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伸びる学校・停滞する学校あるいは失速する学校

☆98年・99年の私学危機のときに、そこから脱するために授業の質にこだわり同時に広報する私立学校の広報担当の先生方が誕生した。

☆今から10年前は、経営陣をささえる事務局ではなく、先生方が前面に出て広報出動したところがいちはやく生徒獲得戦略において成功を収めた。

☆しかし、成功できなかったところもあった。事務局と教師の間で組織では常にある葛藤がおき、力で広報の先生方が抑圧された場合脱することができなかった。

☆また教師間でも葛藤があった。同僚が広報の先生方の応援をするどころか足を引っ張ったり、無視をしたり、中傷したり、考えられないようないじめも起きたが、そういう場合脱することはできなかった。

☆10年よりその前の経営陣や事務局が前面にでて、広報活動をしていた時代は、先生方は教育に専念していればよかった。それを幸せな教師時代だとみるか停滞していた時代だと見るかは人によって違う。今でもこの時代を憧憬している教員も多くいる。

☆ともあれ、停滞していると感じていた教師は、社会の動きや世界の動きと教育が敏感に連動する時代が、ベルリンの壁崩壊以降到来していることに気づいていた。

☆世界は教育が非常に重要な問題になっていた。ベルリンの壁崩壊、冷戦終焉、金融市場という怪物の出現、国内の進路指導ではなく、世界の不透明かつ混迷の時代をサバイブする知が喫緊の課題であることを自覚していた。

☆そういう教師は、学内の葛藤を覚悟し、学内改革を広報という基地から遂行した。経営陣や事務局は、どんなにがんばっても静的な学校組織の説明しかできない。ところがこういう豊かな見識をもちつつ生徒たちとの日々の対話を授業で実践している広報の教師は、授業そのものを表現した。

☆そこには生徒たちの生き生きとした知的活動が映し出された。もちろん当時は学校だけではなく日本の組織は縦社会で高ストレス組織だったから、どんなにタフな教師も心は疲弊した。

☆それゆえ広報の先生方は一致団結してゆるやかな私立学校の連携チームをあちこちでつくっていった。それが今ではあふれるほどある学校連携説明会である。

☆そして、これとて当然ながら葛藤を生む。今度は学校間で。そんな中で切磋琢磨して生徒獲得戦略を成功させている私立学校がでている。

☆そしてこの過程で、アイデアから学内外交渉から、DM配布から説明会運営から何から何まで行っていた広報の先生方が、広報部の組織を形成しリーダーになった。

☆この状況が10年後の今である。だから、10年前と今とでは広報の位置づけが全く違うのである。

☆今日、広報部の組織化がなされていない私立学校は、伸びないし衰退していくだろう。なぜかというと、生徒獲得戦略は、学校組織戦略の一角であり全体なのだ。寺田寅彦ではないが、一杯のお湯を注いだ茶碗でおきている現象は、地球規模の自然現象のシステムの同心円状にあるからだ。広報組織、学校組織、そして授業システムなどなどは教育理念を中心に同心円状に広がっているはずだ。

☆これができていないところは、授業もあまりうまくいっていない。大学進学実績をあげていればそれでよいとうそぶいているところは、もしかしたら私立学校としての教育理念ではなく、公立学校のシステムとシンクロしている可能性があるから、要注意だ。

☆だから、逆に授業がうまくいっている、つまり知識、知恵、知性、創造性の統合ができているところは広報組織も、学校組織も教育理念を中心に同心円状になっている。

☆ただ、この同心円状は同調圧力も生むから、そこに自由闊達な議論ができる雰囲気が充満していなければならないという条件は重要だ。この条件がないと、その私立学校は停滞する。

☆さて、これから失速する危険性が私立学校の中ででてきた。10年前は、広報はまだ組織化されていなかったから、見識ある教師による広報=授業内容の理解発信という動きができた。理解は相手の心を思いきり変えるものだ。偏差値にかかわりなくクオリティで学校選択をというのが広まった時期でもある。

☆しかし、あれから10年たって広報の部署は組織化された。この組織化のあり方によっては、さらに飛躍する学校になるか、停滞する学校になるか、失速する学校になるかが決まるのだ。これが10年たって大きく変わった点だ。

☆その10年前とは違い、事務局と教師の協力関係がとれる広報部組織が出来上がっているところがある。この組織は強い。なぜなら、事務局はもともと縁の下の力持ちだし、フォロワーシップで鍛えられている場合がある。授業もしながら広報活動する教師をリスペクトするのである。そして広報活動する教師の足を引っ張る教員に対し無言の圧力をかける。見識ある教師が広報活動をやっている場合、自分を支援してくれる事務局の舞台裏の細々とした時間のかかる仕事に感謝する。このリスペクトと感謝の信頼関係が広報部の組織のベースにある時、その学校は飛躍のエネルギーが蓄積される。

☆同じような組織が広報の教師だけで結成されるときがある。しかし、ここでは事務局と教師というスタンドポイントが違うメンバーが連携するのとは違い、同僚がゆえに、難しい面がある。見識や学習観という価値観の違いはときとして連携ではなく葛藤を生むからである。権威主義が組織を覆ったとき、その組織はブレーキをかけるお荷物になる。教師にとって知はときに権威になるのだ。そのリスクマネジメントができる広報のリーダーが必要だが、そのトレーニングはまだ組織的にはできていないのが日本の現状だろう。

☆すると自ずと役割分担になる。役割分担は表面的には公平なのだが、立場が同じ人間同士だと遠慮という不公平感が小さなストレスを溜めることになる。しかも同僚がゆえに甘えが生じ、同僚に対する配慮がなくなる。同僚同士の中に役割分担と称し、表舞台に前面に出る教師と裏舞台で人知れず交渉し、汗を流し、夜を徹して作業をする教師がでてくる。キリスト教的信念でもない限り、そのストレスは無くなることはない。たまる一方だ。リスペクトされなければ、やーめたということになりかねない。そのとき、その組織は壊滅する。

☆企業の場合だと、そこは上司と部下の関係とお金で評価ということになるからコントロールしようと思えばギリギリできる。もっともそれではうまくいかないことも今では当たり前になっているが。

☆ところが学校の場合、その舞台裏で踏ん張っている教師を誰がリスペクトするのだろうか。リスペクトあるいは感謝。この信頼感のなくなった組織は、瓦解するのは火を見るよりも明らかだ。

☆しかも広報部が組織化したがゆえに、そのダメージは直接学校組織や授業システムに影響する。10年前は広報の教師の疲弊は、その人材を除けばそれでよかった。学校組織は延命できる。しかし組織化された今日、組織の一部の瓦解は、組織全体に影響が及ぶのである。心臓とか脳とか膵臓とか、代替不可能な組織が崩壊した時、組織全体も死に至る。

☆開成や麻布、桜蔭、JGのような学校は、特に広報組織はないではないかと言われるだろうが、このような学園は同心円なのではなく、一元論的図式である。授業も教育も広報も1つの組織ですべて行っているとイメージしてよいのではないか。きわめてシンプルなのである。授業は教育であり、教育は学校であり、学校は広報である。広報は信頼である・・・。すべては「一なるもの」である。持続可能性か死かそれしかない厳しいポジショニングにあるのだ。

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