著「だれでもない庭」から「内なる世界が荒れはてないために」という作品全文を引用しておこう。あまりに小さい作品あるいは断片だけれど、読書の秋の作品リストにいれておいてはいかがだろう。
みんながあまり注目しない現象がある。それは内なる世界の荒廃だ。これはおなじように脅威だし、おなじように危険だ。そして、この内なる世界が荒れはてないように、ちいさな内なる樹木をためしに植えてみはいかがだろう。
たとえば、いい詩を書いてみよう。これは内なる木を植えることだ。
木を植えるのはリンゴを収穫するためだけではない。いや、木はそれだけで美しい。なにか役立つというだけでなく、樹木がただ樹木であることがたいせつなのだ。
それがおおぜいの作家たち、いや、おおぜいではなくとも、何人かの作家や芸術家がこころみていることだ。つまり、ただそこにあり、人類みんなの財産になりうるなにかを創造することである。それがそこにあることが、それだけでよいことだから。
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