クオリティスクールの新コンセプト[005]
クオリティスクールの新コンセプト[004] 愛光東京入試始まるのつづき。
☆中学入試が始まる一方で、それぞれの私立中高一貫校は、新しい年を迎え、新学期が始まり、各校の教職員会議では、年頭の気概が確認されている。かえつ有明でも、石川教頭は次のように語ったそうである。
国際情勢に目を向けると昨年末に地球温暖化防止に関する国際会議(COP15)が開催されました。結果は皆様がご存知の通りで、満足がいくものでは決してなかったと思います。地球温暖化防止のため2050年に向けて大幅な温室効果ガスの削減がサミットで先進国の中で合意されているのに、です。
ここで考えなくてはいけないことは2050年の社会を創っていくのは誰なのか?ということです。その主役となるのは今の生徒たちの年代の人間ではないでしょうか?現在の小学生・中学生・高校生はこれからの40年間でこの件を必ず解決しないといけないのです。世界のあらゆる国の利害が対立する複雑な問題を解決していく能力が必要となります。
日本社会に目を向けると環境問題だけではなく、高齢化社会の問題、国際秩序の変化など今まで直面したことのない問題にこの40年間で向き合っていく必要があるのです。
そして私たち教育現場にはこういった諸問題に立ち向かっていく能力を養成することが求められていると思います。これは非常に大変なことではありますが、逆に言うと教育現場にとっては非常にやりがいのあることであるとも言えます。
☆世界の動きと未来への思いとそこで活躍する子どもたちの様子を強烈なイマジネーションで結びつけて、そこに向けて教育していこうという気概である。しかも、この会議のあと、かえつ有明は教員研修を行って、この気概を教育現場で実践している「サイエンス科」の成果について確かめ、さらに改善し発展させていこうというプログラムも実施したという。
☆世界や日本の動向と教育を結び付けることをしないガラパゴス的学校現場の状況に、東大教育学部の教授陣は教育学的立場から危機感を抱いているが、かえつ有明にとってはそんな状況は無縁である。麻布の校長氷上先生が、
学校とは、時代の波を強烈にかぶり、時には翻弄されながらも、その現実をひきうけ、他方で、別の位相に立つ視点を失わず、未来に向かって開かれた「小世界」であり続けなければならない。
☆このように語られていることは何度も紹介したが、石川教頭の気概も同質であろう。そして石川先生は建学の精神の現代化についても話されたようだ。
本校の校訓は「怒るな働け」です。簡単明瞭な言葉ではありますが、非常に深い言葉であり、今後の教育実践の中ではこの校訓を常に意識していく必要があると思います。
「怒るな」という言葉だけでも深い意味があり、「働け」という言葉にも深い意味があり、組み合わさった「怒るな働け」という言葉には本当に深い意味があるのではないでしょうか?
皆様にはすでにお知らせしてありますように、本校では今年から高校募集を一部に限定し中高一貫の学校を目指しております。中高一貫は6年間という長い年月の中で生徒たちを育てていくことが出来ます。生徒一人ひとりにとって6年間がしっかりと物語となるように教育を考え、その幹の部分に「怒るな働け」をすえようと思います。
中学では「怒るな」を重視する。「怒るな」ということを「心」の教育と考える。「人」として生きていくために重要なことをしっかりと指導する。
そしてそれを基盤として高校では「働け」の意味をしっかりと考えさせる。冒頭にお話した変動する世の中にどうしたら各人が積極的に貢献することが出来るかをしっかりと考えさせる。これこそがかえつ有明のキャリアデザインではないでしょうか?
☆「怒るな働け」とは創設者嘉悦孝らしい表現だ。孝は、横井小楠の思想的系譜にあるから、陽明学的・水戸学的素養がある。それが表現ににじみでている。また一方で、孝は経済学をアダム・スミスの研究を通して学んでいるが、当時は英文原書で読んでいたというから、女子教育の鑑である。
☆アダムスミスは、「道徳感情論」と「国富論」を書いているのは周知の事実だが、この二著を結びつけて倫理的市場という古典的な自由主義であるという発想を嘉悦孝が理解していたとなると、それは相当すさまじい賢者である。「怒るな」の部分が「道徳感情論」で、「働け」の部分が「国富論」であるとする立場が石川先生の嘉悦孝の精神の現代化だとすると、スケールの大きな話ではないか。
☆渋沢栄一も、道徳経済合一論の立場にたち、「論語とそろばん」という著書を書いている。幕末にルーツのある≪私学の系譜≫は同じ根っこをもっているということだろう。
☆ところで、建学の精神の現代化はなぜ必要なのか?サイエンス科主任の山田先生によると、サイエンス科ではクリティカルシンキングをトレーニングするプログラムになっているが、重要なポイントは、批判の基準をどう設定するかであると。
☆批判の基準設定によっては、抑圧的になるし、無政府的自由主義になるし、批判すればよいというわけではない。かえつ有明の場合は、嘉悦孝の建学の精神に立ち戻る。つまりそれは知行合一の陽明学であり、倫理的自由という啓蒙主義的なアダム・スミスの古典的自由主義に基準を依拠するということなのだろう。
☆まったく実用的な発想だと思う。最近の東大や慶應の問題は、背景に現代思想や現代数学、現代科学があるが、それらの原理の根っこはまさにそこにあるからだ。別に大学入試のために実用的と言っているのではない。東大や慶應の大学入試問題は知の最前線の入口になっているから、引き合いに出したのだ。
☆時代と学校を結び付ける批判的あるいは創造的思考と行為は、その知の最前線とも結び付くのは当然だからである。
☆そして当然、クオリティスクールであるCCP based Schoolの場合、その私立学校への入門の準備である中学受験も知の最前線に直結しているのである。
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