« クオリティスクールの新コンセプト[068] 学校説明会が始まった | トップページ | 公立の限界を超えるために[02] »

公立の限界を超えるために[01]

☆「キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)
土井 隆義」
は、現代日本社会の消費・経済・メディア・思想の問題をコンパクトにまとめている。

☆宮台真司さんや東浩紀さんを直接引用はしていないが、この現代思想家をとりまく多くの論者のものの見方や感じ方をブックレットにまとめている。そして、みごとに現代日本社会の人間関係や思春期の問題などをきりとっている。

☆ところで、問題というのは乗り越えなければならない壁であり、境界線であり、それゆえ限界である。

☆だから、土井さんは、「キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像」といったとき、子どもたちを取り巻く環境の限界を整理しているのだ。

☆その取り巻く環境は、しかし、多層で多様なのだが、日本の社会は同質性の占める割合が高く。ほとんどの子どもたちが所属している環境は家族であり公立学校である。

☆ただ、家族はまた多様でひと括りにできない。ところが公立学校は小学校から中学までは、90%を占めているだろう。それゆえ土井さんの主語のない環境は、暗黙の前提として公立学校だと考えてよい。

☆すると、排除社会の典型として公立学校があるのだということになる。このことを意識して、本書を読むと、排除社会の問題性、つまり限界が、そのまま公立学校の限界であることがわかる。

☆大事なことは、だから公立学校ではなく、私立学校に行こうなんてことを言っているのではなく、その限界をつくった教育政策という教育システムをチェックするのは国民というか市民でしかないということだ。

☆しかも公立学校の限界を意識し、それをどのように乗り越えるかを考えることは、日本という排除社会そのものの、まさに今の閉塞状況を一人ひとりが乗り越える提案をすることにもつながる。

☆もちろん、公立学校の限界を一足飛びには乗り越えられない。明治国家以来の頑強なシステムであり、この壁にぶつかって幾多の卵が砕け散ったことか。

☆その場合は私事の自己決定によって、いったんは回避することもできる。それは心ある塾を選んだり、私立学校を選んだりという手段である。塾といっても受験市場ではなく、寺子屋のようなオケイコごとを学ぶ塾のような存在だ。

☆本来私立学校はその延長上であったかもしれない。しかし、今では受験市場と切磋琢磨しながら、取り込まれないようにしかし関係を持続しながら戦略的にサバイブしている。

☆そして私立学校は、回避の手段としても選ばれるだろうが、≪私学の系譜≫としては、そのような頑強なシステムのリスクをマネジメントをする気概を育てる場としても選ばれる可能性がある。

☆オケイコごと塾のようなシステムの限界を乗り越えていける人材をつくる学びの市場、システムを結果的に強化する受験市場や教育産業市場、システムの枠をはずす人材を育成する私学市場というように、「キャラ化する/される子どもたち」が内閉される限界をめぐる問題は、教育にとって避けて通れない。

☆土井さんの考え方は、あくまでも公立学校の限界の中で乗り越える新たな人間像の提案であるが、それでは、生まれる時代を選べない子どもたちには、少し遅すぎるかもしれない。限界を乗り越えると、つまり壁の向こうに問題の解決される原理があるとしたら、制度の壁の中で、自分の髪の毛を自分の手でひっぱって、乗り越えようとするのではなく、その壁をよじのぼって外に出る梯子をつくったほうがよいのではないだろうか。学びの市場と私学市場は、すでにその壁の外にある。

|

« クオリティスクールの新コンセプト[068] 学校説明会が始まった | トップページ | 公立の限界を超えるために[02] »

教育の挑戦」カテゴリの記事