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一日一言 新渡戸稲造【035】

一日一言 新渡戸稲造【034】のつづき。

☆1月5日 虚心

一 心に物ある時は心せばく体窮屈なり。物なき時は心広うして体胖(ゆたか)なり。

一 心に我慢ある時は愛敬を失ふ。我慢なき時は愛敬そなはる。

・・・・・・・・・

☆山上の垂訓ではない。徳川家宣の言葉の引用のようだ。

☆新渡戸稲造の時代は、日本の近代化の草創期である。社会の構造によって心に物をもたせられたり、我慢を強いられたりと考える余裕などなかったであろう。

☆いや考えたかもしれないが、だからといってあまりに大きなうねりを避けることはできない。そんな時だったからこそ、心に物質的あるいは社交的こだわりを持つ必要はなかったに違いない。すべては変わるからだ。

☆新渡戸稲造にとって、変わらないものを、水戸学にキリスト教に、あるいはなんでもよかった、変わらないものがそこにあれば、それを見出そうとしていたのではないだろうか。

☆境界線を引いても、それは大きなうねりのときにすぐに無意味になる。地盤がある程度安定しなければ、境界線は引けない。

☆包括的あるいは普遍的精神への感性と認識力のみがサバイブスキルだったに違いない。今日は、そこに目を向けるのは、なかなか困難。あらゆる体験は、境界線の中で行われているからだ。

☆教育学者コールバーグは、道徳(判断・認識)の発達段階を、プレ慣習段階―慣習段階―ポスト慣習段階と設定している。当たり前と言えば当たり前だが、現在の近代化は慣習段階ということか。

☆新渡戸稲造の時代は封建社会という慣習段階を創造的に破壊しようとしていた時期、いきなりポスト慣習段階に突入していたということだろう。

☆そういう意味では、今は近代化のステージとしてポスト慣習段階に進めるのか?しかし、明治維新のように、今度はどこが黒船になるのだろうか?もはや国単位の黒船ではないことだけは確かなようだ。

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