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クオリティスクールの新コンセプト[002]

クオリティスクールの新コンセプト[001]のつづき。

☆クオリティスクールはCCP based Schoolのことなのだとすると、学校説明会やホームページでわりと簡単に判断できる。たとえば、海城学園の生物部は、休耕田復田作業を行っているとHPで発信されている。そしてこう書かれている。

* CCP=Creative Communication Project

「田植え」「稲刈り」といった体験はやろうと思えばできますが,「水田を復元する」という作業はなかなかできなのではないでしょうか?

Ccp_school_2 ☆農村体験をするところはたくさん確かにある。手を使って自然に触れるわけだ。つまりHands-on段階。しかし、海城学園の生物部員は、水田を復元するためにどうしたらよいかを考える。創意工夫までいかなければこの作業はできない。

☆創意工夫は思考と作業という行為の両ベクトルを広げることになる。その合力であるクリエイティブ・コミュニケーションは全開となる。ホームページを丁寧に読めば、このようなプログラムが満載なのが海城学園なのである。クオリティスクールであるのがわかるだろう。

☆桐光学園もスペシャルなコースが充分に用意されているのは、ホームページを見てもすぐにわかる。体験から創造的な思考と行為のプログラムがいっぱい。なかでも大学訪問授業は圧巻だ。宮台真司教授をはじめとする知の冒険者たちが桐光学園の生徒と語り合う。

☆プログラムがCCPベースであるのはわかるが、このような企画を実行する教師こそCCP based Teacherであろう。

☆栄光学園もそういう教師がいっぱいだし、そもそも生徒がそうだ。その点聖光学院は少し違うかもしれない。大学進学実績や偏差値はそれほど変わらない。でもCCPベースかどうかでは差異がある。

☆大学入試問題や偏差値はCCPベースではない。ロジカル・シンキングどまりでよいのだ。ロジカルな行為をするかどうかは問われない。だからそのような指標では学校の質は比較できないのである。

☆質はスコア化できないから比較できないのではない。条件が違うものどうしを比較することができないから質の比較はできないのだ。CCPベース指標と偏差値指標は、それぞれ条件が違うのである。CCPベースの方が偏差値指標より包括的であることは明らかである。

☆麻布学園は、中学受験のときからCCPベース満載のプログラムで生徒と対話するからおもしろい。開成は比較と類推の論理レベルでよいのだけれど、麻布の場合は、比較→類推→隠喩→逆説のループが語り合えなければならない。

☆もちろん、授業そのものは開成だろうが麻布だろうが駒場東邦だろうがどの学校を選択しても、比較からパラドクスまでのループをなぞるわけだが。。。このループは中学受験段階ではまだ体験知レベル。だから対話をしていて、身体でわかっているなぁで十分である。それが麻布や開成に進学してCCPベースなプログラムの中で論理的に了解していくのである。

☆CCPベースの志向性さえあれば、麻布や開成でなくても全く構わない。パラドクスを自分なりに越えた教え子は、高校卒業後に花開いた。自然と社会と精神を統合できる仕事についている。

☆それにしても、幻惑的というかジャーゴンがすさまじい廣松渉の「もの・こと・ことば」の理屈を平易な言葉(?)で国語の授業で展開できたのは実に興味深かった。小学校6年生でも目を輝かせてテキストを脱構築していけるのだ。

☆毎授業終了後、論説文と詩をセットにして記述式の問題を出題した。異質の文章に共通するなんらかの構造を見出して書きなさいという問題を毎回出題し続けたわけだ。言葉が喚起・歓喜する行為と感情、それを論理的に意味付けて読み解くわけだ。辞書的な通りいっぺんの意味を重ねても論説文と詩のループは見つからない。

☆筑駒と麻布と駒場東邦志望者が多かったからそのような問題で対話しなければならななかったが、あの当時の恵泉もそのレベルの国語の問題を出題していた。筑駒は抽選があったので、多くの生徒は暁星も受験したが、暁星もなかなかおもしろい言語モデルを背景にした問題を出題した。

☆偏差値70以上どころか65以上もほとんどいなかった。しかし、偏差値は関係なかった。当然なのだ。記述式の問題を大量に出題する学校の合格率を模擬試験で測ること自体がおかしいのだ。だから、偏差値ではなく、CCPベースの生徒であるかどうかを見極めることが大切だった。偏差値55でも対話によって、麻布に行きたい意志があって、CCPべースの感覚の確認できる生徒なら諦める必要はない。論説文と詩のループ問題は、その感覚があるかないかを見極めるテキストベースの対話だった。懐かしい・・・・。

☆桐朋女子志望者も偏差値ではない。CCPベースの感覚があるかどうかだ。一般的な国語の問題を解かせた後で、その答案に対し、桐朋女子の教師がどういう質問を投げかけてくるか想定問答を受験生に作らせた。問いがわかれば解答は自ずとでてくるという感覚をいち早く持てた受験生はやはり合格した。偏差値は関係なかった。それよりも何より、桐朋女子に合格した生徒は味のある対話をしかけていたような気がする。

☆逆に言えば、偏差値が高くてもうまくいかない場合もあるのは、実は理由があったのだ。だから、偏差値よりCCPベース(当時はこの言葉は知らなかったが)の学びや授業をがんがんやっていたのはそういうことだろう。もちろん、対話ベースの授業はうるさいから、CCPベース感覚のない隣人たちや教室責任者といっしょになったときはたいへんだった。

☆さて、公文国際も、入試問題からしてCCPベースだし、カリキュラムやシラバスもそうだ。その象徴が模擬国連だろう。ホームページの動画では、Survival Actが前面にでているから、Thinkingの部分が隠れてしまっているが、国際的な舞台でのプレゼンの準備は、Thinkingのベクトルが当然大きい。

☆寮生活もCCPベースそのもの。思春期を乗り越えるにはCCPベースのケアが必要であるが、寮生活をその拠点として機能するように、これまたCCPベースの教師が奮闘している。CCPベース指標でみれば、公文国際は聖光や浅野以上かもしれない。

☆開設4年目の白梅学園清修もCCP based Schoolとしての期待値が高い。教師が集まって、大学入試問題の勉強会をしている姿は、なかなかすてきな議論の雰囲気だ。入試問題を解く技術についてもちろん話し合っているが、もうひとつ大事なことは、入試問題から問いの構造を抽出していることだ。それに英語科、国語科、数学科教師があつまって、英語と国語の入試問題の分析をしているのだ。ミッシング・リンクを探そうとする意欲はどこから湧いてくるのだろうか。

☆また思春期学も汐見学長と勉強する企画を立て、まずは在校生と一般の保護者とともに講演を聴くところから始めている。思春期学の真髄はCCPベースそのものだと思う。それに4年生(高校1年生)はEU研修を実施しているが、庭園とエコ都市、ナチズムとクレー、パリとストラスブール、フランスとドイツなど比較の視点から、近代の理想と矛盾を調べ思考するプログラムはなかなか。アルザスのCEEJA(日本学研究所)のチューター(日本語ぺらぺら)とフィールドワークをしながら対話するプログラムはCCPベース。

☆かえつ有明もCCP based School。帰国生と一般生の弁証法をしかけるサイエンス科という独自のプログラムはその象徴。クリティカル・シンキングとIBコースで実施しているコアプログラムTOKのループを探し出そうとしている教師の複数の存在に驚愕。だれがシナリオを描いているのだろうか。国語科の教師の言語モデルと社会科の教員の社会学的見識と数学科の原理に立ち戻る思考と理科科の科学的思考がミックスされる。それに技術科の教師の驚くべき知がつながる。物としての道具ではなく思考する道具の使い方を常に考えている教師がいるのだ。フィンランドでは教師は大学院をでてなければならないが、その理由がかえつ有明の教師と対話するとよく理解できる。大学受験方法論とカリキュラムやプログラムが結び付くのは「本位」ではなく、学問と結びつくという点が「本意」。

☆もっとも感動的なのは、理論家の教師が、生徒ときとんと対話していることだ。その対話はもちろん過保護でも放任でもない。「ちょうど」の距離の対話である。創造的才能は、タイミングの良い対話の土壌が開花させる。ともあれ教師の知行合一の覚悟には頭が下がる。創設者嘉悦孝の精神が染み渡っている。

☆八雲学園のCCPベースなプログラムは、今や高度な暗黙知となって、学園内に浸透している。CCPが当たり前のレベルの学校である。CCPを理想としてそこに向かってがんばろうというのではない。すでに「ある」のである。

☆チューター方式はCCPベースの対話。芸術鑑賞はCCPベースなプログラム。ケイトスクールとの交流をしながらの英語教育も、CCPベース。大学受験指導も、明確にCCPベース。大学受験勉強という明確なコースがあるから、通常の授業はCCPになっているというのが明確になる。あとはこの二つの領域が役割分担ではなく、DNAのように螺旋になるだけ。大学進学実績が飛躍する日も近い。

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