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一日一言 新渡戸稲造【005】

一日一言 新渡戸稲造【004】のつづき。

☆12月6日 死に対する心構え

・・・・・・今年もいよいよ年の暮れが近づいてきたことは誰もが気付いているが、自分の寿命も次第に最後に近づいていることには気付かない。位の上下や貧富の区別なく訪れるのは死である。死期がいつ自分に訪れようと、死に対する心がまえを持っていたほうがよい。

☆死は自然へ還ることである。ということは自然状態か?近代の発想はこれを逆転したのだろうか。自然状態から社会契約へという発想。

☆しかし、実際には自然状態は死においてのみ存在するのかもしれない。

☆そこでは階級構造も、経済格差もない。もちろん現実界では、葬儀や墓や、名称などに値段の差がありつづけるだろうが、それはこちらの世界で勝手につくりあげていることに過ぎない。

☆だが、そう考えてしまうと死に対する心がまえなど必要なのだろうか、現実界のつらい人生、格差、不条理などすべてがリセットされるのが死である。現世を楽しまなくては損ではないかという考え方もありだ。

☆どちらが正解なのだろう。死に対する心がまえを持つべきか、そんなのは関係なく生を楽しもうなのか。

☆前者は、死の訪れは突然やってくる。後者は自死という自己選択も可能だ。このいずれを選ぶのか。残念ながら、それは価値観の違いによって、どちらもありなのだ。

☆新渡戸稲造はクリスチャンとして当然の帰結である前者を選んでいるわけだ。新渡戸稲造が、大きな価値観を捨て去ったポストモダンの今日に、忘れ去られるのは、まさにこのような考え方をしていたからだろう。

☆しかし、それでは困る。だから教育現場では、生命の尊厳さを教え込もうとする。死の悲惨さを教え込もうとする。しかし、それでは死を回避する価値観が生まれてこない。大事だから、悲惨だからという論拠づけは道徳である。

☆価値基準としての倫理が子どもたちに自らの内面に生まれるにはどうしたらよいのか。具体から抽象的で普遍的なルールを見出せる理念教育の復権が求められるのだろうか?しかし、一方で普遍的なものなど存在しないのだという考え方もある。

☆普遍か個別か。この二者択一の葛藤では、永遠の課題で終わってしまう。この考え方の前提条件から開放されるには、いかにして可能か。「聖なるもの」を持ち出すだけでは、新渡戸稲造の弟子たちが戦後を乗り越えられなかった理由が、ここにあるのではないか。

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