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クオリティスクールの新コンセプト[080] 東京女学館と日本女子大附属

クオリティスクールの新コンセプト[079] 洗足が強いわけのつづき。

☆東京女学館と日本女子大附属は、両校とも渋沢栄一翁が創設にかかわった学校であるが、その理念は現代化されているのだろうか。それとも不易流行の不易の部分だけが権威主義的に継承されているのだろうか。

☆渋沢栄一翁の原動力は、世界に目が向いていたことにある。ヨーロッパ視察で、資本主義のパワーを日本に移植することを押し進めながらも、論語の精神を接ぎ木した。ヨーロッパはキリスト教を世俗化し、無化していく資本主義の過程を歩んでいたが、渋沢翁は、「論語と算盤」にあるように、良き競争原理を作ろうとした。そして晩年渡米し公共事業・慈善事業に身を投じた。教育事業もその一環だったはずである。

☆この「論語と算盤」の精神の現代化こそ両校に求められるのに、生徒募集に関しては技術的に「算盤」だけで乗り切ろうとしたのだろうか。

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☆2003年両校とも、2回入試を設置した。たしかに総応募者数は激増した。しかし、両校ともその定員からすれば、1回の入試で400から450名集まれば十分だったはずだ。

☆これは教育力をさらに高めれば、回復できたはずだ。しかし、それはやらず、生徒募集の技術的方法論で、乗り切っているのは残念だ。東京女学館は、日本女子に比べゆるやかに減っているように見えるが、実際には国際学級の午後入試を増やしているため、見た目の数はキープしているように見えるだけである。

☆フラット化した社会がすべてよいわけではない。新たなデメリットに遭遇することのほうが多いかもしれない。しかし、だからこそそのリスクをマネジメントできるサバイバル能力が必要だ。

☆その能力とは何か?それを追究する教育改革がないまま、質は高いが従来のままの教科勉強の保守は、やがて大衆知識人あるいは大衆教養人に見放される危うさもあるのではないだろうか。

☆フラット化社会と知識基盤社会とは、権力的教養や大衆の時代から大衆的教養人とか大衆的知識人へのシフト、つまりファーストクラスからクリエイティブクラスへの転換なのである。渋沢栄一翁のビジョン「論語と算盤」の現代化の時代が到来しているはずである。

☆このビジョンを追究して、東京女学館の教育改革を実行していた渋沢雅英館長は、去られてから後どうしているだろうか。98・99年の私学危機の時期に、壮大な新しい学びの構想を実行して乗り切ろうとしていた姿をふと思い出した。

☆ところで、渋沢栄一翁の縁戚が創設にかかわった白梅学園の中高一貫部「白梅学園清修」では、今渋沢翁のビジョンの現代化を教育の中で組み立てようとしているようだ。≪私学の系譜≫をたどるうえで興味深い現象であるが、渋沢翁直系の学校でこそフンバッて欲しいと思うのは、保守的な考え方だろうか。。。

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