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一日一言 新渡戸稲造【029】

一日一言 新渡戸稲造【028】のつづき。

☆12月30日 恥かどうかを顧みる

今年、自分が関わった出来事を振り返ってみると、・・・・・・・すべて正々堂々とやったかと問われれば、これまた恥じることがあるであろう。

☆たしかに・・・。理想と現実の違いを知るセンサーとして「恥じる」という気持ちはポイントである。

☆恥じるとはGAPの表象でもある。それは理想と現実のGAPももちろんあるが、これは当然過ぎる。

☆もっと身近なところにもある。宮台真司氏と東浩紀さんが子育てについて話し合っていた時、お台場やモールのようなショッピングセンターは、機能的だし、ローカルな教育空間のひだを無化するから批判的だったけれど、バリアフリーにできていて、子どもやお年寄りの生き方に配慮している部分があることを発見して、一面的批判を今さらながら恥じるというような場面があった。

☆メタ認知や振り返りのことだが、ここは実にカント的なのだ。物それ自体は認識できないということの実感が恥じるということなのだ。まして神自体を知ることなど不可能だ。

☆この実感を得ることがではなぜ大事なのだろうか。それは、知ることはできないということは、暗闇を手探りで生きているようなものなのだから、サーチライトや手探りの感覚システムをつくらねばしょうがない。

☆論理的に推論して、これでいけるだろうと。しかし、やはりズレてしまい、トラブルを起こしてしまう。そのリスクを回避するためには、恥という感性が大事なのだ。恥じることによって、そのトラブルを解決するために技術やシステムを改善していける。これを哲学的にいうと弁証法というのだろう。

☆神学的にはヘルメノイティークとでもいうのだろうか。新渡戸稲造の生きた時代は、カント、ヘーゲル、ハイデッガーの研究の時代でもある。クエーカー派として新渡戸稲造はどのように対峙したのだろうか?本格的新渡戸稲造研究を誰か行って欲しい。おそらく新渡戸稲造の流れをくむ私立学校のどこかがやる以外にないだろうが・・・。

☆もちろんプロフィールをたどる研究は山ほどあるが、新渡戸稲造の精神の構造をヘルメノイティークする研究である・・・。

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