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一日一言 新渡戸稲造【001】

☆新渡戸稲造は、近代日本の光の部分を拓いた国際人であり、≪私学人≫であった。新渡戸稲造のその思想は、世界大戦を止めることはできなかった。しかし、戦後その近代国家の闇を払拭する大きな思想として継承された。

☆しかし、それは2006年の教育基本法改正に向けて徐々に失われた。その過程の中で、台頭したのが価値観の軽視により自分の興味と関心のあることにしか反応を示さない消費者の出現。ポストモダニズムの氾濫といわれているが、2008年秋のリーマンショック以来、その無意識のゴースト化に抗う思想や政治が再び生まれている。

☆オバマ政権や鳩山政権を支える思想は、果たしてその流れにあるのだろうか。歴史はそう簡単ではあるまい。だが、新渡戸稲造や内村鑑三の思想は今もなお生きている。それは特に私立中高一貫校の存在意義として生きているはずだ。

☆もちろん、それを自らに背負っているのはすべての私立中高一貫校ではない。しかし、その精神をなんとか継承しようとしているところもあるのも否めない。

☆ただ、その価値がなかなか世の中に伝わらないのは、道徳的側面が強調されてきたからだろう。道徳は考えるというよりも意志を受け入れるか入れないかの選択にすぐに迫られる。

☆それゆえ、その言葉は耳に痛いし、心に重い。大衆化された今日、なかなか受け入れられがたい。

☆そこで、道徳的側面からではなく、思想の視点を見出すところに切り口を見出してみたい。まずは、新渡戸稲造の「一日一言」をじっくりみてみたい。非常に短いので、読む時間がかからず、考えることに時間を費やせるからである。

☆まずは今日は12月2日の一言。

宝石にもきずはある

どんな人間でも、その人の持っている良い点を見出そうとすれば、必ずあるものだ。欠点ばかりの人はこの世にいない。きずのある宝石はあるが、きずばかりのものは宝石ではない。すべてが美しいものを求めたとすれば、美しい花でも言い分はあるもので、どうして人にこれを求めることができようか。

☆人の長所を見出しなさいといえば、それはそれでよいが、道徳的だし、まあ当たり前だが、たしかに欠点を見出すひとが多いのも否めない。しかし、ここではそのことだけを読み取るのではなく、宝石を基準と置き換えてみよう。

☆どんな基準も完全ではないのだと。基準である以上は基準の理由があるはずだと。だからその基準の良さもある。だが、基準はクリティカルシンキングで常に見直されることが大事だ。完全な基準はない。完全ではないから駄目だというのではなく、完全に近づくには基準はどのように磨かれる方法があるのか。

☆きずがある宝石は、だから駄目なのではない。磨くことが肝だ。では、どうやって磨くのか。それは12月2日の言葉では語られていない。

☆ともあれ基準とはいかにして可能か。この視点を新渡戸稲造は持っていた。価値観の相対主義の時代だからこそ、基準がポイントである。絶対基準はないが、だからといって恣意的であってよいわけではあるまい。一人ひとりの基準であり、公共的基準としても成立するものは何か。もちろん簡単ではない。。。

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