« 公立の限界を超えるために[03] | トップページ | クオリティスクールの新コンセプト[068] 私学の学び様々 その表現の競争時代到来 »

公立の限界を超えるために[04]

公立の限界を超えるために[03]のつづき。

土井さんの岩波ブックレットを読めば読むほど、公立学校はヤバイ。公立学校の教育システムのパラダイムや先生方の本当の支援をしなければ、子どもたちを守るのは家族以外にない。ところが、今日家族の機能が変質しているといわれている。ではどうしたらよいのか?

☆家族問題は今は置いておいて、ともかく、公立の高校入試を中心とする受験市場を含めない学びの市場に家族が投資をするか、中学入試を入口とする私学市場(この市場を支援する受験市場の一部はOK)に家族が投資をするかしなければ、子どものそして日本社会の未来を幸せにしないシステムが頑迷固陋の壁の中で温存されてしまう。

☆公立学校のシステムをきちんと相対化して、教師の責任に負わせ、結果的には異動によって問題をたらいまわしにするシステムを改善していく必要があるだろう。マスメディアも、ここをきちんと取材して報道する必要があると思う。

☆土井さんの「子どもをキャラ化する大人たち」という章に次のような語りがある。

昨今の日本では、犯罪者をキャラ化し、その人格特性を個人的な所与の資質とみなす傾向が高まっています。理解不能なモンスターと捉え、異物として一方的に圏外化しようとする傾向が強まっています。そして、その傾向に随伴するように、犯罪被害者に対する社会的な関心が高まっています。

☆たった133文字の文章なのに、この背景にある文脈層の分厚いことに恐怖を感じないではいられない。刑事関連法の考え方が、どうも戦時中のような雰囲気を漂わせている。

☆犯罪者を他の言葉に置き換えるや、とたんに強制収容所のあの決して忘れてはならない忌まわしい事件を想起させる。二度とあんなことはやってはいけないのだが、実はすでに同根のシステムが稼働しているというのか。そしてまたいじめの構造も同じだろう。

☆さて、土井さんは子どもをキャラ化する大人たちと言っているわけだから、上記の引用文にある犯罪者を子どもに置き換えて読むことが可能なのだ。すると、個性重視と言いながら、理解可能な個性と理解不能な個性に分断する境界線が、公立学校でも引かれている可能性があるということを示唆しているのだろうか。

☆どうして、そんなことが言えるのか?キャラ化とは内なる普遍的な物差しがなくなったことによって生まれているという文脈が土井さんの書いているブックレットには流れていて、公立学校には内なる普遍的な物差しを育成するシステムがないからだ。

☆もちろん、心ある教師がそれを担ってはいるが、そういう教師はシステムとして育成されていないから、世代交代によって、どんどん内なる普遍的な物差しは空洞化しているのである。もちろん学習指導要領には、なんとか普遍的で画一的なものさしを持続しようという流れはあるが、それはファシズムを想起させる危うさを拭いきれない。

☆自分のオリジナルでいて普遍的な物差しが内面化されていないから、他者の反応や目線に応じてキャラを選択し出動させる。それによってぶつかりあわない人間関係の保険を作ろうとしているのが、公立学校の教育システム。

☆心ある家族どうし、学びの市場、心ある教師の存在がまだなんとかあるから、キャラ立ちさせる内面的な良質な物差しが細々と形成されている。しかし、その良質が必ずしも普遍的であるかどうかはわからない。

☆この公立学校に忍び込んでいる教育システムを強化する受験市場もあるが、そこは学校側に、こんなことを平気で言う。「教育理念なんかにこだわっていたら、生徒は集まらないよ。理念を捨てなさい。校名を変えなさい」と。もちろん、そうでない受験市場もある。そのような私学市場とカップリングができている受験市場に投資するのは悪くないだろう。

☆たしかに、消費者にはそこの見分けがつきにくいが、面談で学校選択の相談をしたときに、それはすぐにわかる。塾を選択するときには、クオリティスクールにどれくらい合格しているかリストを見ることと、学校選択の考え方についてもきちんと質問しておくことが肝心である。

☆そんなわけで、内なる普遍的な物差しを育成するシステムは私立学校にはあるのだ。だから教育理念を前面に出しているのである。その理念を内在化させるのが私立学校なのだから。

☆接客とおもてなしは違う。公立学校では、接客に順当するようなマナーは指導できるが、おもてなしの心は指導できない。おそらくその壁を崩すと、意識しないまま宗教教育が忍び込むのを防ぐことができない。宗教教育はオープンシステムとして行われるのは健全だが、そうでない場合は、指導者の権力が忍び込むリスクを回避できない。

☆内なる普遍的な物差しは、宗教教育でなければ、到底到達できないのである。私立学校は、教育理念を掲げるかぎり、その教育システムの構造は、ミッションスクールでなくても宗教教育のシステムと同構造である。そしてそれを標榜するのだから、オープンなシステムなのである。

☆物差しとは結局関数態である。社会や自然そして人間の精神の関わりの中、つまり関数態の中で、自分は今どこに立っているのか相対化する基準が内なる普遍的な物差し。

☆この物差しがないと、関係を実は読み切れない。この状態の人間関係は、物理的に隣接していることだけが、関係を証明する単純なものである。だからモバイルメールは、それを証明するのに適している。相手が実際には誰だかわからなくても、隣接している錯覚が生まれるのだ。

☆この状態の因果関係は、隣接。それがあったから今があるというような感覚。だから、トラウマが人生を決めてしまうというような宿命論がはびこる。生まれた時代や環境を人は選べないのに、過去こうだったからこうなる運命なのだと。

☆メールを返してくれないから疎外されているのだと。。。携帯を使っているから犯罪が起きたのだと。。。

☆こういうキャラだからこういう人間になってしまうのだと。。。

☆かつて、レッテル貼りという言葉が使われたが、今はキャラなのである。レッテル貼りは、レッテルをはがせば、そこにはまだ何かがあるという感覚が残っている。しかし、キャラは、あるかもしれないが、そんなの関係ないのである。

☆自分の立ち位置がわかれば、現状を分析して、あるキャラ化せざるを得ない関係が今あるなあと相対化でき、関係を変えたり抜け出る努力が可能だが、この相対化ができないと、その位置のまま人間関係を維持するキャラを演じきることになる。

☆するとそのキャラだからということになる。そして内なる普遍的な物差しが不在なのをいいことに、そのキャラが内面に居座ることになる。これがキャラ化のプロセスである。

☆もはやレッテルをはがそうとか、先入観を払しょくしようということが、人間関係の中で生まれない。そのままのキャラを演じ続けることができる集団が居心地がよくなるわけだ。そんな関係を続けざるを得ない心的状況は、土井さんの言うように、人間関係の強迫観念に抑圧されている状態である。

☆大学進学実績や偏差値によって、進路を決定する受験市場の教育システムが怖いのは、この内なる普遍的な物差しの育成機会をつぶすことに結果的につながるからである。内なる普遍的な物差しへの欲求の代替として、現状の社会の中で安心安全な立場に立てるキャラ化への欲望を加速させるのであるから。これは格差を生みだす構造でもある。

☆一方私立学校の教育システムは、生まれた時代は選べないが、未来を変えることはできるのである。今の社会や自然、精神の関係を相対化し、教育理念が浸透するようなパラダイムと社会構造を組み立てていけばよいのであるから。これが格差社会を改革する構造なのである。

|

« 公立の限界を超えるために[03] | トップページ | クオリティスクールの新コンセプト[068] 私学の学び様々 その表現の競争時代到来 »

教育の挑戦」カテゴリの記事