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一日一言 新渡戸稲造【067】

一日一言 新渡戸稲造【066】のつづき。

☆2月6日 真の慈善

たとえ一円の施しができなくても、心だけは貧しい者に対して哀れみを持ちたいものだ。・・・・・・金銭を与えるなら財宝以上の心をもってすべきである。

☆議論の奥義がここにある。対義語の発展形である二元論的思考では、平行線をたどるし、問題は解決しない。対義語は国語辞典的な習慣的な用法であるから、なおさら隠れた権力があり、理念の現代化などできない。

☆対義語の次のステップとして、差異化である。物質的慈善と精神的慈善のどちらが望ましいか?現実的には食べていけなければ生きてはいけないだろう、いや死を直前に幸せであればよいのだからそのサポートを。これではいつまでたっても解決しない。

☆ポストモダン的世相がまだ続いている現状では、人によるから精神的慈善もありだけれど、物質的慈善がいいに決まっているじゃんとなる。

☆そこで物質的慈善自体差異化である。あるいは精神的慈善自体の差異化である。財宝以上の心とか、心以上の財宝とか・・・。つまり弁証法ということなのだろうけど・・・。

☆この弁証法って言葉が、また流行らない。

☆しかし、みんなコミュニケーションが大事だと言っている。それを否定する人はあまりいない。弁証法という訳がわるかったのかな。対話しようよという意味なのだが。

☆おしゃべりからはじまって、真理を見出し、議論を経て、編集にいたり、ついには独自のプレゼンがアウトプットされる過程が対話であり、そのことを弁証法と訳したわけだ。昔の人が。大事なことは、やっぱり議論の本位。

P.S.

それにしても道徳とは二元論にとどまることだということもここでわかった。体制を保守するには重要な危機管理の考え方ではある。ただ、次のステップとして差異化することによるコペルニクス的転回がないとリスクが発生することになる。道徳から倫理へ。これも対義語ではなく差異化だ・・・。

九鬼周造なら、対義語を押し通す道徳を野暮、差異化を生みだす倫理を粋と表現しただろうか・・・。

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