一日一言 新渡戸稲造【002】
一日一言 新渡戸稲造【001】のつづき。
☆12月3日 怒りの向けどころ
怒らなければならない人に怒るのは当然だが、その怒りを罪もない人に向けるのは、おろかなことである。だが、役所や店などで争いごとを起こし、その怒りを我が家に持ち込んで、何も知らない家族にあたり散らすようなことは、この世の中に少なくない。
☆怒ってはいけないとか怒ることは悪であるということでもあろうが、そのような道徳的な戒めととらえるのではなく、怒りの感情の怖さとは何かということを考える言葉ではないか。
☆古今東西、あらゆるところから怒号の叫びが聞こえてくる。怒りの原因はたいていは自分の中にある。それに気づかず責任転嫁が行われるのも世の常ではある。
☆本当は他者を怒ることなどできるはずもないのだが、ついそういう感情が湧きでてくる。そのこと自体が恐ろしいことである。自らの原因に気づかないのだから、いくら怒っても解決しようがないのだ。
☆他者への怒りは限りのない解決不能の過程であり、その折り重なりが負の無意識を育ててしまう。他者への怒りは解決からただただ遠のくばかりなのである。
☆しかし、怒りの向けどころは、結局は自分に対してのみなのだという境地。これは、正の無意識を育てるエネルギーである。
☆怒りの向けどころによって、無意識の質が変わるのである。その質の見極めをしない抑圧が、無意識をゴースト化し、負も正も関係なく、手のつけられない怒りをまた暴発させてしまう。
☆EUがベートーヴェンの第九の歓喜の歌を大事にするのは、そういうわけなのである。怒りの暴発を回避するためにEU全体が歓喜の歌を合唱するのであろう。
☆しかし、怒りの向けどころが他者である限り、歓喜の歌は狂気の叫びになるしかないのだ。そしてこれがナチやファシズム、軍国主義の法則でもある。
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