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受験市場から教育多層市場へ [13]

受験市場から教育多層市場へ [12]のつづき。

☆さて、現代家族の4タイプそれぞれが内包する問題について考えてみたい。まずはコンサバティブ家族。

☆現状の社会体制(この体制がいかなるものかこれはこれで膨大な議論が必要ではあるが、私たちの身の回りの社会環境のイメージを共有しているという前提で)や秩序に不平不満はあるし、ストレスもあるが、それに打ち勝って、現状の社会体制の中で勝ち組として自己実現を持続可能にする最小の単位の組織としての家族。これがコンサバティブ家族だとしよう。

☆この家族では父親が、家族のメンバーの自己実現のロールモデル。父親のこのロールモデルとしての自己実現のパフォーマンスが強く、それを支えるのがまた母親とする。そして、子どももこのロールモデルを受け入れている場合、典型的なエディプス問題が生じる。解決できれば勝ち組に近づくし、できなければ負け組。しかし、自らもコンサバ的な子どもは、この結果を受け入れるか、リタイアするか・・・。

☆だから、この社会構成を批判し、福祉制度によって補完しようというのが社会学者のたいていの場合の動きである。ニートを生みだしているのは、このようなコンサバティブな家族と同心円状に制度化されている社会構造であると。

☆しかし時どき、このコンサバティブな家族から、エディプスの価値をそもそも認めない子どもが現れる。自分の道を進み、家族からは変わりもの扱いされるが、そのような子どもの側に立てば、それはそれでカウンターとしての自己実現ではある。がしかし、ここに新手の家族市場が、彼らの居場所を作り、正当な場合もあればそうでない場合もあるというリスクが発生している。

☆いずれにしてもカウンセリングがここで機能する場合、体制維持を目的とする作用として道具化される社会問題も同時に発生する。子ども目線でという用語はこのタイプの世界での社会文脈の中ででてくることが多い。そういう場合は危うい。

☆しかし、その作用が働かず、問題が解決しないケースが増えてきている可能性がある。家族自体がエディプスの価値に重きをおかなくなってきているのだから、エディプスに問題の動機を求めても、なんら解決はできないという事態。

☆コンサバティブ家族にあっては、エディプスは社会の抑圧構造の正当化メタファーであったわけだが、もはやメタファーとして尊重しない家族が出現したらどうなるのか。抑圧構造である社会に同化するためのジレンマ克服の練習問題としてエディプスメタファーがあったのに、それがもはや練習問題として機能しないわけだ。

☆すると、ストレートに抑圧に反応するわけだ。この反応の凄まじさの例は、遠くの国で起きている。中東での惨劇と同じ構造なのだ。

☆しかし、反応は様々である。クリティカル家族は、社会の外部で生きていくことができないと了解しているから、サバイブスキルとして、たとえばエディプスコンプレックスをフィクションとして設定してシミュレーションする。ここからクリエイティブ・クラスが登場する場合が多いだろうが、なにせ大きな物語の消失した世界でのシュミレーションは、世界そのものがフィクションであるという感覚をもってしまう問題も新たに発生する。

☆また、こんなシミュレーションをするぐらいなら、現実に飛び込んだ方が速いと感じる子どもと親との葛藤も生まれる。逆エディプス問題・・・。カウンセリング自体フィクションであると解されるから、従来のカウンセリングの対話が成り立たないという問題も。リアルが大事だなんて言説も、実はこのクリティカルタイプの問題の文脈にのっかている場合もある。これはこれで危うい。

☆リベラルタイプの家族は、そもそも境界線を引くことをしない。自分の領域を中心に設定する。だが決してエゴではないのだ。自分の領域と他者の領域の関係が、あたかも市場の原理のように自動的に成り立っているという感覚。それをエゴだと設定するのは、設定するほうがコンサバティブなのである。倫理なき功利主義かもしれない。いずれにしても結果的に自分の領域が世界全体であるから、そこから引き出すことそのものができないのである。物それ自体は不可知であるがゆえに、そんな領域はないも同然であるという絶対的確信に到達している・・・・・・。絶対的自己同一はやはり危うい。絶対的矛盾自己同一でなければならなかったのはそういう意味か・・・。

☆パニック家族は、ジレンマの中にいることが居心地がよいわけだから、ジレンマに気づくことが解決の糸口であるが、すぐにジレンマの中に戻ってしまう場合が多い。自由にあこがれつつ秩序にあこがれる。すると進めなくなる。その状態に居続けることが、居心地がよい・・・。ここから出現してモンスターになる場合は、決断を避けるから、解決の糸口が見つけられない。ジレンマのそれぞれの極は、それ自体では正しいのである。正義のジレンマの中で、動けなくなる・・・・・・・。もちろん、その正義がだれにとって正義かという問題は残り、社会制度に反する正義(社会制度に反する正義があるかどうかの議論はまたいずれ)は、それはもちろん、どのタイプも同じで法の支配の適用があるが、そうでない場合の方が圧倒的に多い。社会制度上も正義の極なのだが、両極を満たすことができない。究極の選択を迫るが、自分では決断しない・・・・。

☆かくして、制度的に研究され、その解決方法が開発されているのは、コンサバティブ家族問題が多いのである。それ以外のタイプの家族が抱える問題に関して、解決政策や方法は、今のところ訴訟問題にでもならない限り、解決は難しい。しかし、その瞬間からそれぞれのタイプ固有の問題の性格は見えなくなる。家族市場はまだまだ発展途上である。

☆だから、教育からは、純粋な家族のタイプを作らずに、どれかが組み合わさるように育つ人材育成をするしか解決策は今のところ見出せない。対症療法であるかもしれないが、そのためにクリエイティブ・コミュニケーション・プロジェクト(CCP)のプログラムが必要になる。

☆その中でもクリティカルタイプが組み合わさるのは必須である。多次元をつなぐためには、クリエイティビティが必要であり、1つの世界で充足しないためには純粋タイプではなくハイブリッドタイプでいくしか現状では方法はないであろう。ただし、たんなる多元論ではうまくいかない。一なるものは多であり、多なるものは一であるという意味で多言論でなければハイブリッドは難しい。多様な要素がバラバラにあるだけではだめなのだ・・・。やはり見えざる手の働きは必要なのである。

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