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私学市場の意義[02]

☆私学市場を考える場合、4つのキャラクターとそれらに応じた4つの子どもたち(幼児・児童・生徒・学生とさらに分化するが、ここではまずはひと括りしておく)の立場に目配りする必要がある。

☆4つのキャラクターとは、専門家(学者)、政策担当者(政治家・官僚)、企業人、市民(シチズンとしての市民で国民とは微妙に違う。日本では近代国家ができてから実質中央集権だから、市民が活躍できているシーンは少ないか・・・)。

☆私学市場は基本は私学人としてのあるいは私学の系譜にある市民の立場で参加することもできるし、学としての教育専門家としても、政策担当者としても、企業人としても参加することできる。

☆一方で公立市場は、私学人としての市民の立場で参加する余地はほとんどない。

☆だから、≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫の対比構造が、日本の近代教育の中には存在してきたのである。

☆そして、量の競争としては≪官学の系譜≫が≪私学の系譜≫を圧倒し、質の競争としては≪私学の系譜≫が≪官学の系譜≫を圧倒してきた。

☆その違いは今も市民の立場があるかないかである。

☆遠く昔から、あらゆる国の人々は、理想都市や桃源郷を求めてきたが、それは常に伝説だったし、神話だったし、夢であった。そこに存在するのは、理想の存在の声に支えられた理想的な反官尊民卑、反学尊民卑である市民である。

☆しかし、誰もがそんな理想をリアルに見たためしがない。ただ、学者、官僚、政治家、企業人に市民がなんとかかかわれたとき、そこに次善の理想都市が出現する。

☆そうでない場合、その都市は格差社会を推進する社会になり果てている。しかし、私学人としての市民が存在している場合、理想への第一歩を踏み出した都市や社会ができる。

☆さて、日本の社会の現実はというと、市民は実際の私立学校の中にしか存在しない。私学人とは必ずしも、私立学校出身者を指すわけではない。概念の問題なんだが、たとえば、今日のジャーナリズムは、実際の私学出身者と概念としての私学人の差異をまったく意識していない。つまり今日のジャーナリズムは私学人としての概念なき企業人と化している。

☆またまた何を言っているのか、本間はまったくわからんことを言うと言われるだろうが、この仮説的な前提なくして、記事を読むと、子どもたちの未来は見えてこない。

☆一般には、私学人としての学者、私学人としての政策担当者・官僚、私学人としての企業人、私学人としての市民の存在が意識されていないという前提で、たとえば、≪学校教育「仕分け」 日教組の影響じわり≫(2009年11月26日7時56分配信 産経新聞)という記事を読んでみると、やはりおかしな議論がされているのに、なぜそれに世論もジャーナリズムも気づいてこなかったのだろうという立場に立つことができる。

☆この記事の内容を抜粋引用すると、

学力テストは規模をさらに縮小、教職員給与に関する義務教育費国庫負担金は削減を伴わない「見直し」-。25日の行政刷新会議の事業仕分け作業では、学校教育の根本にかかわる制度が審議されたが、その議論の中身と結論を見ると民主党の支持団体、日本教職員組合(日教組)のかねての主張に沿う形となっている。

☆このうち学力テストをめぐる議論に関しては、3つの意見が対立しているということになっている。引用しよう。

①口火を切ったのは藤原和博東京学芸大客員教授。「(現行方式は)経年比較ができない。経年比較には、少ないサンプルで同じ問題を使わねばならない」と切り出すと、枝野幸男衆院議員も「都道府県別(の比較)と経年変化はどちらが大事か。経年が大事でしょう」と声を張り上げた。

②学力テストに関し、日教組は今年3月にまとめた政策提言で「序列・競争をあおる」と批判して抽出調査に縮小するよう要請している。

③ 「子供や教師一人一人に自らの課題を把握させるという全国学力テストの趣旨を全く理解していない、素人の議論だ」中教審副会長で全国学力テスト専門家会議座長の梶田叡一兵庫教育大学長は、この日の事業仕分けの議論をこう批判した。藤原氏らが「経年比較ができる調査に変えるべきだ」と主張したことについても、梶田氏は「単なる行政調査と勘違いしている。現場が学力低下から立ち直りつつある時期に、抽出化と縮減は痛手だ」と懸念を示す。

☆①は企業人としての立場。②は政策担当者としての立場。③は学者・専門家としての立場。

☆というわけで、私学人としての立場がない。つまり、競争がだめなのではなく、量の競争がだめであり、質の競争を形成しようという立場。質の競争とは、可能な限り1人ひとりの生徒に合った学びの環境と対話をつくる競争である。

☆私学人としての市民にとって、テストという道具がだめなのではない。その目的と精度が問題なのだ。

☆だから、②の日教組としての政策担当者の「テスト=量の競争」というのは、おかしな話で科学的議論とは言えないだろう。一方で①の企業人として「テスト=教育システムの改善のための道具」という目的もあっていいだろうが、今回の学テの目的はそこにはなかったのではないか。③の学者としての「テスト=生徒自身による一人ひとりの学びの課題の気づき」という目的が今回の目的だったような気がするが、実際には学テという道具がまったく精度の低い道具であり、学者の夢は到底信憑性がない。生徒自身による1人ひとりの学びの課題を発見するテストになっていないからだ。

☆もし、私学人としての「テスト=生徒自身による1人ひとりの学びの課題の発見」という目的とノウハウ―つまり環境と対話―をもってすれば、①~③の主張をすべて解決することができる。もちろん、「質の競争」は再び「量の競争」に物象化してしまうので、常に理念という基準に立ち戻り精査され、精度をあげる努力を怠ることはできないが。

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