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公立の限界を超えるために[02]

公立の限界を超えるために[01]のつづき。

☆ところで、公立の限界あるいは壁はなんだろう。土井隆義さんの次の言葉にヒントがあるのではないか。

人びとの価値観が多元化し、多様な生き方が認められるようになった今日の社会では、高感度の対人レーダーをつねに作動させて、場の空気を敏感に読み取り、自分に対する周囲の反応を探っていかなければ、自己肯定のための根拠を確認しづらくなっています。いわば内在化された「抽象的な他者」という普遍的な物差しが作用しなくなっているために、その代替として、身近にいる「具体的な他者」からの評価に依存するようになっているのです。

☆内なる普遍的で抽象的な他者という基準はなくなり、外からの具体的な他者の目線に反応するようになっっているということ。これは実は夏目漱石の「現代日本の開化」にあるように、まさに内発的なものではなく、外発的な力で国をつくってきた近代日本の姿そのもので、制度的にはいろいろ変わってきたが、ベースに変化はなかったということだろうか。

☆それから漱石の「私の個人主義」では、高いレベルでの自己本位が重要で、エゴではないのだという旨の考え方が語られるが、「抽象的な他者」を「自己本位」、「具体的な他者」を「エゴ本位」と置き換えると、ますます近代日本は今も健在という感じだ。もっとも、土井さん自身は、こういう安易な置き換えは困ると言われるかもしれないが、読み手の1つの解釈にすぎないとご容赦願いたい。

☆さて、この件と似ている文脈が子どもと学校に重ねられている部分がある。

今日の子どもたちは、多様性を否定する画一的な檻のなかへ囲い込まれていた時代とは異なって、むしろ多様性を奨励するようになった新しい学校文化のなかを生きています。学校の教師にも抑圧性を感じなくなり、仲間で団結して立ち向かう敵とはみなされなくなっています。そのため、学校文化に反旗を翻すことで成立してきた非行文化は、その基盤を徐々に失いつつあります。

しかし、いくら多様性が賞揚されるといっても、あらゆる個性のあり方が学校で受容されるわけではありません。そもそも周囲の期待にそうものでなければ、その個性が肯定的な評価を受けることはありません。とりわけ学校は、他人との密接な関係をなかば強制された空間です。そのため、今日の子どもたちは、かつてのように画一的な評価の物差しを押し付けられなくなった代わりに、今度は、身近にいる個別の人間から逐一に評価を受けざるをえなくなっています。

多様な個性のあり方が賞揚される現代では、普遍的で画一的な物差しによってではなく、個々の場面で具体的な承認を周囲から受けることによって、自己の評価が定まることになります。平たくいえば、そこでウケを狙えるか否かが、自己評価にあたって重要な判断材料となるのです。

☆これは東浩紀さんらのグループに言わせれば、規律型統治から環境型統治にシフトしただけで、檻や強制は依然としてあるということだろう。そしてこの檻や強制にあたる部分が公立学校の限界であり、壁である。

☆ただ、ここでちょっと気になるのが、前半の引用部分で語られている≪内在化された「抽象的な他者」という普遍的な物差し≫と後半の引用部分で語られている≪普遍的で画一的な物差し≫というのは同一なのかということである。

☆どちらも内面化されるのだが、前者の普遍性は決して画一的ではないような書き方だ。土井さんがどういう趣旨で書かれたかはともかく、この内在化された普遍的な物差しは、漱石的な自己本位なのか、国が押し付けたのか両方存在するということではないか。

☆実はこの違いが、私立学校と公立学校の差異なのである。私立学校の教育理念としての物差しは、国家や独り権力者の想いではない。基本的にはman for othersとしての基準なのである。

☆結局明治以来、私立学校というのは漱石の言う内発型開化をめざしてきたということではないか。公立学校は露骨な規律型統治は行われてはいないが、国の政策が生徒や保護者など個人に微分化されて強制されているということなのではないか。

☆そして土井さんは、この内在化された普遍的物差しを組み立てることはせずに、その限界の中で、限界を乗り越える政策を考えようと言っているような気がする。

☆それに対し、私立学校は内在化された普遍的な物差しとしての教育理念を人間形成に浸透させようとしているのではないか。

☆その場合大事なことは、教育理念の文言を昔のまま念仏のように唱えるのではなく、子どもたちが内面化できるように現代化しなくてはならないということだ。

☆それはともかく、公立の限界を乗り越えるには、その限界の外にある私立学校のようになるか、その限界の外にある学びの市場(受験市場への外注は壁を強化する。学びの市場と受験市場は違うのである)に外注するか、限界の中で昇華するかいずれかなのであろうか・・・。

☆いや、限界あるいは壁を崩す方法もある。もともとこの限界や壁は言語認識の限界に過ぎない。言語あるいは認識のパラダイムの転換が望まれるのはそのためだが、この道のりはあまりに遠い。

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