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受験市場から教育多層市場へ [02]

受験市場から教育多層市場へ [01]のつづき。

☆講演会や研修などで、一貫して、21世紀は「クリエイティブ」な時代と言い続けてきた。これからも変わらないだろう。「クリエイティブ」な行為というのは、すべての人が持っているそれぞれの才能の表出であるが、それが抑えられてきたのが近代の矛盾の1つである。

☆というよりも近代化が実のところ完成していない1つの証しなのかもしれない。ポスト近代なんて言い方があるから、あたかも自由・平等・友愛の近代の理念や民主主義ができあがっているように錯覚するが、ポストモダニズムも近代化の成長の過渡期なのかもしれない。

☆そういう意味で、すべての人々が「クリエイティブ」な行為で生活をしていける時代がやってきたという意味で画期的なのである。

☆そんな話を、リチャード・フロリダ教授の「クリエイティブ・クラス」論を紹介して語ってきたが、なかなか広がらない。1つの学説にすぎないと言えばそうだからだろうが。

Photo ☆それに、教育の領域において、実はそんな世界の動向は興味と関心があるわけでもない。いつも対話する私立中高一貫校の先生方は、つねに世界の動向と学校と家庭と個人を貫いて関係性を語る方が多いので、学校と世界が結びつかないで、教育が行われているということをすっかり忘れていた。

☆考えてみれば、私立中高一貫校、しかも私が話を伺う先生方は首都圏エリアの私立学校に所属していて、そのエリアの私立中高一貫校には全国の6年生の3%しか進学していない。全国の私立中高一貫校や公立中高一貫校に進学する生徒も10%ぐらいだろう。

☆すると90%の生徒の教育環境は、世界の動向と縁がない領域となっていると思われる。そこには「クリエイティブ・クラス」なんて関係ないよという雰囲気があるからだ。

☆その90%を支えているというかコントロールしているのが文科省であり、教育委員会だ。直接的には教育委員会で、陰に陽に、その指導助言に当たっているのが、実は東大教育学部の教授たちだ。

☆その教授たちが、「教育学」という研究の中で、世界の動向と学校の結び付きが実存していないことに驚き落胆し警鐘を鳴らしている。

☆しかし、近代化の歴史を振り返れば、その歴史は「クリエイティブ」な行為をいかにコントロールするかという歴史だったともいえる。

☆啓蒙君主も絶対君主もその配下の貴族たちも、「クリエイティブ」な行為を権威の表象として利用して生きた。それは軍事力や政治経済力を牛耳る権力の象徴であった。しかし、同時にたいへんコストがかかる。財政はつねに逼迫する。そのリスクを回避するために、マックス・ウェーバーではないが、優秀な官僚が生まれる。この官僚は「クリエイティブ」な行為をコントロールするように作用する。勤労・勤勉・倹約には、贅沢は敵なのだ。

☆ところが近代国家は、税金国家でもある。市民や国民をある程度説得するためには祝祭が必要だ。したがって戦略的に「クリエイティブ」な行為を活用する。しかし、もともと操作やコントロールされるのが大きらいなのが「クリエイティブ」な行為。

☆葛藤が起こるのは当然だ。そのたびに、御用芸術家になるか、孤高で貧困に耐えながら生き抜く反骨の芸術家になるかは分かれ道。ナチやファシズム、スターリニズムは、バウハウスやアバンギャルドを徹底的に排除し、権力プロパガンダのために、アートを強制していったのはあまりにも記憶に新しい。

☆それにベルリンの壁が崩壊するまで、脳科学において右脳は、左脳に従属していたのだ。20世紀末は右脳の時代に突入する。

☆91年以降第14期中教審では、創造性をどのように教育に反映させるかやっと議論になっている。飛び級はある意味その成果だし、総合学習もその流れ。しかし、まだまだ日本では教育において「創造性」を育てるプログラムが存在しない。

☆とりあえず、2007年に学校教育法を改正し、高校の教育目標に「創造性」を育成する条文を挿入した。もっとも、幼児や児童、中学生は不要なのか?という議論はまだまだなされていない。「クリエイティブ」な行為のコントロールが初等中等教育で前面に出てきたと解釈することもできる。そうだとすると危うい。世界の動向とまたまた逆である。

☆そもそも「クリエイティブ」な行為とは、垂直的コミュニケーションでは抑圧されてしまう。慣習優先の社会では息がつまってしまう。だから抑圧は抵抗を生む。

☆その抵抗の理念によっては、革命にも、ゲリラ戦にも、戦争にも、暴力にも、犯罪にもなり得る。それなのに、ポストモダンは大きな物語には無関心である。

☆どうやら、個人は、自らの力によってではなく、外からコントロールされなければ危うい存在になっている。しかし、両刃の刃であるが、そこにクリエイティビティのエネルギーがあるのも確かなのだ。だから、学校教育法は先回りをしたのだろうか・・・。

☆近代化は資本主義とイコールではない。しかし、現在は資本主義が近代化をけん引しているのも確かである。資本主義は合理性、計算可能性、予見可能性を大事にする。可能性は論理によって計算されるから、合理性と論理性の2つだとした方がシンプルかもしれない。

☆その2要素を仕事の大前提にしているのが、官僚だ。そのような立場から見れば、「クリエイティブ」な行為は、非合理で非論理的に見えるのだろう。

☆しかし、ビル・ゲイツの提唱するクリエイティブ資本主義には、非合理ではあるかもしれないが、尖鋭な論理性がある。ここに突破口があるかもしれないと識者は注目し始めている。

☆ただ、問題は倫理性。倫理なきクリエイティブな行為を警戒するのは、ハワード・ガードナー教授である。つまり≪私学の系譜≫の重要性を訴えているのと同じなのだ。

☆金融資本主義がクリエイティブ資本主義になったとしても、倫理性が関与しなければ、バブル崩壊は常に想定内の循環システムを強化するだけなのだ。

☆「クリエイティブ」な行為のコントロールやマネジメントは実に難しい。しかし、この「クリエイティブ」な行為が暴走しないように、しかし鬱屈しないようにサポートするシステムをクリエイティブ・コミュニケーションと呼ぶとする。

☆すると、クリエイティブ・コミュニケーションが家庭で、学校で、地域で、国内で、海外で、歴史の動向の中で、貫徹していくことが必要になる。それゆえ世界と学校は結び付くように関心を広げる想像力が大事なのだ。何度も引用してきたが、麻布学園の氷上校長の次の言葉は強烈である。

学校とは、
時代の波を強烈にかぶり、
時には翻弄されながらも、その現実をひきうけ、
他方で、別の位相に立つ視点を失わず、
未来に向かって
開かれた「小世界」であり続けなければならない。

☆この「開かれた『小世界』」を形成するために、氷上校長は生徒とソクラテスよろしく議論をする。読書会をする。読書会では丸山真男の著作をほとんど読破し、マックス・ウェーバーの本に挑戦しているという。まずは学校で授業でクリエイティブ・コミュニケーションを創りだしているのである。このコミュニケーション能力を、卒業生が世界に伝播していく。これが本物のキャリアデザインだ。

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